第22話
翌日は、よく晴れた良い天気だった。
昼食のあと、いつも通りに暇を持て余していると、佐伯さんから着信があった。
「もしもし」
「綾辻くーん、暇だよぅ。助けてぇ」
端末の向こうで、彼女はひどく甘えた声を出した。
「そんなこと言われても。ってか、話してて大丈夫なの?」
「うん。普通に歩けるようになったから、病院内なら移動していいってさ。今は中庭に居る」
「そっか。まあ、頑張ってね」
「ひどい!会いに来てくれたっていいじゃん!」
「でもなあ」
昨日、イズミにつけられた傷は、まだそれと判るくらいに残っている。彼女に見られたとき、どう弁解すればいいのか判らない。
「なにか、予定があるの?」あきらかに声のトーンが下がる。
「や、そうじゃないんだけど…」
微かな息遣いの変化から、落胆がひしひしと伝わってくる。僕はさらに数秒ためらってから、続けた。
「…わかった。行くよ」
「どうしたの、それ?」
受付前の水槽を眺めていた佐伯さんは、僕の声に振り返った瞬間、怪我に気づいてしまったらしく、顔を顰めた。
「…昨日、デカい猫とケンカしてさ。顔に猫パンチくらって、こうなった」
「バカにしてるの?」
「してる」
「もう!何かあったんでしょう?素直に白状して」
仕方がないので、彼女と並んでベンチに座ると、僕は昨日の出来事を語って聞かせた。時間にして一分もかからなかったけど、その時間はひどく苦痛だった。彼女を責めているみたいで。
「…ということがあったんだ」
「…そっか。それで、躊躇ってたんだね」
彼女は呟いて、僕の腕に触れた。未だタバコの痕が残っている。
「痛かったよね。ごめんなさい、私の、せいで」
また、泣き出しそうな声で言う。死期が近いからか、最近の彼女はひどく弱気だ。
「佐伯さんが謝ることじゃないよ」
「でも…やっぱり私は、君を不幸にしてる」
「君は、僕の死神なんでしょ?これくらいじゃ死ねないよ?」
僕は両手を広げておどけてみせる。笑ってほしくて。
彼女は微かに頷いて、黙った。
その隙に、僕は話題をすり替える。
「それより、体は大丈夫?」
「うん。夏祭りには間に合いそう」
「よかった」
「でも、余命宣告されちゃった」
「…どのくらいなの?」
「約一年。最長でも二年はもたないだろうって」
彼女の声が震えたのが判った。隣に目を遣ると、彼女は僕の視線から逃れるようにして立ち上がり、僕の手をとった。
「中庭、行こう。人少ないからさ」
「わかった」
彼女に連れられて、一階の廊下をしばらく歩いて、木枠のガラス戸に突き当たった。彼女がゆっくりとそれを押し開け、僕らは外へ出た。
芝草が一面に広がり、桜らしき木が数本、植えられている。
僕らは木陰のベンチに腰を下ろす。
「やっぱり暑いね」と僕。
「うん」と彼女。
隣り合わせで座っているのに、なんだかひどく寂しかった。
「ホントはね、覚悟してたんだ」彼女が低く呟いた。
「どういうこと?」
「AIに逆らって、君に近づいた時から、こんなふうになることは、なんとなく判ってた、ような気がするの」
「…うん」
「だから、もういい、ハズなのに。なんで私、こんなに悲しいんだろ?」
隣を見なくても判った。彼女は泣いている。
そっと、背中に手を添えた。
「…僕も君も、生きてるんだから。もうおしまいって言われて、そんな簡単に納得できないよ」
「そう、だよね…」
彼女が俯いたのが、気配で判った。
「…いまさら、死にたくないって言ったら、怒る?」
「…怒らないよ」
「ほんと?」
「うん」
「だったら、ちょっと甘えても、いいですか?」
具体的な意味は察せなかったが、なんとなく、やるべきことは判っていた。僕は立ち上がって、両腕を広げてみせる。
「僕でよければ、胸くらい貸すよ」
彼女はゆるゆると立ち上がって、力なく僕に寄り掛かった。肩を支えながら頭を撫でると、彼女は苦しそうに肩を震わせる。
しばらく、互いに黙ったままだった。そのうちに彼女は泣き止んだらしく、肩の震えが止まった。
「えへへ、あったかい」
「暑くない?」
「今はへーき。もうちょっと、こうしててくれる?」
「わかった」
ちょっとでも気分が和らぐことを祈って、僕は彼女のまっすぐな髪を梳いた。
その翌日も、僕は見舞いに行った。
病室に入ると、佐伯さんは大人しくベッドに座っていた。僕の入室に気づくと、にっこり笑って手を振る。
「元気そうだね」
「うん!むしろ退屈だよ」
よかった、今日は泣いてない。
僕が近づくと、彼女はおもむろにベッドから立ち上がる。
「ちょっとしたゲームをしよう」
「ゲーム?」
彼女はニヤリ笑って、それから、病衣の隙間に手を入れて、わざわざ胸もとが見えるようなやり方で、何かを取り出してみせる。僕は思い切り顔を顰めてやって、目を逸らした。ちょっと元気すぎるかもしれない。
「ここに、コインがあります」
「ん?うん」
「表か裏か当てっこだよ。それで、勝った方の言うことをなんでも聞くの」
「ええ、なんで?」
「いいから。さあ、はったはった」
「イカサマじゃないだろうね」
「もちろん」
「じゃあ、裏で」
「よしきた」
彼女は一拍おいてから、キンッと音をたててコインを弾き上げた。回転しながら飛翔したそれは、やはり回転しながら彼女の手へ戻る。
「…表だ!やったやった!」
「ほんと?」
「ほんとだよ、ほら」
彼女の手のひらで、コインは、たしかに表を向いていた。なんだか納得いかないが、食い下がる気にもなれず、あっさり負けを認める。
「で、命令は?」
彼女は莞爾として笑み、両腕を広げてみせた。
「ギュって、しなさい」
「…意味わかんない」
「いいから」
まあ、ゲームに負けてしまったのだから、拒否権は無い。僕は彼女に近づくと、同じように両腕を広げて、彼女の背中にまわした。ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐる。彼女は僕の肩の辺りに顔を埋めて、だいたい僕の二倍くらいの力で僕の体を引き寄せた。
「やっぱり君は、私が呪い殺してあげる。いまさら嫌だって言ってもダメだからね」
彼女の声は、ほとんど空気を介さず体に響いた。
「とうとう本性を表したね」
「そりゃあ、私は君の死神だから」
「…そっか」
「ねえ」
「うん?」
「君は、死ぬのが怖くないの?」
彼女はいっそう強く、僕を引き寄せた。その声がすこし震えているのが判る。鼓動につられて揺れる体温を、もうちょっとだけ強く抱きしめた。
「そりゃ、怖いよ」
「ほんとに?」
「もちろん」
「そっか…やっぱり、君でも怖いんだね」
平気な顔して死ねるヤツは、相当な異常者か、自分の人生に満足しきった人間くらいなものだろう。
AIに生きる資格を奪われた僕でさえ、死ぬのは怖い。当たり前のことだ。
「だからね、僕は諦めてたんだ」
「諦めてた?」
「そう。まったく残念なことに、僕は根っこからの陰キャだから、諦められてしまったんだよ。友達をつくらず、趣味をもたず、何事にも励まないで、そうやって、ちょっとでも自然に死ねるように、準備してたんだ」
「…なるほど」
この世への未練は、自分にまつわるものから生まれる。自分自身を引き留めるものが少なければ少ないほど、未練など残らない。
僕は彼女を引き剥がす。彼女も抵抗せず、素直に離れた。真っ直ぐに目が合う。
「でも、君に邪魔されちゃった」
「んふふふふふ、ざまあみろって感じだね」
「まったく、腹立たしい人だよ、君は。鬱陶しいくらい、生きる力に溢れている」
彼女の姿勢が教えてくれた。
生きていくことは、終わりのない自己肯定なのだと。
自分の行動に自分自身で頷くこと。誰かが頷いてくれなくても、自分自身を肯定し続けること。
彼女は呼吸をするように、それができてしまう。空が青いことを、いちいち疑ったりしない、その潔さ。
僕からは、彼女がとても正しくみえる。
声が震えるのを何とか堪えて、僕は呟く。
「僕はね、君に死んでほしくないよ」目頭が熱い。
「どの口で言ってるの」やっと、いつも通りに、バカみたいに笑ってくれた。
「まったくだね」
それを見て、僕もアホみたいに笑った。
その二日後、佐伯さんは無事に退院した。僕が居ないあいだにも、瀬戸さんたちが見舞いに来てくれたらしく、彼女はたいそう喜んでいた。
そしてついに、日曜日、予ねてからの願いだった夏祭りへ、僕らは足を運ぶことにした。
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