第五十話 叡智竜の瞳

「《神の見えざる手》について私が知っているのは、これが全部。参考になったかしら、ルナエール?」


 ソピアの言葉にルナエールが頷く。


「ありがとうございます。これで足掛かりはできました。やはり王国内で捜すには限度がありましたね」


「そう……じゃあ、後は頑張って。私は今から、急ぎの用事があるの」


 さっさと賑やかな都市から逃げて、人里離れたところに隠れ住まなければならない。

 ルナエールに正体がバレれば殺される。

 おまけに《神の見えざる手》まで敵に回してしまったのだ。

 まず間違いなく刺客が送り込まれてくる。


 恐らく、ソピアの処分には《第六天魔王ノブナガ》か《沈黙の虚無》のどちらかが向かってくる。

 ノブナガは文句なしにこの世界最強格の魔人である。

 彼の手の内はある程度知っているとはいえ、ソピアが十全に対策を練って罠に掛けたとしても、勝機はその上で十に一つといったところである。


 《沈黙の虚無》に関してはソピアでさえ何もわかっていない。

 ただ、《世界王ヴェランタ》は《沈黙の虚無》のことを異様に信頼しているようであった。


 ソピアはこれまで《沈黙の虚無》が喋っているところを一度も目にしたことがない。

 人間らしい心や情が《沈黙の虚無》にあるとは思えなかった。

 《第六天魔王ノブナガ》も残酷な戦闘狂であるが、まだ彼の方が温情を期待できる。

 性格や戦い方がわかっている、という安心感もあった。

 どちらかを相手取らなければならないなら、まだ《第六天魔王ノブナガ》の方がいい。


 未知というのはそれだけで恐ろしい。

 この世界において知らないことなどほとんどないソピアにとって、その考えは常人よりも大きなものだった。


 ソピアはふらふらと、商会長執務室の外へと向かおうとする。

 ニルメインがそれに付き添い、彼女の肩を支えて歩く。


「ソピア、あの、謝礼の《虹の指輪》はここにありますよ。とても価値のあるものなのは、私も保証するのですが」


 ルナエールが机に置いた指輪を指で示した。

 ソピアはルナエールを振り返ったが、力なく首を左右に振った。


「……疲れたの。今は何も考えたくない、持って帰って」


「そうですか? ああ、金の水晶も、床に投げ出したままですよ。ドラゴンの瞳ですか、これは」


 ソピアは慌てて振り返った。


 確かにソピアが嘔吐した際、誤って手から《ティアマトの瞳》を放していた。

 さすがに《ティアマトの瞳》は重要なアイテムである。

 今後、ルナエールと《神の見えざる手》から逃げ回るためにも必要になる。


 八千年以上、ソピアが連れ添っていたアイテムである。

 彼女がここまで長く生きられたのも、《世界の記録者ソピア》の名を手に入れたのも、《ティアマトの瞳》のお陰であった。

 彼女にとって自分の半身、いやそれ以上のアイテムである。

 《ティアマトの瞳》で世界の各地を観察するのが彼女の生き甲斐でもあった。

 さすがに疲れたからと言って捨て置くわけにはいかない。


「そうね、ありがとう。忘れるところだっ……」


「……なぜ、水晶にカナタの姿が?」


 これまでとは違う、敵意の込められた冷たい声音だった。


 ソピアも一瞬で現状を理解し、血の気が引いた。

 そう、ルナエールが乗り込んできたときも、ソピアは《ティアマトの瞳》を用いてカナタ・カンバラの様子を観察していた。

 映しっぱなしになっていたのだ。


 ルナエールはソピアを協力してくれるかもしれない相手として見ていたため、奇跡的に思考の死角に潜り込む形になっており、ソピアと《神の見えざる手》が結び付けられずに済んでいた。

 だが、ソピアがカナタ・カンバラを監視していたことが明らかになれば、いくらルナエールとてそこの繋がりを疑うのは当然のことだった。


「カナタと知り合いだったのですか? いえ、そんなこと、有り得ませんよね。さすがにあなたのような大物と交友関係を築く機会はこれまでなかったはずです。どこでカナタのことを?」


 ニルメインは顔を両手で覆った。

 さすがにこうなった以上、言い逃れは不可能である。

 今までのソピアの滑稽なその場凌ぎのでまかせが全て無駄になった。


「答えられないのなら質問を変えましょうか、ソピア。あなたは《神の見えざる手》の……」


「そ、その《ティアマトの瞳》は、魔力を込めて覗き込んだ人の、見たい場所や、人を見せることができるの! アナタの魔力に反応したんでしょう!」


 ソピアが声を張り上げてそう言った。


「馬鹿にしないでください。私は水晶に魔力も何も向けてはいません。そんな状態で、こんな強力なアイテムが簡単に反応すると思いますか? アイテム本体の魔力だけで賄っているなら、とっくにそこの水晶は干乾びていますよ。調べなくたって嘘だとわかります。よくそんな苦しい言い訳ができますね」


「そ、そのっ、それは……その……」


 ソピアの声がどんどん小さくなっていく。


「通常はそうだけど、強い想いに、前回使ったときの残留魔力が反応することがあるのよ! アナタが、よっぽどその、カナタとかいう男のことを考えてたんじゃないの! 自覚がなかったら……そう、深層心理とかで!」


「え、あ……そ、そうなんですか? 私が? こんな状況で!? ずっとカナタのことを!? そんなの、私が色惚けした馬鹿みたいじゃありませんか!?」


 ルナエールが顔を赤くして、忙しなく水晶とソピアを交互に見る。


「い、今はそんな、さすがに……! だ、だったら、私が四六時中カナタのことばかり考えているみたいじゃありませんか! そ、そういう日もありますけれど……今はあり得ません! 今は! 変なことを口走って、勢いで誤魔化そうとしないでください! もしもアイテムがそういった形で偶然発動するなら、もっとぼやけた映り方になるはずです!」


「とっ、とにかく、私は知らないわよ! そんなにそいつのこと眺めていたいんだったら、そんなアイテムあげるわよ! 私は忙しいって言ってるでしょ!」


「いいんですか? で、でもこれ、神話級のアイテムじゃ……。これがあったら、距離があっても、ずっとカナタのことを見守っていてあげられますけれど……。いえ、そういう監視とかではなく、彼が今とても危険な状況にあるからで……」


 ルナエールはそうっと《ティアマトの瞳》を両手で拾い上げ、映っているカナタの顔をじっと見つめた。

 その隙を突いて、ソピアはニルメインの腕を引っ張り、ルナエールが壁に開けた飛び降りて地面へと着地した。

 周囲の目が集まる中、ソピアはそのままニルメインの腕を引いて走り出す。


「魔力痕で簡単に辿られない位置まで逃げたら、アイテムで転移して飛ぶわよ! アナタも王都に残っていたら、いずれルナエールか《神の見えざる手》に間違いなく捕まるわ! 一緒に来なさい!」


「このニルメイン、ソピア様の旅路に同行させていただけることは光栄ですが……い、いいんですか、《ティアマトの瞳》! アレはソピア様が大事にされていた……!」


「いいわけないでしょ! あれは、私の、全てだったのよ! それでも命には代えられないでしょ!」


 ソピアの目には涙が溜まっていた。

 ニルメインはソピアの泣き顔を見て口を噤んだ。

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