エピローグ
海水浴場には僕らしかいなくて、陽は既に沈もうとしている。僕は胸の辺りまで海水に浸かりながら、茜色に滲む水平線を眺めていた。右隣では佐伯さんが海底を蹴って、ぴょこぴょこ跳ねている。
「さすがに、遊び疲れちゃったね」
「君が遊び疲れるなんて、珍しい」
「そうだねえ。もう歳なのかな」
「十七歳は十分若いよ」
「それはそうだね」
そう答えてから、彼女は大の字で海面に寝た。
「…浮くの、上手になったね」
「君がなかなか来てくれないから、もう慣れちゃった」
「ねえ、佐伯さん」
「うん?」
「一つだけ、君に謝っておきたいことがあるんだ」
「なあに?」
「最後まで、好きって言えなかった。僕はきっと、君のことが好きだったのに」
海原は不思議なほど凪いでいる。
仰向けに浮いたままで、彼女は笑った。
「ほんとだよ!死んでから言ったって許さないんだから」
「ごめん」
「…まあ、それはお互い様だよ。私も、最期まで意地張っちゃったし」
「でも、どうしてだろうね」
「何が?」
「君が生きてるうちは、あんまり、そういうこと考えなかったんだ」
「どうして?」
「なんだか、当たり前すぎて。空が青いことみたいに」
僕にとって、彼女は魅力的な女の子であり、尊敬の対象であり、同じ死の運命を背負った同志でもあった。
僕はきっと、あらゆる意味で彼女が好きで、だから、彼女に向ける感情は、決して判りやすい恋のかたちをしていなかった。
「んふふふ、そっかそっか。君は、そんなに私のことが好きなんだね」
「君は?」
「もちろん大好きだよ。世界でいちばん」
「…ちょっと、我慢できないや。セクハラしていい?」
言いながら、浮かんだままの彼女の背中を支えて、他方の手を頬に添えた。黙って数秒、見つめ合う。
けれども僕が顔を近づけるのを、彼女は手で制した。
「ダーメ、お預けだよ」
「なんで」
「それ以上は、ちゃんとこっちへ来てからにして」
「…そっか。わかった、我慢するよ」
僕が離れると、彼女は起き上がって、海面に腰掛けた。
「もう、いいでしょう。よく頑張ったね。えらいえらい」
言いながら、僕の頭を撫でる。目を細めると、西茜に彼女の姿が滲んだ。僕は泣いている。
「どうかな。今度こそ、僕の死因になってくれる?」
「うん。だから、二人で遠くへ逝こう。神様の手も届かない、水平線の向こうへ」
── ふと、目が覚めた。意識がはっきりしたのは、いったいいつぶりだろう。
身体じゅうに取り付けられていた煩わしい管が無くなっている。僕はちいさく笑って、ベッドサイドへ目を向けた。
「…綾辻くん?」
赤い目をした瀬戸さんが呟いた。その傍に腰掛けていた優くんが僕の顔を覗き込んで、無理に笑う。
「ハル、起きたのか。気分はどうだ?」
僕も笑ってみせた。ひどく眠いけれど、サヨナラくらいは言わないと。
「上々だよ。…二人とも、今までありがとう」
ポタリと、彼の目から涙が零れ落ちる。瀬戸さんが声を押し殺したのが判る。
「お前、すごい幸せそうな顔して寝てたなぁ。なんかいい夢でも見てたのか?」
「そんな顔してた?」
「そりゃあ、もう」
「そっか…実は、佐伯さんと会ってたんだ」
彼女が死んでから七年、僕は、ずっと夏休みの続きを追いかけていた。僕と彼女に用意されていたはずの夏を。
二人でいろんなところへ行った。電車もバスも飛行機もタダで乗れたから、僕たちは西へ東へ遊びまわって、たくさん話をして、笑った。
だけど僕らは、キスもしなかった。手を繋ぐことさえ無かった。
だから、最期にちゃんと言えて良かった。
「やっと、好きだって言えたんだよ」
「…そっかぁ。きっと佐伯も喜んでるだろうなぁ」
「うん。ちゃんと応えてくれたよ」
まぶたが開かなくなってきた。声も出づらい。日曜日の明け方に、やせ我慢して起きようとしているみたいで。
ああ。
やっと、彼女のところへ行ける。
僕は最後の力を振り絞って薄目を開けると、優くんの手もとを確認した。左手の薬指に指輪。きっと、瀬戸さんも同じものをつけているんだろう。
「結婚、おめでとう」
「バカ、いま言うことか?」
「たしかに。…ねえ、そろそろ逝くよ。最期に一つだけ、聞き届けてほしい」
「なんだ?」彼が僕の右手を握る。声はしないけれど、他方の手を瀬戸さんが握っているのだと判る。
「よく聞いてね」
佐伯さん、君もだよ。
「ざまあみろ、僕は幸せだ」
ふっと、意識が遠のく。
二人が何やら言っているけれど、あまりよく聞こえない。
そのうちに、声は佐伯さんのものに変わった。目を開けると、僕は波打ち際に立っている。
「おーい、綾辻くーん!早くしてー!溺れちゃうよー!」
ノースリーブのブラウスを着た彼女はバカみたいにニヤニヤしながら、腰くらいまでの浅瀬に立って叫んでいる。
僕は全力で駆け出して、彼女に飛びついた。温かくて華奢な体を抱きすくめる。
「あっちへ逝ったら、僕らも結婚しようか」
「子供は何人欲しい?」
「君が体を壊さない程度に」
彼女は笑って僕の胸を小突く。
それから手を繋いで、遠く遠く、神様の手も届かないところへと歩きだした。
僕の死因は君が好い 不朽林檎 @forget_me_not
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