恩師のこと

高石すず音

恩師のこと

店先の空っぽの陳列棚。


「ひと家族様ひとつまで。」


手書きの貼り紙が、今日もまだ役目を終えられず、冷たい風に吹かれていました。


流れ続けるデマ。煽り文句。荒んだ気持ち。


大人達はこれまで、いったい何を学び、生きてきたのか-ーそんなことを思いながらニュースを見ていると、この春、卒業を迎える高校生へのインタビューが映し出されました。


「もう、卒業式の時期か……。」


忘れそうになっていた自分も、偉そうなことを言いながら、結構すり減っていたようです。


******


「卒業」ときいて、ふと恩師のことを思い出しました。


中学の頃にお世話になった、国語のK先生。


先生は福岡の小倉で生まれ、終戦の日を迎えたそうです。死と隣り合わせの少年時代を送った、古き良き時代の、懐の大きなおじいちゃん先生でした。


夏休みの宿題。お世話になっている先生方に暑中見舞いを出すこと。


冬休みの宿題。お世話になっている先生方に年賀状を出すこと。


先生に手紙を出すと、返信には、キュートなキャラクターのシールなどなど……と一緒に、板書と同じグニャグニャの文字が踊っていました。


定期テスト。択一式の答えを繋げて読むと、「汗臭い腰掛け」とか「おかき食うけぇ」とか、不思議な言葉になり、答案用紙の最後には「落書きコーナー」があって、佳作には花マルがつきました。


落書きコーナーも、先生も。多感な年頃の私には、堅苦しい世界の隅っこにある自由でした。


そんな先生の、太宰治『走れメロス』の授業。先生はいつも、日付と同じ出席番号の生徒を指名しました。その日は、私の当たり日。さては音読か、と身構えていました。


ところが、開口一番。


「教科書の168ページ。作者紹介のページを見てみぃ。」


太宰治の写真を見せながら「陰のある感じの、キザな男ですやろ?」と、大作家の波乱万丈の生涯と作風を語るのでした。


こんなことを平然と仰るので、いつも私は、授業をきいているような、きいていないような涼しい顔を一生懸命につくりながら、先生の話に熱心に耳を傾けていたものです。


先生の机は、職員室の本室から離れたペントハウスにありました。本室を出たら、幾つかの階段を上って、長い渡り廊下を抜けて、そこからまた別の建物の螺旋階段を最上階まで上って、ようやく辿り着く職員室の飛び地です。


この分室は、個性が強めの古参の先生方が机を並べていて、入りづらいけど居心地のよい、隠れ家のような空間でした。日直の用事で届け物に行った時は、ひと言ふた言、会話をするのが楽しみでした。


でも、周りに「いい子ぶってる」と思われるのが怖くて。そして何より、年頃の女子だったので。どうしても、呑兵衛でクセの強いおじいちゃん先生に自分から会いに行くなんて、考えられませんでした。


******


大人になって、いろいろあって。書き物をするようになり、恩師のことを思い出して。


ふと、あの頃に戻って、先生のところへ一番に。ポケットにおやつを忍ばせて、私の書き物を届けに行きたくなりました。


色々な作品をいっぱい書いて、放課後にこっそり、あのペントハウスを訪ねては、どうでもいい話をして帰っただろう思います。

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恩師のこと 高石すず音 @takaishi_suzune

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