第2話 世界は変わる

「お嬢様、如何なさいましたか?! お嬢様!」


 誰かの声が耳元で響く。うるさいなぁ……。ん……、この声はいつも小言の多い坂井部長? あれっ、もう出社してきたの?!

 やばい! 書類をまとめて朝までに提出しなければいけないのに! どうしよう、私ったら寝ちゃったんだ!


『わっ、すみません部長!! 至急終わらせますの……で…………? って、あれ?』


 目の前には坂井部長ではなく、質の良い黒いタキシードを着こなした、いかにも仕事が出来そうな白髪の老紳士が私を見ていた。凛とした美しい姿勢に、優雅ではあるが隙の無い顔つき。その佇まいはまるで熟練の執事の様である。

 しかし、何処かで見たことがあるような顔だけれど……。


「ミルファネアお嬢様……、いきなり倒れられたので驚きましたぞ。何処か具合が悪いのでしょうか?」


 ——————驚いた。

 寝ぼけた頭が一瞬にして覚醒した。


 だって、目の前の老紳士の言葉はそもそも日本語では無いのだ。しかし、懐かしくも馴染みのあるそれは容易に理解する事が出来た。


 ミルファネア……サシャール。


 ガルナタージュ王国の三大公爵の一つ、サシャール公爵家に唯一生まれた女の子。蝶よ花よと育てられ、何不自由なく貴族として生きてきた十六年の記憶。

 しかし、電車の中で全てを思い出したのはつい先程のことだ。

 ここはもしかして、夢の中なのだろうか……?


 戸惑いながら辺りを見渡してみると、見覚えのある廊下だった。

 大理石の床には重厚な赤い絨毯がどこまでも続いており、シックな壁紙を辿ると幾つもの絵画が飾られている。窓枠や部屋のドアノブ一つに至っても、精巧なデザインが施されており、夢の中なのにここまで詳細に思い出している事に驚いた。

 窓から差し込む光は空高く、今が丁度お昼時だと言うことを物語っている。

 更に辺りには、懐かしい顔ぶれの侍女数人が控えており、私はその一人に支えられながら廊下の中央で座り込んでいた。


「……お嬢様? やはり緊張されて具合が悪いのですかな?」


 目の前の見覚えのある老紳士が、心配そうに再度声をかけてきた。


「……緊張? 具合は悪く無いけれど」

「それはよろしゅうございました。本来ならこのままお嬢様の寝室へ直行し、安静にしていただきたい所ですが、本日はそうはいきませんからね。では、参りましょう」


 そう言って老紳士は私の手を取りゆっくりと歩き出した。


「行くって、何処へ……?」

「フッ、ご冗談を。あれ程今日の日の為に挨拶を練習したのです、お嬢様ならきっと大丈夫ですよ」


 そう言って、くしゃりと優しく微笑んだ顔からは慈愛が溢れていた。

 あ……!! 

 その笑顔を見てやっと目の前の老紳士を思い出した。確か彼は————


「っ……!! ジェパード……——」

「さぁ、お嬢様! 記念すべき日です、どうぞ心からお楽しみくださいませ」


 思い出した直後、彼に優しく背中を押されてしまう。すると何やら、下からザワザワと大勢の声が聞こえてきた。

 廊下から続く緩やかな階段を見下ろすとエントランスホールがある。そこには派手なドレスやスーツで正装した人々が皆、こちらへと注目していたのだ。

 何?! でもこの記憶は確か……


「私の可愛いミルファー、お誕生日おめでとう。さぁ、ご来場していただいた皆様にその小鳥のような愛らしい声で挨拶をしておくれ」

「お父様……」


 階段の下からは、記憶より若々しい姿をしたミルファネアの父親が現れる。


 そうだ、これは毎年私の為に開催してくれた誕生日パーティーの風景だ。

 公爵家のパーティは大規模だ。ざっとホールを見渡しても有力貴族達が百人近くはいるだろう。更にそれぞれのお付きの従者や、公爵家の使用人を含めると相当な人数がいる。


 懐かしい夢だからと言っても、三十年間、榎本未亜えのもとみあとして平凡に生きてきたのだ。ここまで大勢の貴族達に注目されるとなると緊張しない方が無理な話しだろう。いくらミルファネアとして何度も経験してきた事とはいえ、事前準備も無くいきなり挨拶と言われても……。


 ざわついていたホールは父の一言で一気に静まり返り、皆んな品定めをするかのように私に注目していた。

 極度の緊張で言葉に詰まり、背中にはツーっと冷たい汗が流れているように感じる。

 怖い怖い……このリアルな感覚が恐ろしい。もう夢なら早く覚めて欲しい!!


 そう願っても、時は刻々と静かに過ぎていく。私は仕方なく腹を括った。

 遠いミルファネアの記憶を呼び起こすしかない。そして一時期、私は結婚式会場で働いていた事がある。その時の司会業務だと思えば、この緊張もいくらかマシになるだろう。


「えーー……、本日は……」


 先程お父様が言った通り、小鳥のさえずりのような弱々しい声が出た。もちろん、この広いエントランスホール全体に行き届く程の大きさではない。

 このボリュームで話し続ける事は、数え切れないほどの披露宴会場で司会をし、培ってきたプライドが許さなかった。

 私は瞬時に仕事用の裏声に切り替えると同時に、十六年間ミルファネアとして生きていた際に身につけた、ある魔法を無意識かつ自然に発動させたのだ。


「ご来賓の皆さま、本日はわたくし、ミルファネア・サシャールの誕生日パーティーに遠路遥々お越しいただき、誠にありがとうございます。」


 よし! 上手く出来た!

 私の発した声は、予想通りホール全体に響き渡った。

 使用したのは音声拡張の風魔法だ。この世界の貴族は十歳になると家庭教師から魔法を徐々に教わるが、このように空気を振動させる魔法は魔力の微調整がとても難しく、ミルファネアも習得するのに何年もかかった記憶がある。

 夢の中だとは理解しつつも、魔法が成功した事に喜びを噛みしめつつ、続けて挨拶の言葉を発した。


「本日はお日柄もよく、ファネラの花も満開で、まるで皆様とご一緒に祝福していただいている様でございます。わたくしがここまで健やかに成長出来たことも一重に皆様のおかげに存じます。今後ともサシャール家の娘として恥じない様、日々精進していく次第にございますので、家族共々末長くお付き合いしていただけますよう宜しくお願いいたします」


 私は両手でドレスを摘まみ、ミルファネアが何百、何千回と繰り返し行ってきた、洗練されたカーテシーを披露して締めくくった。

 よし、サシャール公爵家の令嬢として多分合格点は行った。これくらいで大丈夫だろう。


 しかし会場は未だにシーンと静まり返ったままである。

 ……おかしいな、気づかないうちに何か変なことを口にしてしまっただろうか……?

 私は恐る恐るエントランスホールに目をやると、お父様を含めて全員が、揃いも揃って唖然としていたのだ。


 まさか、失敗しちゃったのかな……?! どうしよう、みんなの視線が怖すぎるんですが……!!

 私はどうにかしてこの場を去りたくて、シーンとした会場の中、無理やり言葉を続けた。


「つきましては会場に多数の軽食をご用意しておりますので、ご歓談の際には是非ともお召し上がり下さいませ。本日は皆様心ゆくまでごゆるりとお過ごしいただければ、わたくしとしても幸いでございます。では、これをもちまして、ミルファネア・サシャールのご挨拶とさせていただきます。重ね重ねになりますが、本日はお越しいただき誠にありがとうございます……」


 最大限の営業スマイルを作り、エントランスに降りる事なく踵を返すように廊下へと方向転換した。

 その瞬間……


「冗談だろう? 今のはまさか、拡張魔法……なのか……?」

「あのようなしっかりとしたご挨拶が出来るなんて、信じられないわ」

「いやいや、あれ程優雅で完璧なカーテシーは見たことがないぞ」

「まだ幼いのに裏声なのか? なんとも流れるように上品な声には驚かされたな」


 先ほどとは売って代わり、次々にミルファネアに対して称賛の嵐が巻き起こっていた。

 あれ、成功したって事なのかな……?

 たじたじと振り返るとお父様とバッチリ目が合った。


「なんて事だ……、私の可愛いミルファーは天才なのか……? になったばかりなのに、もうこんなに大人びてしまって……!」


 嬉しいような悲しいようなどちらとも取れない表情をしたお父様は私の元へと駆け寄ると、ギュッと思いきり抱きしめてきた。


 あら、これは五歳の誕生日だったのね……。だとしたら、かなりの勢いでやり過ぎたのかもしれない。


 階段の下にいたお父様は近くに来るととても大きく、軽々と抱き上げられて更に年齢を実感した。


 はて、人に抱きしめられるのはいつぶりだろうか。お父様と言ってもこの時点では三十歳にも満たない歳であろう。顔も恐ろしいくらいに整っていて、逞しい胸板と腕に包まれていたらドキドキしてきた。


 ま、いっか、夢の中だしね。


 お父様の腕に包まれながら、暫くの間、ミルファネアへの絶賛の声は途切れる事は無かった。

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殺されたわがまま令嬢は転生を経て犯人の腹黒王子に溺愛される @snoop

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