第15話
朝から、予報通りの雨が降っている。通学路の躑躅は青葉に
蒸し暑くて敵わない。僕は水溜りを飛び越え跨ぎ越え、学校へ向かった。
教室に入ると、彼女はふつうに居て、入院していたことが嘘みたいだった。いまは瀬戸さんを含む数人と談笑していて、僕の入室には未だ気づいていないようだ。
そのまま教室の後ろ側を通り、自席に着く、その前に、前の席に座っていた温厚な彼が片手を挙げた。
「うぃっす」
「おはよ」
授業中のパートナーは佐伯さんに代わられてしまったが、それからも、彼は態度を変えることなく話してくれる。本来ならば彼のような人間こそ、佐伯さんに相応しいのかもしれない。
「綾辻さ、佐伯と仲良いんだって?」
「あ、うん、まあ」
「よかったな、カノジョが無事で。入院してたんだろ?」
「うん。でも、カノジョじゃないよ」
「あれ?そうなのか。てっきり付き合ってるもんだと思ってた。悪りぃ」
僕は曖昧に頷きながら席に着いた。
傍目には、そんなふうにみえるらしい。当たり前か。授業も食事も帰宅も、考えてみれば登校から下校までのあいだ、ほとんどの行動を彼女と共にしているのだから。
それくらい、仲良くなれたということだ。
ちらと佐伯さんのほうへ目を遣る。意図せず瀬戸さんと目が合ってしまって、慌ててそっぽを向いた。
友達と話す彼女は、とても幸せそうだった。
どうしてだか、ため息が漏れる。
「あ、そうだ綾辻」
「うん?」
「数学の課題教えてくれよ。提出、今日までなんだよ」
そしてどうしてだか、彼も数学が苦手だ。
今日は三つのテストを受けた。佐伯さんの得意な英語を含む、文系科目だった。
「今日のぶんはバッチリだね!」
テストの後、僕のところへやって来た彼女は、高らかに言い放って親指を立ててみせる。
「おう、佐伯。もう平気なのか?」
温厚な彼が振り返って問う。
「うん!
「赤点はない、ハズだがなぁ」
親しげに話す二人の様子に、僕は面食らった。
「あの、ちょっと、いいかな」
「ん、なんだ?」
「二人って、仲良かったっけ?」
「ああ、佐伯とは中学が同じでな。二人とも数学ができねえから、一緒に勉強したりしてたんだ」
「…へえ」
まったく初耳だった。やはり陽キャ同士、惹かれ合うものが有るのだろうか。
「そうなんだね。知らなかったな」
いたって真顔で言ったつもりだったのだけれど、彼女はニヤリと笑った。
「あ、その顔は、もしかしてやきもち?」
「は?」
「もー、綾辻くんってば、心配しなくても浮気はしないよぅ」
「もういちど入院するかい?今度は脳外科がいい」
「ひどい!」
僕らのやりとりを眺めて、温厚な彼は豪快に笑った。
「お前ら、ほんとに仲良いんだな。ちょっと応援したくなってきた」
そう言われると、なんだか気恥ずかしくなってしまって、僕は目を伏せた。
「そういや、先生に呼ばれてるんだった」と彼女。
「入院の話?」
「そ。追試あるんだろうなあ。やだなあ」
「ご愁傷さま」
「私を見捨てるの?」
「僕にどうしろっていうのさ」
「それもそうだね。よし、行ってくるよ」
彼女は廊下へ向かって歩き出した、と思ったが、すぐに立ち止まり、こちらを向く。
「すぐ終わると思うから、待っててね!」
「はいはい」二つ返事とともに、僕は右手をひらひら振った。待つのは嫌いじゃないので平気だ。
「んじゃあ、俺も帰るかな」
彼も立ち上がって、佐伯さんに続いた。
そのまま、二人は教室を出る。大抵の生徒たちは既に帰っていて、教室に残っているのは僕を含めた数人のみだ。いつもより静かな教室に、雨音がサラサラ流れる。
僕は頬杖をついて、窓外の雨を眺める。まだしばらく止みそうにない。灰色の空は奇妙に息苦しく、どこまでも続いている。眼下に眺む街並みに、開いた傘が行ったり来たり。自動車が水しぶきを跳ね上げて走る。
昨日の話を受けて痛感した。僕は、彼女についてあまりにも無知だ。これからも友達で居たいなら、もっと彼女を正確に理解する必要があるだろう。
一方で僕は、この関係の幕引きについても考えなければならない。それは、彼女を知れば知るほど、困難になっていくだろう。
二律背反。ジレンマ。
どちらにせよ、僕は思い切らなくてはならない。
「綾辻くん」
そうして十分ほどぼんやりしていると、声が降ってきた。佐伯さんとの出会いを思い出してしまったが、そこに立っていたのは瀬戸さんだった。眉間にシワを寄せて、あきらかに不機嫌そうである。
嫌な予感がした。そしてこういう場合、僕の予感は外れない。
「なにかな?」恐る恐る返事をする。
「ちょっと来て」
そうして連れていかれたのは、やっぱりあの階段だった。ほとんどの生徒が下校してしまった今、周囲はいつも以上に静かだった。
彼女はくるりと振り返って、僕を睨む。
「あんた、ふざけてんの?」
「ふざけてるって、なんのこと?」
「とぼけないで!陽花のことに決まってるでしょ」
ですよね。
それにしても、彼女はどうして、そんなに怒るのだろう。僕が佐伯さんと親しいのは、それほど不都合なことなのだろうか。
実際、僕の生活にこれといって変化はない。イジメに遭うこともなければ、陰口も聞かない。温厚な彼だって、当たり前のように僕らの関係を知っていて、それでも批判のような真似はしなかった。佐伯さんからも、そのような話は聞いていない。僕が把握できていないことがあるとしても、目くじらたてて怒ることではないように思う。
が、彼女はどうやら本気だった。僕を殺してでも佐伯さんから引き剥がすと言わんばかりの剣幕だ。
「…僕は、佐伯さんの友達でいたい。それは、いけないこと?」
「あんたみたいなのが、あの子の隣にいちゃいけないの。テキトーなこと言って、陽花を困らせてるんでしょ!」
「困らせるなんて、そんな…」
「陽花が倒れたの、知ってるでしょう?」
「知ってるけど。まさか、僕のせいだって言いたいの?」
「あんた以外に誰がいるっていうのよ!結局、あんたもアイツと同じなんだ」
「アイツ?」
話が見えない。疑われている理由も判らない。
瀬戸さんは軽蔑の眼差しを僕に向ける。
「なに?あんた知らないの?」
「だから何の話なのさ」
「…いい、べつに、あんたは知らなくていい。とにかく、これ以上陽花を苦しめないで」
ふっと、頭の中で妙な音がした。
それは非常に珍しいことだった。僕は、怒っていた。佐伯さんの冗談を憎たらしく思うのとはワケが違う。もっと、暴力的で激しい感情だ。
本気で殴ってやろうかと思った。
「いい加減にしてよ。僕がいったい、何をしたっていうの?」
「わからない?あんたが邪魔だって言ってるの」言いながら、彼女は僕に詰め寄る。負けじと、僕も彼女を睨み返す。
「知らないよ、そんなの。僕の知ったことじゃない」
ああ、もう我慢ならない。こっちは必死に佐伯さんのことで悩んでるっていうのに、横からしゃしゃり出てきて邪魔だなんて、そりゃあないだろ。
一触即発の張り詰めた空気を、先に暴力へ変換したのは彼女の方だった。腹部に鈍い痛みを感じる。彼女の拳が鳩尾のあたりにめり込んでいた。少女のものとは思えない重い拳だった。入りどころが悪かったのだろう、一瞬間、呼吸ができなくなる。
「このっ…」
ほとんど無意識に、僕は彼女の胸倉を掴む。堪忍袋の緒は疾うに切れていて、男とか女とか、そんなことを考える余裕もなかった。
身体能力こそ彼女の方が上だが、体格では僕の方がかなり有利だ。彼女も今更まずいと思ったのか、体をこわばらせた。構わず他方の拳を握りしめて、振りかざす。
「何してるの…?」
そんな僕の激昂を制止したのは、か細い、気をつけないと聞き逃してしまいそうな声だった。姿を確認するまでもなく、声の主は判っていた。
とっさに僕は拳を解いて、瀬戸さんを解放する。それから、ぎこちない動作で、声の発されたほうへ目を遣った。
佐伯さんは肩を竦めて小さくなって、あきらかに怯えていた。それを見て、ようやく冷静になった僕は、顔を背けた。
「陽花…」瀬戸さんが呟く。
「綾辻くんが、教室にいなかったから…」
気配で、佐伯さんが瀬戸さんに近づいたのが判った。それで余計にいたたまらなくなって、僕は両の拳を握りしめる。
「…ごめん」
それだけ呟いて、僕はその場から逃げ出した。背後から佐伯さんの声が僕を呼び止めたが、全て無視した。
なんだってんだ、もう。
早歩きで玄関を目指し、素早く靴を履き替えて、傘も差さずに飛び出した。雨は強くも弱くもならず、ずっと、一定の強度で降り続ける。水滴があちらこちらの水溜りで波紋に化けて、パタパタ、音だけを残して消えていく。
怒った。心の底から腹が立った。
僕と佐伯さんの関係を理解しようともせず、頭ごなしに否定されたことに腹が立った。それだけ、僕は佐伯さんのことを、真剣に考えていたのだろう。
なんだか可笑しくなってきて、雨の中で、僕は一人笑った。
瑣末事じゃなかったのか?
なりふりかわまず人に殴りかかるほど、僕は、どうにかしていた。不思議な出来事だった。自分のことにさえ必死になれない僕が、他人との関係で真剣に悩んで、あまつさえ、それを否定されたことに腹を立てた。
僕は、すっかり変わってしまったみたいだ。
いつもの緩い坂道に差し掛かったところで、カバンを置き忘れたことに気づく。ずぶ濡れのカッターシャツが肌にまとわりついて不快だった。
どうでもいいや。
佐伯さんに嫌われただろうか。自らが友達と呼んだ男が、親友の胸倉を掴んで、拳を振り上げていたのだ。父親に暴力を振るわれてきた彼女が、おそらく最も嫌うであろう光景。
どんな勘違いをされていたって仕方ないような状態だった。
…どうでもいいか。どうでもいいけど。
佐伯さんに嫌われたくは、ないなあ。
せっかく仲直りしたのに。僕が必死になって悩むべき事柄を与えてくれたのに。
黙々と歩き続けて、気づけば、家の前に立っていた。
無言で中に入る。幸い、両親は居なくて、僕は誰にも見られることなく、ずぶ濡れの制服を脱ぐことができた。貧弱な体を見下ろして、鳩尾のあたりに手を遣った。殴られた瞬間の息苦しさを思い出す。
僕は、どうすればよかったんだろう。以前までならともかく、僕はもう、瀬戸さんに従うことはできない。彼女を殴り飛ばしてでも、僕は、諦めたくなかった。
それほど、佐伯さんは僕にとって特別だということ。
なんだか疲れてしまって、着替えが済んだ後、僕はベッドに倒れ込んだ。仰向けになって目を閉じる。
ほんとうは。
ほんとうは、僕は、自分が死にたくないだけなんじゃないのか?
佐伯さんに別れを告げるのが恐ろしいなんて言って、結局、死の運命を否定したいだけなんじゃないか?
ここまできて、往生際の悪いことだ。
せめて、僕が佐伯さんのようになれたら。
短命でも、溌剌と生き抜く彼女のようになれたら、自殺なんて阿呆みたいな最期を迎えることもないのだろうか。
とすると、僕は彼女が羨ましいのかもしれない。
だから、僕は、ああ──。
解らない。
頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されて、もう、あまり何も考えられない。
ふっと意識が遠のいて、僕はそのまま眠りに落ちた。
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