第18話

 その翌日、彼女の願いが天に届いたのか、空は憎たらしいほど晴れ渡り、絶好の海水浴日和となった。

「おはよ」

「おはよう」

 時刻は午前九時。これから駅へ向かって、二時間ほど電車に揺られ、海の見える街へ向かう。これも、僕にとって初めての体験だった。そもそも、海で泳ぐ機会がなかった。

「いやあ、良い天気だねえ」

「君の呪いが効いたみたいだね」

「やだなあ、呪いだなんて」

「ところで、泳ぐのは大丈夫なの?」

「うん。と言っても、あんまり騒いじゃダメなんだけどね」

「そっか」

 いつも体育は見学だというので、これが気分転換になればいいと思う。

 夏休み中ということで、街には若者の姿が多かった。いつぞやに二人で立ち寄った定食屋を通り過ぎて、まっすぐに駅を目指す。

「ね、綾辻くんは、泳げるの?」

「まあ、人並みには」

「いいなあ、私、あんまり泳げないんだ。病気とか関係なく」

「そうなの?」

「うん。なんか沈んじゃうんだよね」

「力み過ぎなんじゃない?」

「そうかも。だってさ、じっとしてたら溺れそうじゃん」

「解らないではないけど」

 駅に到着した。予め調べておいた電車に乗り込む。車内は思いのほか空いていて、僕らは並んで座ることができた。

 しばらく待っていると、電車が緩やかに加速を始めた。眼下に流れる、並んだ民家に、牛丼屋の看板、何階建てか判らないビルの窓に、夏空が映り込む。透明な窓一枚を隔てた炎天に、僕は目を細めた。

「ねえ、綾辻くん」隣で呟いた彼女は、目を閉じていた。

「うん?」

「君は、私なんかと居ていいの?」

「君が誘ったんでしょ」

「まあそうだけど。なんか、振り回してばっかりだなぁって、思って」

「呆れるほどに今更だね」

「…君の将来の話を聞いたら、なんだか自信なくなってきちゃってさ。私の存在は、確実に君を苦しめるのに」

 彼女もAIのお告げを恐れているのだ。男性をダメにする素質とやらを。だから彼女は、自分を死神と呼んだ。

「大丈夫だよ。死神程度には負けないから」

 僕が気丈に振る舞ってみせると、彼女はけたけた笑って、僕の肩をつついた。

「素直じゃないもんね」

「君が素直すぎるんだよ」

「そう?」

「うん。物事を真っ直ぐに見てるって言うのかな。僕にはできない」

「私はある意味、君の方が素直だと思うけどね」

「どのあたりが?」

「なんだかんだ言って、私に付き合ってくれるし、病気の話しても、君は冷静に受け止めてくれた」

「それは、どうでもよかったから」

「そうなんだろうね。だから私は、君のこと、面白い人だと思ったんだよ?」

「面白い?」

「うん。君はいつだって穏やかだった。無気力で、私とは全然違う人」

「…たしかに、君と僕は、全然違うね」

 僕らは、二人とも短命だ。どうあがいたって長生きはできない。まったく同じ運命を突きつけられている。

 そのうえで自殺すべきだと言われる僕と、苦境に立たされてもなお、溌剌と生き抜く彼女。

 それは、僕らの人格がまったく違ったものであることを示唆している。

「君は、どうして、そんなに前向きなの?」

 彼女は再び目を閉じて、椅子に深く座り直す。

「そうするしかなかったからだよ。誰も、私のために頷いてはくれなかったから」

「…だから、君は、自分でいいねって言うようになったんだね。物事を極端に捉えて諦めるんじゃなくて、素直に、自分が思った通りに、価値を認められるようになった」

「んー、なんかそう聞くと難しいけど、まあ、うん。そんな感じかな」

 電車が揺れる。なんだか、このままどこまでも遠くへ行ってしまいたい気分だった。

「…だってさ、ひどいじゃない。長生きはできないし、虐待は受けるし、レイプされかけるし。白馬の王子様を見つけて一発逆転しなきゃ、私は何のために生まれてきたんだか判らない」

 僕は何も言えなくなって、曖昧に頷いた。十分ほど経つうちに、彼女はそのままの姿勢で、こくりこくり舟を漕ぎはじめる。

 誰も、自分のために頷いてはくれない。

 馬鹿と天才は、紙切れ一枚を挟んでいるわけではないのだと、またあるいは、空が青いのは疑うべきことではないのだと、彼女は言った。僕と違って、彼女は物事を二極化して考えたりしなかった。短命だと言われても、男たちに嬲られても、自分の人生にしっかりと向き合ってきた。

 それは、とても立派なことだと思う。生きていくことの本質と言ってもいいかもしれない。

 電車が奏でる周期的な心地良いノイズに、僕も目を閉じた。


「…て、起きて、綾辻くん!」

 気づくと、僕も眠ってしまっていた。彼女に肩を揺すられて目を開けると、窓には見慣れない街並みが映っていた。

「ごめん、寝ちゃってた」

「ううん、私もさっき起きたとこだから。そろそろ着くみたいだよ」

 頷いて、降車の準備を始める。

 駅を出ると、はっきりそれと判るくらいに濃く、潮が薫った。肌にまとわりつく空気も、どことなく湿気を帯びてベタついている。

 海水浴場は目前だった。これほど海に近い駅というのも珍しいのではなかろうか。駐車場はほぼ満車状態で、若い男女や家族連れを中心に大賑わいである。

「ひゃー、予想通りの活気だね」

「だね」応えて、僕は腹へ手を遣った。「ところで、お腹空かない?」

「空いた。先にご飯食べよっか」

 駐車場脇にアイスクリーム屋のパラソル、高いヤシの木、白っぽい海砂の隅を這う浜昼顔、レンガで囲まれた花壇には、マリーゴールドによく似た黄色い花が乱れ咲き、砂浜と舗装された駐車場のあいだを、日に焼けた人々が行ったり来たり、子供たちは走り回る。

 せっかく海水浴に来たので、あえて普通の店には入らず、いわゆる海の家的な屋台へ向かった。イカ焼きとか焼きそばとか、割高な炭酸飲料とかを売っている店だ。テーブルも用意されてあったが、すでに満員だった。

 焼きそばを二つ、それに飲み物を買って、近くのテントに入って食べる。お祭りとおんなじ心理で、平凡な焼きそばは物理的現実以上に美味しかった。

 それから僕らは、海水客用の更衣室へ向かった。男子更衣室は案の定ごった返していて、急いで着替える羽目になった。ほとんど追い出されるようにして、ふたたび夏陽に肌を曝す。

 佐伯さんは、それから三分ほどで現れた。

 ── あれ、目が悪くなったのかな?

 その水着姿はあまりに女性的であって、僕は目を疑うと同時に、その目の遣り場に困ってしまって、視線を下げた。

「じゃーん!どうかな、似合う?」

 水色の水着を着た彼女は、その場でくるりと回ってみせた。

「似合ってる似合ってる」

「テキトー言ってるでしょ!」

「ほんとだって」

「だったら、ちゃんとこっち見て」

 言われて、仕方なく彼女を見た。

 おかしいな、いつもと雰囲気が違う。どんな手品だか知らないが、着痩せするというのは本当だったらしい。

「あ、ちょっと照れてる?」

「気のせいだよ」

「もー、ムッツリさん」

「うるさいな」

 なおも僕をからかい続ける彼女と並んで、波打ち際へ向かった。彼女は泳げないそうなので、遊ぶとしたら浅瀬だろう。簡単に体をほぐしてから、腰くらいまで水に入った。

「とうっ」

 と、振り返りざま、顔面に水がかけられる。右腕で海水を拭っていると、彼女はけたけた笑って、ざぶざぶ海水を分け分け、僕のほうへ近づいてきた。

「思ったよりぬるいね」

「海だからね」

「ねえ、もうちょっと深いところ、行ってみようよ」

「いいけど…怖くないの?」

 彼女はさらに接近すると、僕の手を取った。

「こうしてれば平気だよ」

「…なら、いいけどさ」

 僕は彼女の手を引いて、少しだけ沖へ移動した。僕の胸の辺りまでの深さだから、彼女にとってはそろそろ限界だろう。隣へ目を遣ると、彼女は顎の辺りまで水に浸かって、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。

「そろそろヤバいかも」

「ちょっと引き返そうか」

「えー、もうちょっとこのまま」

「ダメだよ、体弱いんだから」

「むー」

「…じゃあ、浮いてみる?」

「どうやるの?」

「大の字になって、全身の力を抜くんだ」

 僕は手本を示してみせる。青空の下で波に身を任せるのは、なかなか気持ち良かった。耳がくすぐったい。陽が眩しくて、目を細める。

 その様子をしばらく眺めていた彼女は、「なるほど!」と威勢よく合点した── のだが、やってみるとなかなか浮かべないらしく、「ぐはっ、鼻に水が」とか騒ぎつつ、悪戦苦闘の末、とうとう諦めてしまった。

「やっぱり私には向いてないね」

「まあ、無理することないよ」

 僕の言葉に首肯し、彼女は海底を跳ねながら、遠く、水平線──正確には並んだ消波ブロックの向こう側── を眺めた。

「ねえ、あの向こう側って、どうなってるんだろうね」

「さあ…外国があるんじゃない?」

「言うと思った!夢がないなあ。そんなんじゃモテないよ?」

「大きなお世話だ」

「あの向こう側にはね、きっと、天国があるんだよ」

「空の上じゃないの?」

「それだと、地上から透けて見えちゃいそうじゃない」

 たしかに、そのイメージは解らないでもない。とすると、僕らはいつだって神様の足の裏とかお尻とかを見上げているのかもしれない。

「どこまで行っても絶対に辿り着けない、あの水平線の向こうに、きっと、そんな場所があるんだよ」

 彼女の視線はどこか遠くへ投げられていて、その言葉は何となく不穏な気配をはらんでいた。僕は気づかないふりをして、曖昧な返事をした。

 それからしばらく水平線を眺めて、水を掛け合ったり、眩しい夏空を仰いだりして、夏の海を堪能した。彼女は始終、笑ってばかりいて、その光景は、ひどく幸福だった。

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