第20話
佐伯さんと連絡がついたのは、その三日後だった。
彼女がいなければ、僕の生活は以前同様だった。なにもすることはなく、何かしてやろうとも思えず、ぼんやり十時前まで惰眠を貪る。それからようやく活動を始めるが、たいていは夏休みの宿題ばかりやっていた。それしかやるべきことを見つけられないからだ。
まるで廃人だ。
佐伯さんと友達になり、僕自身を相対的に評価できるようになってから、僕は僕自身の異常性を、真の意味で理解したのだった。あまりにも気力に乏しく、怠惰で、自分というものがない。AIのお告げがそれを助長したのは間違いないが、それにしても、僕はもとより弱すぎる。AIのお告げに対しても、諦めることで対応した。自らの命が懸かってもなお、だ。
AIが自殺を勧める意味も、今ならば理解できるような気がする。病気云々はどうにもならないが、僕はそもそも、生きていくためのバイタリティに乏しすぎる。
自分では『いいね』が言えないから、無気力に、すべてを放棄する僕。
誰も頷いてくれないから、きちんと自分で『いいね』を言う彼女。
僕らはまったくあべこべな人間だ。
だらだらとシャーペンを動かし、時刻は十一時をまわった。
不意に端末が鳴る。
僕に連絡をくれる人間など、佐伯さんくらいのものだ。どぎまぎしながら、受信したメッセージを確認する。
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫です。
退院までにはもう少しかかるみたいだけど、体調は良くなっています。よかったら、お見舞いに来てください」
「わかった」と返信して、端末を置く。そのまま、外出の準備を始めた。
外は生憎の雨模様だった。しかし彼女に会いたいので、傘を差して歩いていく。苦痛だとは思わない。
道すがら、なにか手土産を持っていこうと考えた。やっぱり果物か?花か?いや、場合によっては迷惑になりかねない。どうすべきか。
悩んだ末、僕が立ち寄ったのは本屋だった。
こんな時、素直な言葉で励ますのは、僕たちらしくないように思われたのだった。僕は文庫本を二冊買って、今度こそ病院を目指した。
大きな水槽を横目に、受付で見舞客用のカードをもらって首から下げる。彼女の病室は四階にあるらしい。
エレベーターから降りると、病院特有のこもった匂いが鼻につく。受付で教えられた病室は、角を曲がってすぐのところにあった。
個室だった。静かにドアをスライドさせると、真正面の窓から灰色の空とビルの窓が見えた。そのすぐ傍にベッドがあって、彼女はもたれかかるようにして半身を起こしている。窓の外を眺めていたが、まもなく僕の入室に気づいて、こちらを向いた。
「綾辻くん!来てくれたんだね」子供みたく顔をほころばせる。
「調子はどう?」言いながら、パイプ椅子に腰を下ろした。
「もう平気だよ。夏祭りまでには間に合いそう」
「夏祭り?」
「そだよ。隣町にさ、けっこう大きな神社があって、そこでやるんだって。花火も上がるみたいだよ」
「そっか。じゃあ、頑張って元気にならないとね」
「うん!」
「これ、お土産」
言って、薄い方の文庫本を渡した。タイトルは『人間失格』といって、古い古い小説だ。
期待通り、彼女は露骨に顔をしかめた。
「…イジメ?」
「いいリアクションだね」
「ひどい!私が早死にしたらどうするの!」
「ごめんごめん、もう一冊あるから」と言って、もう一冊を差し出す。こちらは至って普通の恋愛小説だ。映画化もされた、かなり有名な小説である。
「あ、なんか聞いたことあるやつだ!」
「ま、そっちも、女の子が病気で死んじゃうんだけどね」
「…冷たくない?」
ちょっと泣きそうな声で言われて焦る。焦ったついでに手が伸びた。その手はきわめて自然に、彼女の小さな頭に載った。
どうしてそんなことをしたのかと問われても、解らない。ただ、なんとなくそうせずにはいられなかったのだ。
これくらい許してほしい。いつもセクハラを受けてばかりでいるのだから。
目を見開く彼女に笑いかける。そうして、まっすぐな黒髪を、優しく撫でた。
「冗談だよ。だから、ほら、笑って。いつもみたいに。早く元気になって」
悔しいけれど、それは心の底から溢れ出た言葉だった。
彼女は十分苦しんだじゃないか。野蛮な男どもに脅かされ、病気と闘いながらも、快活な人生を送ってきたのだ。
だから、もっと幸せになっていいはずだ。時間が無いんだから、病院のベッドなんかさっさと抜け出して、もっと言えば僕のことだって見捨てて、幸せになってほしい。
心から、そう思った。
── 水滴が彼女の頬を滑り落ちる。
それは滞りなく連続して、顎の下でくっついて、白いシーツを濡らした。
僕は驚いて手を引っ込める。
あれ、そんなに嫌だったろうか?冗談にしてもやりすぎたかもしれないな── しかし、ということは、もしかしたら僕が思っている以上に事態は深刻なのかもしれなくて── ああ、だとすると、あまりに無神経な冗談だったのだ。やらなきゃよかった。
困惑する僕を、彼女の大きな瞳がじっと見据える。
目を泳がせるが、何も言ってくれない。
ハッと、肩が揺れた。
彼女は唐突に息を呑んで、ふいっとそっぽを向いた。同時に、喉に何かをつまらせたような、涙まじりに震えた声で言う。
「や、ちょっ、ちょっと、やだ、見ないで」
「あの、ごめん、冗談にしてもやりすぎたかな?」
「んーん、そう、じゃなくて…ぷっ、くく…」
こちらは真面目に心配しているというのに、彼女はくつくつと笑いだした。僕はだまって、その様子を見守った。
しばらくして目元を拭いながら、ようやっと顔を見せてくれた。もう、泣いてはいなかった。
「君は、アホだねえ」
「はっ?」
「ほんとに、もう、そういうのはズルいよ。私が死んだら責任とってよね」
「よく解らないけど、どうせ死ぬからいいよ」
「ほんと?」
「うん。君は、僕の死神なんでしょ?」
「うれしい」
彼女は愛おしそうに文庫本の表紙を撫でて、ベッドサイドの棚に置いた。
僕はかねがね疑問に思っていたことを、訊いてみることにする。できれば触れたくはないけれど。
「それで、さ」
「うん?」
「君の、病気のことだけど」
「どうかした?」
「…悪化、してるよね?」
── 普通に過ごすぶんには平気だからさ。
彼女はそう言っていた。たしかに、学校を早退することはあったけれど、休みがちというほどではなかった。
しかし最近はどうだ。バイト先で倒れ、僕の家で再び倒れ。この半月ほどで、二回も倒れている。
明らかにおかしい。
彼女はしばらく躊躇していたが、観念したのか、ぽつぽつと白状し始めた。
「たしかに、悪化してるよ。今は快方に向かってるけど、病気自体は進行してる。先生が言うには、二十歳までは生きられないって…」
「それは、いつから判ってたの?」
「…バイト先で倒れた時、です」
なぜか敬語で答えて、彼女は俯いた。
僕も頭を掻いて、俯く。
なんと言えばいいのだろう。
僕のような人間は、死んだとしても自業自得だ。自分に生きる力がなくて、勝手に死んでしまうのだから。きっと、神様だって閉口するだろう。
でも、彼女は、生きようとしていた。病気を含めて、どうしようもない理不尽に耐え、自分で自分を励ましながら、立派に生きてきた。
どうして、彼女が、そんな目に。
「…やっぱり、罰なのかな」彼女がささやく。
「罰?」
「AIに逆らって、君と仲良くなっちゃったから、バチが当たったのかもしれない」
「そんな、わけ…」
ないのだ。そんなはずはない。
言い切りたいところだけど、AIという名の神様がいかに絶対的なのか、アホの僕だって理解していて、だから、容易に言い切ることはできない。今、この場で強がりを言ったところで、虚しいだけだ。
言い淀んだ僕を見て、彼女は苦笑する。
「なんて言ったら、君を責めてるみたいだよね。ごめん」
「いや…」
「と、とにかく!ひとまずは元気になってるところだから、待ってて。絶対、夏祭りまでには退院して、そしたら、二人で花火を見にいこう」
「…わかった」
それから僕らは、当たり障りのない話を二十分ほどした。生きるとか死ぬとか、そういう属性の話題を慎重に避けながら。彼女は、もう泣いたりしなかった。
帰り際、立ち上がった僕を彼女が呼び止める。
「帰る前に、ひとつお願いがあるんだけど」
「なに?」
「もう一回、頭撫でてくれないかな?」
「なんで」
「いいから。そうしてくれたら、もっと早く元気になれそう」
「…もう、泣かない?」
「うん」
僕は頷いて、そっと右手を伸ばすと、彼女の髪に触れた。つやつやしてて、一本一本が細い。癖毛の僕とは大違いだ。
「髪、綺麗だね」アホの僕は、思ったことがすぐ口に出る。
「…ありがと」
髪を梳いてあげると、彼女はくすぐったそうに肩を竦めた。
「これで、元気になる?」
「うん。頑張るよ」
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