第19話
帰りの電車では、なんだか眠れなかった。佐伯さんはというと、久々にはしゃぎ疲れたのか、僕にもたれかかって眠っていた。童顔の彼女は寝顔もどこかあどけなくて、頼りない。この細い体には、僕が思っているよりもずっと、深い悲しみが潜んでいるのだろう。そう思うと、せめて今はゆっくりと眠らせてあげたくて、僕はほとんど動かず、じっと彼女を支えていた。
陽が暮れる前に、僕らの街へ帰って来た── のだが、彼女は帰らないと言う。
「まだ宵の口だよ、綾辻くん!」
とか、ワケの解らないことを言って、僕をスーパーマーケットへ引っ張っていった。入店と同時にカゴを手に取り、慣れた手つきで、野菜やら豚肉やらを放り込んでいく。ざっと見たところカレーの材料らしい。
「…何してるの?」
「晩ご飯の買い出しだよ。今日は、君んちでお泊まり会だからね」
「は?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ。それに今日、親居ないんだけど」
「えー、そりゃ大変だ!下着変えてこようかな」
やはり彼女の脳は絶望的な粗悪品だ。記憶までイカれてやがる。それと、一度にツッコみきれない量のボケを投入するんじゃない。
僕が呆れ顔で見下ろしていると、いまさら、彼女は真面目くさった顔で両手を合わせた。
「親御さんに連絡してみてくれない?今日は、帰りたくないの」
「ぐっ…」
それは卑怯だ。
まあでも、彼女はへんなところで律儀だから、意味もなく僕の家族にまで手間を取らせようとはしないだろう。帰りたくないというのも、あながちテキトーに言っているわけじゃないのかもしれない。
仕方なく端末を取り出して、コールする。幸い、母はすぐに出てくれた。かくかくしかじかで、友達を泊めることになった、ついでにキッチンを使わせてほしいと言うと、母は二つ返事で承諾してくれた。
「好きにしていいってさ」
「ほんと?ありがとう!」
それから十分ほどで買い物を済ませると、僕は佐伯さんを家へ連れ帰った。着くなり、彼女は早速キッチンに立って、料理を始める。
なんだか落ち着かない。
「なにか手伝ったほうがいい?」
「んーん、だいじょぶ。座って待ってて」
そう言いながらも、彼女は野菜を切る手を止めない。さすがに手慣れている。僕は大人しく引き下がった。
しばらくして、温かな良い匂いが漂いはじめ、それから間もなく、彼女が皿に盛られたカレーを運んできた。サラダも用意してくれたらしい。
ちょっと申し訳ないような気がしてきたが、「食べよう」と破顔されると、なにも言えず、僕はスプーンを手に取った。
「…おいしい」
「ふふ、よかった」
無難な料理とはいえ、美味しくできている。なんとなく優しい味わいだった。
「なんだか、悪いね」
「やー、押し掛けたのはこっちだし」
「やっぱり料理上手なんだ」
「でしょう?いいお嫁さんになるよ!」
「AIが黙ってなさそうだ」
「だねぇ」
生活面ではしっかりしているようだし、たしかに彼女は良いお嫁さんになりそうである。なのに、AIは彼女を恋愛から遠ざける。
ひょっとすると、良いお嫁さんすぎるのかもしれない。だから男をダメにする、のかもしれない。解んないけど。
「…君は、恋がしたいんだよね?」
「ああ、うん、まあね」
「できれば、結婚もしてみたい?」
「そりゃあね」
「じゃあもし、白馬の王子様が現れたら、苦難を覚悟でついていくかい?」
スプーンをくわえたまま、彼女は固まった。
「それって、どういう意味…?」
「うん?そのままの意味だけど」
「もしもの話?」
「そう」
真顔で答えてみせると、彼女はどこか小馬鹿にしたような、実に腹立たしい表情を浮かべて、僕を眺めた。格闘ゲームで打ち負かされた時の顔に似ている。ちょっとムカつく。
「…本気で言ってるの、それ?」
「うん」
「…私がバカなら、君はアホだね」
「なっ」
心外だ。自覚が無いでもないけれど。
「大丈夫だよ。王子様なんて現れないからさ」
彼女はくすくす笑って、はっきりと言った。
「なんで嬉しそうなの?」
「別にぃ?ほら、現に私の前に現れたのは、ただの君だった」
「悪かったね、王子様じゃなくて」
「ほんとだよー、もう」そう言って、ちょっとだけ頬を膨らませてみせる。
三十分ほどかけて、ゆっくりカレーを食べた。
そしてそれは、突然の出来事だった。
「片付けるから待ってて」と立ち上がった佐伯さんを手伝おうと、僕も腰を上げた、その刹那のこと。
「痛っ…」
彼女は胸の辺りを押さえて、その場にうずくまった。
「佐伯さん!」
僕は駆け寄り、肩に手を添えた。激しい呼吸を繰り返す彼女に、ただごとではないと覚って、慌てて端末を取り出す。
「救急車呼んだ方がいいよね?」
息も絶え絶え、彼女は声に出さず頷いた。
しどろもどろになりながらも、なんとか状況と場所を伝える。通話は繋いだままで、助けが来るのを待つ。幸い、病院はほど近いところにあるから、それほど時間はかからないだろう。
彼女の容体はいっそう悪化したと見え、うずくまっているのも辛いのか、そのまま倒れ込んで仰向けになり、浅い呼吸を続ける。
なにか、僕にできることは── 考えてみたものの、なにも浮かばない。そもそも僕は、彼女の病気についてほとんど何も知らないのだから。
彼女の顔を覗き込む。たじろぐばかりの僕を、彼女は薄目をあけて見上げ、蚊の鳴くような声でささやいた。
「て…」
「て?」
ああ、もしかして。
僕は彼女の左手をとって、両手で包んだ。彼女は、微かに笑ったようにみえた。
「大丈夫だからね、いま、助けが来るから」
助けは、十分程度で到着した。彼女は担架に乗せられ、救急車に運び込まれた。
事態がひと段落してから、僕はテーブルの上に残された二人ぶんの空き皿を眺めて、胸がいっぱいになった。
そうするしかないから、前向きになるのだと、彼女は言った。
誰も、自分のためには頷いてくれないから。
あるいは、僕は、その強さに憧れていたのかもしれない。彼女が特別なのは、心のどこかで、全く違った思考様式と人格をもって僕と同じ運命に向き合う、その姿勢を尊敬しているからかもしれない。
佐伯さんのことが頭から離れないままで、僕は二人ぶんの食器を片付け始める。
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