第24話
佐伯さんが死んだのは、その深夜のことだった。
さよならも言えないままで、彼女はいなくなった。
正午過ぎ、僕は、いつもの交差点に来るはずもない彼女を一時間ほど待っていた。彼女が現れる気配はなく、いつぞやの事を思い出した僕は、病院へ走った。
受付で佐伯陽花の友人だと告げると、彼女がここへ運び込まれたことを教えてくれた。
しばらくして、僕は彼女の死を知った。
ちらと聞いた話によれば、父親と揉み合いになり、アパートの外階段から転落したそうだ。拍子抜けするほど呆気ない終わりだ。
悪い冗談だと思った。きっと夢なんだと。昨日、花火を見ながら生きるとか死ぬとか、そんな話をしてたから、妙な夢を見ているのだと思った。
それからのことは、あまりよく憶えていない。気づけば僕は、家の前に立っていた。
死んだように静かな部屋で、もうずっと、何時間も、阿呆のようにベッドに腰掛けて、どこでもないどこかを眺めている。不思議なくらい、涙は出なかった。
佐伯さんが死んだ。
胸が空っぽになった。あまり上手に息ができなかった。
── 勝手に死んではいけない。
佐伯さんの残した呪いだけが、僕をこの世に繋ぎ止めていた。
廃人のように寝て起きてを繰り返して、三日が過ぎた。飢えも渇きも、どうでもよかった。
眠っている間、僕は佐伯さんと遊んでばかりいた。もう夏休みの宿題だって、どうでもよかった。
── 綾辻くん、ご飯食べに行こうよ。
えー、めんどくさい。
異論は認めません!さ、行こう行こう!
しょーがないなぁ。
── わー、見て見て、綺麗な花。
ほんとだ。なんていう花だろ?
わかんない。でも、すごく綺麗。
── いつか、二人で遠くへ行ってみたいね。
どのくらい遠く?
神様の手も届かないくらい、ずっと遠くだよ。
そして目が覚めるたびに、ため息が出るのだった。
このまま飢えて死んだら、自殺じゃないから彼女も許してくれるだろうか。
そんなことまで考えた。
当然ながら、そう上手くはいかない。
焼けるような渇きに耐えきれず、キッチンへ走って、蛇口から直接水を飲んだ。いくらでも飲めそうだった。直後、吐き気を覚えてトイレに駆け込み、流し込んだ水をすべて吐き出した。
嘔吐しながら、涙が出てきた。
次から次へと、止まることなく、気づけば、便器の前に跪いたままで咽び泣いていた。
── 勝手に死んだら、許さないからね。
たしかに、これは呪いだ。
ようやっと泣き止んでから、カップ麺を貪って、水をたらふく飲んだ。途中、何度も吐き出しそうになるのを、必死に堪えた。
自室へ引きあげて、彼女が死んでから確認もしていなかった端末を手に取る。昨日の昼過ぎにメッセージが一件、届いていた。
瀬戸さんからだ。
「落ち着いたら、連絡ください」
しばらくメッセージを眺めてから、僕は端末をポケットにねじ込み、外に出た。
瀬戸さんは、わざわざ駅まで来てくれた。僕と同じくらい酷い顔をしていた。目が合うと、今にも泣き出しそうに顔を歪めてそっぽを向き、バッグから何かを取り出す。
「これ、陽花が、何かあったら君に渡してほしいって…入院してる時に、預かったんだ」
それはA4サイズのノートと、白い封筒だった。
「辛いと思うけど、読んであげて…それじゃあね」
彼女は踵を返し、足早に去っていった。
家に帰ってから、僕は改めて受け取ったものを確認した。ノートの表紙には、『復讐の記録』と書いてあった。律儀なことに、小さく名前も記してある。
開いてみると、彼女の丸っこい字が行儀よく並んでいた。文章の頭には日付が書いてある。どうやら日記のようなものらしい。
最初の日付は、僕らが出会った日になっていた。
『とうとう、言っちゃった。へんな子だと思われてないかな?
もう引き返せそうにない。私は、神様に逆らって恋をするのだ。たとえ、彼を苦しめるとしても。
私は、幸せだと証明してみせる。』
内容は短いものの、彼女は毎日欠かさず日記をつけていたらしい。身に覚えのある内容が、たくさん並んでいた。
『今日は彼と花畑に行った。うっかり告白しそうになった。危ない危ない。焦っちゃダメ。』
『連絡先ゲット!さっそく明日かけてみよう。』
『彼の寝起きの声が面白すぎた。機械を使ってるみたいに、低くて掠れてるの。朝は弱いらしいから不機嫌だったけど、なんだかんだで許してくれた。おかげで、今朝はケンカせずに済んだ。
なんだか守ってくれたみたいで嬉しいな。すごく身勝手だけど。』
『彼から面白い話を聞いた。やっぱり、私とは全然違う人。あらためて、彼を好きになった。あと、ぬいぐるみも取ってもらった。いぇい。』
『最近、彼が冷たい。どうしちゃったんだろう。』
この辺りで胸が軋み始めた。すぐにでもノートを閉じてしまいたかったが、逃げてはダメだと言い聞かせる。
『仲直りできた。私のこと、友達って言ってくれた。思い出してもニヤけちゃう。』
『私、長生きできないみたい。ちょっと涙が出た。覚悟はしてたんだけど。
それに、せっかくの告白のチャンスも逃しちゃった。』
『美雪に謝らないと。ちゃんと、ありがとうって言わなきゃ。』
『自殺。いまだに信じられない。』
『やっぱり、私のせいで酷い目に遭ってる気がする。ほんとにこれでよかったのかな?』
『彼の体温が、まだ残ってる気がする。心臓が爆発するかと思ったけど、彼もちゃんとドキドキしてくれてた。
ああもう、好きだなぁ。ずるいよ、君は。』
『明日は夏祭り。何度も好きって言いそびれて、いまさら言いづらいんだけど、明日こそは。
なんて、私のことだから、どうせ言えないだろうなぁ。』
日記はここで終わっていた。
呼吸が浅い。苦しい。
自分自身を痛めつけるように、封筒を手に取る。表にはシンプルに『綾辻くんへ』と書かれてあった。
中には、丁寧に折り畳まれたルーズリーフが二枚、入っていた。
『綾辻くんへ
君がこれを読む頃には、私はこの世に居ないでしょう── これ、いちど書いてみたかったんだよね。うーん、思ったより悲しいなあ。ちょっと笑えない。
まだ、もうちょっと生きてるつもりだけど、今回の入院で不安になってきたので、今のうちに、君宛ての遺書を書いておきます。
さて。
お元気ですか?ちゃんと、私のお葬式には来てくれた?来てくれなかったら、私、迎えに行っちゃうかもしれないからね?
君は、泣いてくれたかな。そうだといいな。
やだなあ、べつに、君をいじめたいわけじゃないんだよ?勘違いしないでね。
私は、君のことが大好きでした。
実は、高校に入学したばかりのころから、ずっとずっと、君のこと見てたんだ。ぼんやりしてて、まるで生きてる感じがしなくて、いっつもつまんなそうで。私には無いものを持ってるって、一目で判った。
それはほとんど、一目惚れでした。
それから、私が夜も眠れないくらい悩んだのを、君は知らないよね。鈍感くん。
気づいたら一年経ってた。どうしても、勇気が出なかった。私が死ぬぶんには、まあ自業自得だけど、君を巻き込むのを、ずっとためらってた。
でも、君が期待通りに面白くて素敵な人だったから、私は、どんどん引き返せなくなった。
現に、これを書いている今も、好きの一言が言えないでいる。どうしてだろうね。そんなところで意地張っても仕方ないのに。
君は、迷惑だったかな?
なんて訊くのは、ちょっとバカすぎるか。君は許してくれたもんね。私がどれだけ嬉しかったか、君には解るまい。
ねえ、綾辻くん。私たちは時々、酷い目に遭ったね。上手くいかないって、判ってたね。
私はね、諦めてたまるかって思ったの。この理不尽な人生に、復讐してやるって誓った。
だから私にとって、いいねって言うことは、普通の事だった。そうやって自分を納得させてきたんだ。
でも君は違った。無理に頷いたりせず、静かに諦める。私には、それがとても正しいことのように思えたの。ああ、この人には現実を受け容れる強さがあるんだって。私は君の強さを、潔さを好きになったのかもしれません。君は信じないだろうけど、私はいつだって君を尊敬してたんだよ?私と真逆のやり方で、ままならない人生を生き抜く、君のこと。
今はね、とっても幸せなんだ。君にギュッてされるだけで、心臓が飛び出そうになって、バカに嬉しいの。あと一年だって構わない。君がいたら、それでいい。
あのね。
私、本当は生きていたかった。
君の恋人になりたかった。花畑で君にプロポーズされて、泣きながら指輪をはめてもらって、君のお嫁さんになって。そしたら、毎日君のためにご飯を作ってあげて、子供を授かって、二人で一生懸命育てて。君のとなりで、泣いたり笑ったり。ほんとうは、そんなのがよかった。
叶いっこないね。そもそも私、病気のせいで赤ちゃん産めないし。
悔しいな。
でも、いいの。私はもう満足。
あとは、君に生きてほしい。解ってる、ワガママだってことは。
それでも、君には、私のために死んでほしいんだ。AIが予言した未来を覆して、私たちが幸せだったってことを、証明してほしい。私たちの人生は、決して出来損なってなんかなかったって。
君がそうしてくれたら、もう他に、思い残すことは無いよ。私はもとより、死ぬ覚悟で恋をしたんだから。そのくらい、君のことが大好きだったんだから。
もういいの。
最後に一つだけ── 』
端末が鳴動する。メッセージの受信を知らせる音だ。
画面に表示されたテキストに、心臓が凍った。
『佐伯陽花さんから、未受信メッセージを一件、受信しました』
電波の関係で、メッセージの送受信に遅れが生じることがある。しかし、こんな狙いすましたかのようなタイミングで。
まさにそれは、AIも知らない奇跡だった。
震える手で、端末を操作する。
『ありかとう
わなしら、しあやせてしね』
その意味を理解した瞬間、僕は泣き崩れた。
「あぁ…あぁあ…!」
慟哭が一人きりの部屋に響く。
彼女は転落したあと、朦朧とした意識のなかで、僕にメッセージを送っていたのだ。ただ、この一言を伝えたくて、おぼつかない指先で、必死に。
『ありがとう。
私は、幸せでした。』
それは、手紙の最後と一致する。
涙は止まらず、どうしようもなく、泣き喚き散らした。
僕は泣きながら笑って、端末の画面を見つめる。涙で滲んで見えやしないけれど。
「バカだねぇ、君は。ほんとに、バカだ。こんな、こんなのって、ズルいよ、ねぇ」
しあやせてしね、が、幸せで死ね、にみえる。最期までふざけたヤツだ。もうちょっとマシな打ち間違いにしろよ。
あぁ、チクショウ。
涙はいつまでも流れ続けた。
彼女が教えてくれたこと。
生きていくということは、終わりのない自己肯定だ。
上手くいかないと判っていて、だけど僕らはおいそれと死んでしまえないから、地べたを這いずり回ってでも、生きようとする。生きて在ろうとする。
何もかも判っていて、それでも、生きなければならない。
それは恐ろしく惨めなことだ。
しかしながらその惨めさと闘い続けることが、自らの人生と向き合う術なのだ。
それは、復讐にも似ている。
彼女は、それを証明してみせた。
次は僕の番だ。
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