第21話
ぱたぱた、傘に雨が鳴る。ひとり帰り道を歩いている。
佐伯さんは、もうすぐ死んでしまう。
まったく信じられないことだった。信じたくないことだった。
もとより短命だったとしても、彼女はこれから、幸せになるべきだった。今度こそ、誰かに脅かされることなく、できれば彼女の望み通り、白馬の王子様を見つけて幸せに暮らせれば、それが一番いい。
なのに、ほんの一、二年しか猶予が無いだなんて、あんまりじゃないか。
── やっぱり、罰なのかな。
彼女は言った。僕を責めているわけではないと、解っているけれど。
僕こそが、彼女の死神だったのではないか。
どうしても、そんなことを考えてしまうのだった。
ぼんやりしていて、気づけばずいぶん歩いていた。僕らの学校の前を通り過ぎて、いつもの坂道を目指す。
そのとき。
「おい」
男の声だった。驚いて振り返ると、眼鏡をかけた、僕と同年代とみえる少年が、タバコを咥えて立っていた。
「ちょっと、面貸せよ」
そう言って僕の右手首を掴むと、強引に引っ張った。促されるままに、薄暗い路地へ引き込まれる。
「あの、どちら様で──」
僕が言い終わらないうちに、彼は拳を固めて、僕の腹にめり込ませた。膝を折ってうずくまった僕の肩に、回し蹴りが炸裂する。咄嗟に身を庇ったものの、よろめくままに濡れた地面へ倒れる。
彼はさらに三発、僕の腹や腕に蹴りを入れてから、しゃがみ込んだ。煙を吐きながら、短くなったタバコを僕の腕に押しつける。
「目障りなんだよ、てめぇ」
僕の悲鳴を無視して、乱暴に髪を掴む。呻きながら彼の手を押さえて抵抗したが、あまり効果はなかった。
「陽花につきまといやがって。どこの誰だか知らねえが、俺の女に手ぇ出してんじゃねえよ」
薄暗い路地では、烈しさを増す雨に視界を遮られ、彼の顔はよく見えない。けれど、焦点の合わない、濁りきった眼球だけは確認することができた。
彼は僕の頭を持ち上げて、二発殴りつけると、執拗に僕を踏みつけた。情けないことに反撃もできず、為されるままになぶられる。
うっかりガードを緩めてしまって、鳩尾に蹴りが入る。胃の中身を吐き出しそうになって、僕は声にならない悲鳴をあげた。
彼の暴力は止まらない。強引に僕を起こすと、今度は顔を殴る。
「いいか、陽花はな、俺のもんだ。邪魔するヤツは誰だろうとぶっ殺す」
そう言って、僕の胸倉を掴んで絞め上げた。他方の手が硬い拳を成して、僕の頬に叩きつけられる。鋭い痛みとともに口の中が裂けて、血が溢れ出る。
コイツはヤバい。完全に理性を失っている。
ふたたび濡れた地面に投げ倒された。脳が揺れる。
おそらく、佐伯さんを襲った男だろう。瀬戸さんの言う通りだ。コイツは佐伯さんを諦めていなかった。
肩の辺りを思い切り踏みつけられる。
「てめぇも、死にたくなきゃ陽花に関わるな」
ようやく満足したのか、彼は僕に唾を吐きかけ、その場を去ろうとした── そのとき、自転車のブレーキが近くで鳴った。
「…あん?なんだ、喧嘩か?」
とても聞き覚えのある声だった。薄く目を開いて、路地の入り口へ向ける。逆光でほとんどシルエットしか判らないが、自転車に乗った小柄な男性の姿が見える。なぜだか、僕を痛めつけた彼は身動ぎひとつせず、固まっていた。
男性の声はこちらに近づいてくる。
「てめぇは…、っておい、綾辻?綾辻じゃねえか!」
彼は僕の肩を支えて、起こしてくれた。そのはずみに顔が見える。そこには、小柄で温厚な彼が居た。彼は驚いた様子で僕を眺めてから、心得顔でちいさく頷いた。
「…なるほどなあ。おい」
立ち尽くしていた男が、ピクリと肩を揺らす。
「イズミぃ。お前、二度と俺のダチに手ぇ出すなっつったよなあ?」
イズミと呼ばれた男は微動だにしない。
「もういっぺん地獄見ねえと解んねえのか、おい!」
彼はイズミに近づくと、身長差をものともせず、胸倉を掴んで絞め上げた。イズミは「ひっ」と小さく悲鳴をもらす。
「次やったら、二度と表歩けないツラにしてやるからな。覚えとけ」
そう言って、彼はイズミを解放した。イズミはすこし硬直したのち、一目散に逃げだした。
痛みと唐突に現れた意外なヒーローの活躍とに、僕はぼんやり座り込んだままで、こちらへ歩いてくる彼の姿を眺めていた。
彼は僕の傘を拾い上げて差し出すと、ニカっと笑う。
「けっこう派手にやられたみたいだな。大丈夫か?」
「う、うん…ありがとう、助かったよ」
「気にすんな。立てるか?」
「うん」
よろめきながら、なんとか立ち上がる。頬や腕の痛みがひどいが、歩けないほどでもない。
彼に手を貸してもらいながら路地を出る。
「あの野郎、顔もぶん殴ってやがる…痛えだろ」
「ま、まあ」
「学校行こうぜ。美雪が部活の練習してっから、手当てしてもらおう」
「美雪…って、瀬戸さん?」
「おう。俺、あいつと幼馴染みなんだよ」
またしても呆気にとられ、僕は黙って頷いた。
バドミントン部の練習は体育館で行われていた。彼の話によれば今日は自主練だとかで、比較的人数は少ない。
瀬戸さんは体育館の入り口で膝を抱えて座っていた。
「うっす、美雪」
「あれ、優?って、綾辻くん!どうしたの?まさかコイツに…」
「ちげーよ!イズミの野郎にボコられてたから、俺が助けたんだ」
「イズミに?」
「そうだ。とにかく、綾辻の手当てしてやってくれ。見てるだけでも痛そうだ」
瀬戸さんは頷くと、僕を座らせてから救急箱を持ってきて、手際よく応急手当をしてくれた。スポーツをやっているからかもしれないが、ずいぶん手慣れている。
「…ありがとう。上手なんだね」
自分で思っていたよりも派手に擦り剥けた腕にガーゼを当ててもらいながら、僕は言った。彼女は心持ち頬を赤らめて、教室ではあまり見せない、照れたような笑顔を見せた。
「そこのバカがしょっちゅう怪我してくるから、慣れちゃった」
「怪我?」
「昔の話だよ」壁にもたれかかった彼が答える。
「コイツね、子供の頃からヤンチャでさ。中学の頃なんか、ケンカばっかりで。最近は、だいぶ大人しいんだけどね」
呆れたように言いながらも、瀬戸さんは笑ったままだった。
「ほんと、困ったヤツだよ…はい!これでよし」
「ありがとう」
言いながら、僕は立ち上がった。ちょっと傷が疼くが、手当てのおかげか、それほど不快だとは思わなかった。
「それにしても、その、イズミ、だっけ?あいつは、二人と知り合いなの?」
「陽花の一件以外では、ほとんど関わりはなかったんだけどね。陽花が襲われたって聞いた優が怒って、イズミを絞め上げたの。それ以来、イズミは優を怖がってる」
「そう、なんだ」
人は見た目によらないとは、よく言ったものだ。まさか、彼にそんな過去があるなんて、思いもしなかった。
「…災難だったね」救急箱を持ち上げながら、瀬戸さんが呟いた。
「まあ、ね。でも、佐伯さんは友達だから、仕方ないよ」
彼女は僕に笑いかける。
「君は、やさしいな。陽花が気に入ってるのも解る気がするよ」
「そう、かな」そんなにストレートに言われると照れる。
「これからも、陽花をよろしくね」
「…うん」
それから、もういちど二人に礼を言って、僕は学校を後にした。
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