第16話
そのあと入浴のために一度起きたが、またすぐに眠ってしまった。結果、夜中に目が覚めてしまって、それからはろくに眠れなかった。
明け方になってからようやっと
制服に袖を通しながら、AIに話しかける。
「僕の、寿命は?」
「最適な寿命は、十八年と三ヶ月です」
「えっ」
寿命が変わっている。以前はたしか、二十歳を過ぎてからだった。
「どうして、縮んだの?」
AIは数秒黙った。人間が何かを考えているような気配を感じて、なんだか気味が悪い。今更だけれど。
それから、いつもの調子で淡々と答える。
「佐伯陽花さんの秘匿情報に基づく計算結果ですので、詳細をお話しすることはできません」
秘匿情報。
直接聞いたのはこれが初めてだが、その存在は、もちろん知っていた。
AIは未来を予測する上で、個人の生物学的データというきわめてパーソナルな情報を利用する。当然、その他の個人情報だって利用している。だからこそ、AIは定められた個人情報については、本人以外に話さないように作られている。氏名や住所など、普遍的に守られるべきだと考えられる情報については、変更不可能な設定によって漏らされないようになっている。加えて、個人によるカスタマイズ── 例えば、好きな食べ物は伏せてほしいとか、そういうこともできる。
だから、AIが説明を拒否するのは、それほど不思議なことではない。ただ、佐伯さんの秘匿情報によって僕の寿命の計算結果が変わったというのは、いったい何を意味しているのだろう。
彼女は、いったい何を隠しているのだろう?
僕は黙って端末を仕舞うと、身だしなみを整えて家を出た。
学校へ向かう足取りは、鉛を足にくくりつけられているのかと疑われるほど重かった。僕は、どんな顔して教室に入ればいいのだろう。
果たして教室に入ってみると、佐伯さんの姿が確認できた。いつもどおり友人の輪の中で、からり笑っている。しかし、そのなかに瀬戸さんの姿は確認できなかった。
「よ、綾辻」
とつぜん背中を叩かれる。右肩から現れたのは、温厚な彼だった。
「おはよ」
彼は僕の顔を覗き見て、大袈裟に驚いてみせる。
「寝不足か?クマ、すごいぞ」
「ああ、うん。ちょっと、一夜漬けしててさ」
「ほー、お前が一夜漬けか。珍しいこともあるもんだな」
「ちょっと調子乗って、サボり過ぎちゃった」
「またぁ、そんなこと言って、いっつも八割以上とるくせに」
僕は曖昧に笑って、首を振った。ほとんど同時に、先生が入室する。
「おーい、席つけよー」
そうして、いたって何事もなく、テストが始まった。
思いのほか、テストの出来はいつもと変わらなかった。昨日の出来事が脳裏をよぎらなかったワケではないが、シャーペンを握る手が、それに妨げられることはなかった。
「っしゃ、やっと終わったな」
最後の答案が回収された後で、温厚な彼はこちらを向いて、ニッと笑った。何故だろう、彼を見ていると、ちょっとだけ人間を好きになれる気がする。打算や偏見の感じられない、定規をあてたような言葉と眼差しが、僕の警戒心を眠らせてくれるのだ。
僕はちいさく頷いて、笑いかけた。
放課後。
テストが終わった開放感と、まもなく始まる夏休みに、一同は浮かれてはしゃいでいた。続々と、各々、遊びの約束を取りつけたりなんかしながら教室を後にする。温厚な彼も帰ってしまった。
そんななか、僕は一人、浮かない顔で鞄を持ち上げる。教卓のあたりで、佐伯さんは友人たちと談笑していた。その様子を眺めて数秒、立ち止まって考えて、けれど僕は、結局、教室の出口へ歩きだした。乱雑にプリントが貼り付けられた掲示板を横目に廊下を過ぎ、階段を降りて、玄関へ向かう。昨日と同様に、校舎内はかなり静かだった。
だから、足早に背後から近づいてくる足音にも、気づいていた。その正体も、なんとなく直感していた。それでも僕は振り返らなかった。
意地になっている。それは、自分でもよく解っていた。未だ、佐伯さんに
僕が靴を履き替えようとした時、ようやく、背後から声が掛かった。
「あ、綾辻くん!」
緊張しているのか、声はうわずっている。おもむろに振り返ると、やっぱり佐伯さんだった。
彼女はほとんど泣きそうに、ただでさえ垂れている目尻をもっと下げて、両手を胸の前で組み合わせていた。その様子が僕に対する恐怖の顕れにみえるのは、僕が卑屈だからか、いじけているからか。
おずおず、彼女はちいさな声で続ける。
「その、私、解ってるから」
「…なにが?」
そんなつもりはなかったのだけど、つい、威圧するような口調になった。僕が怒っていると勘違いしたのか、彼女は憐れなくらい小さく
「えっと、その…美雪に、なにか酷いこと言われたんだよね?」
「…まあね」
── あんたみたいなのが、あの子の隣にいちゃいけないの。
それは意外と、どんな暴言よりも胸に刺さった。ただ罵倒される方が、むしろ楽だった。
「私が謝っても仕方ないけど、ごめん!」
「…いいよ、佐伯さんに怒ってるわけじゃないから」
「でも、美雪があんなことしたのは、たぶん私のせいなの」
「佐伯さんの、せい?」
「…帰りながら話したいな。いい?」
「…うん」
彼女も靴を履き替え、僕らは並んで炎天下に出た。学校を出てすぐの信号に引っかかり、木陰へ逃げ込む。
その時、彼女が切り出した。
「実はね、私、男の子に襲われたことがあるんだ」
その突飛な言葉を飲み込むのに、数秒を要した。襲われた?彼女が?襲われたっていうのは、その、つまり。
「中学生の頃に、いざこざに巻き込まれたって話、憶えてるかな?」
「あ、ああ、うん」やっと言葉が出た。
「その話なんだけどね。中学二年生のころ、同じ中学で、クラスの違う子に告白されたんだ。その子のことは前から知ってて、家がちょっと近かったから、時々、話してたの。と言っても、君に言ってるみたいに、下ネタとか、その気にさせるようなことは言わなかったんだよ?」
「断ったの?」
「うん。私は彼のこと何とも思ってなかったし、その時の、目というか、雰囲気というか、なんかヤバそうな感じがしたから、断ったんだ」
ちょうど、信号が変わった。僕らは再び日向へ出て、横断を始める。
「…それで?」
「でも、諦めてくれなかったみたいでさ、ストーカーみたいなことされるようになって。それまでは普通の子だと思ってたんだけど、実際、ヤバい子だったんだね。断っといてよかったと思ったけど、それだけじゃ終わらなかった」
「じゃあ、彼は君を…」
「そう。たまたま帰りが遅くなった日、私は彼に襲われた。最初はなんとか振り払って、逃げて逃げて、でも、捕まって…しばらく揉み合ってるうちに、ほんとに偶然、美雪が通りかかったの。部活の帰りだとかで。美雪は私を助けてくれて、騒ぎを聞きつけた近所の人も出てきて、それで、彼も逃げるしかなくなって」
ホッと胸を撫で下ろす。未遂で済んでいてよかった。
「そのあとは?」
「わかんない。とりあえず、彼の姿は見なくなったし、それからは何もされてない。それ以来、美雪は、私に関わる男の子をみんな敵視してるの。それくらい、私のこと心配してくれてるのは嬉しいし、正直、私もちょっとトラウマになってるから、ありがたいんだけど…」
なるほど、瀬戸さんの言っていた『アイツ』は、その男のことだったわけだ。彼女は佐伯さんを心配するあまりに過保護が過ぎて、良い虫も悪い虫も分け隔てず、佐伯さんに近づかないよう牽制し続けてきた。そして、僕もその例外ではなかったというわけだ。
「それで、僕が目の敵にされてたんだね」
「そうみたい。まだ、美雪から詳しい話は聞いてないけど、ごめん、ごめんって、たくさん謝ってたから」
「そう、なんだ…」
ひとまず、事情は解った。だからといってすぐに瀬戸さんを許せるほど、僕の器は大きくないけれども、まあ僕のことだから、二、三日寝れば忘れられるだろう。佐伯さんに免じて許してやらんでもない。
「でね、私、綾辻くんに話しておきたいことがあるの」
「なに?」
「こっち来て」
僕の手を引っ張って、歩道の端へ誘導する。そこで彼女は端末を取り出し、イヤホンを接続すると、片方を僕に寄越した。促されるまま、右耳に装着する。
それを確認してから、彼女は小さく頷いて、小声でAIに話しかけた。
「私は、恋ができないの?」
すかさず、AIの声がイヤホンから流れてくる。
「物理的には不可能ではありませんが、事実上、不可能と言えます。あなたには、男性を堕落させる素質があります。さらに、相手をトラブルに巻き込むような事態に陥りがちです。また、疾患のために妊娠が命に関わるリスクとなり得ます。パートナーをつくられる際には、苦難の連続を覚悟しておいた方が良いでしょう」
「そんな…」
それだと、彼女が花畑で呟いた願いは、到底叶いっこない。不幸になるのが判っているのに、恋愛をしようと思えるわけがない。
「ね、ひどいでしょ?私のお母さんもね、そうだったみたいで」
言葉を失う僕とは対照的に、彼女はくすくす笑った。
「言ったでしょう、私は、君の死神だって」
佐伯さんを襲った男は、もとよりストーカー気質だったのかもしれない。しかし、もしかするとそいつも、彼女に魅入られてしまったのかもしれない。もちろん、彼女に一ミリだって非は無いけれど。
だって、AIはほとんど神様だから。
そのお告げの怖さは、僕自身もよく知っているから。
何かを諦めたような口調で、彼女は続ける。
「私は、それを知ってて君に話しかけたの。…軽蔑したでしょう。君が嫌だって言うなら、私は──」
「僕は、べつに構わないよ」遮るようにして答えた。
「え?」
「どうせ、死んじゃうんだから」
ほとんど衝動に近い何かが、僕の口を滑らせた。
まったく、アホである。彼女がバカなら、僕はアホだ。
それは本音だけれども、なにも、いま言うべきことではなかった。そろりと、彼女の表情を窺う。呆気に取られたまま固まっている。それはそうかもしれない。
「…いま、なんて言ったの?」
もう、誤魔化しようがあるまい。というか、誤魔化す気力もなかった。昨日の一件もあって、僕はくたびれていた。考えるのはやめにしよう。秘密を打ち明けてくれた彼女に、僕も腹を割ろう。
決意するのには、それほどかからなかった。僕自身も、このジレンマから逃れたいと思っていたのだ。
イヤホンを僕の端末につなぎ変える。彼女はただ呆然として、何も言わない。
そのまま、僕は問う。
「僕の寿命と死因は?」
右耳の中で、AIは冷たく答えた。
「十八年と三ヶ月、死因は自殺です」
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