第14話

 彼女の不在なんて知らん顔で、テストは滞りなく終わっていく。入院ともなれば学校側も然るべき配慮はしてくれるはずだが、おそらく追試は免れまい。それなりに勉強していたことを知っているだけに、ちょっと不憫に思われる。

 月曜日に通話してから、僕はようやく平素の落ち着きを取り戻した。テストの問題も、いつもどおりに解けた。つまり、彼女が気がかりでなかった言えば、嘘になるということだ。残念ながら。

 そして水曜日、三教科ぶんのテストを終えて、約束通り彼女を迎えに行くことにした。今日もよく晴れている。信じられないことに、明日は雨が降るそうだ。

 道すがら、将来について考えていた。終わるべき僕の命について。

 いったい、いつ打ち明ければいいのだろう。見当もつかない。なんと言えばいいのかも判らない。

「僕、二十歳で死ぬんだ」

 なんて言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。またあるいは、

「高校を卒業したら、二度と会えないから」

 なんて言ったら、彼女は何と応えるだろうか。

 判らない。

 けれども、きっと首を縦に振ってはくれないだろうと、それだけは、なんとなく予感していた。

 僕は彼女とケンカしたし、仲直りした。それは、人間が共に在ろうとする営みだ。遺伝子も肉体も、もちろん精神も異なった人間が、それでも一緒にいたいと思うから起こる事柄だ。僕は、彼女と友達でいたいのだろう。

 だが他方で、僕は彼女を突き放したがっている。彼女を傷つけたくないというエゴ。遠くない未来、死んでしまうと判っている人間と、どうして友達でいたいと思えるだろう。いや、彼女だって死んでしまうけれど。自殺と病死は、まったく属性の異なるものだ。僕の自殺は、彼女の前向きな人生を冒涜することに等しい。

 相反する二つの気持ちは、彼女との仲直りを境に、どんどん大きくなって、僕の中でぶつかり合っている。どうしても割り切れない。

 だって、いつかバイバイすることが前提の関係なんて、悲しいだけじゃないか。


 彼女に教えてもらった病院に到着した。

 昔からある病院なんだそうだが、その歴史の長さゆえに何度か改築が行われて、今ではお化けのように大きな建物となっている。この辺りで倒れたならば、まずもって真っ先に運び込まれるべき病院である。

 受付の前には幅数メートルはあろうかという大きな水槽が設置されてあって、体長数センチ程度の色鮮やかな熱帯魚たちが、ライトアップされた水草と流木の間を群泳している。手前を泳ぐ、あの青色の魚はネオンテトラとかいうのだったか。

 佐伯さんは僕の存在に気づかず、ベンチに座って手もとの端末をじっと見つめていた。どうやって声をかけようか悩み、数秒でどうでもよくなってしまって、素直に近づく。肩をたたくまでもなく、彼女は僕の影に気づき、顔をあげた。

「久しぶりだね」と僕。

「そうだねぇ」と彼女。

「元気にしてた?」

 端末をバッグに仕舞いながら、彼女が問うた。

「それはこっちのセリフだよ。いきなり倒れたなんていうから、ビックリしちゃった」

「んふふふふ、やっぱり心配してくれてたんだね」

「義理だって言ったでしょ」

「素直じゃないなあ。まあいいや、帰りながら話そうか」

 言って、彼女は立ち上がると、僕と並んで歩き出す。病み上がりの彼女を気遣って、僕は歩調を半歩緩めていた。

 ── と、ここまでは威勢がよかった彼女だが、一歩、病院の外へ出た途端、「あつい」と「溶ける」を連発し始めた。

「だめ、また倒れるかも」

「リハビリだと思って我慢しなよ」

「そんなぁ。病室は快適だったのにぃ」

 歩道に落ちた街路樹の影に、出たり入ったり、ちらちら、葉漏れ陽が彼女の白い頰に落ちたり、二人の足音が、くっついたり離れたり。

「それで、体は平気なの?」

「うん。なんともないよ」

「疲れが溜まってたんだって?」

「そ。だから、もう大丈夫」

 通話時に感じた違和感は、本人を見ることで薄らいでいた。平素の柔らかな微笑みが、なによりの証拠のように感じられたのだ。彼女は体が弱いのだから、そんなこともあるかもしれない。

 だから僕も、それ以上訊くことはしなかった。

 それにしても。

「何かあったの?これまで、こんなこと無かったじゃん」

 彼女は手を顎へ遣って、なにか考える素振りをみせる。そのまま数秒、黙ったままで、何かを言うべきか言わざるべきか悩んでいるようだった。

 ちょうど赤信号で立ち止まった時。

「君に、こんなこと言うのはおかしいけど。最近、しょっちゅうお父さんとケンカするんだ。と言っても、私が殴られてばっかりなんだけど」

「…いま、なんて?」

 穏やかじゃない話だ。彼女は苦しげに唇を噛んでから、僕を上目遣いに見る。

「…やっぱり、聞かなかったことにしてくれない?」

「だめ」

「だよねぇ」


 話の続きを聞くべく、僕らは近くの公園に立ち寄った。自販機で飲み物を買って、木陰のベンチに並んで腰掛ける。

 僕はプルタブを引き上げながら口をひらいた。

「で、殴られてるっていうのは?」

「小学校高学年くらいから通院し始めたって、言ったよね?」

「うん」

「あの頃までは、よくお父さんに殴られてたの。君に訊かれて誤魔化したけど、これも、虐待の痕なんだ。アイロンで、ジュって。ワガママ言わないからって泣いても、許してくれなかった」

 言いながら、彼女は右手を差し出した。いまはあまり目立たなくなっているが、その傷は、ひどく痛々しくみえる。

 思わず顔をしかめる。それを見て、彼女はくすくす笑った。

「そんな顔しないでよ。珍しくもない話でしょ?ニュース見てたら、死んだなんてのもよく聞く話だし」

 それは、そうなのかもしれない。しかし、実際に友達が被害者と聞くと、とても無感動ではいられない。

 彼女は缶に口をつけて、炭酸で喉を鳴らした。平然とした声色に、僕は却って心配になる。

「私が一度倒れて、病気が判明して、それからは、ちょっとマシになった。相変わらず冷たいし、酔っ払うと、未だに殴られたりするけど」

「…お母さんは?」

「私が小さい頃に、交通事故で死んじゃった」

「そっか…」

「ほんとはね、お母さんは結婚なんてしちゃダメだったんだよ。おばあちゃんから聞いたんだけどね、お母さんは、男の人をダメにしちゃうみたいでさ。結婚なんてできないって、AIに言われてたのに、無理矢理しちゃったんだ」

 たしかに、ありふれた話。

 AIに逆らうような真似。天に向かって唾を吐くような真似。

 その結果、彼女が酷い目に遭った。母親自身も、仕組まれたかのように死んでいる。

 やはり僕らは、AIに逆らえない。

「…大丈夫じゃないと思うけどさ、大丈夫なの?」

「へんな質問。でも、うん、まあ、最近が特別だっただけで、いっつも殴られてるわけじゃないから。普段は、口もきかないことが多いよ」

「そっか、よかった」

 この時ばかりは素直に言わざるを得なかった。

「だから、へんに気遣わなくていいからね。むしろそうしてほしい」

 彼女は細い手指で缶を包んで、呟いた。

 僕は「わかった」と答えて、背中を丸めた彼女を眺める。

 この細い肩は、これまでどれほどの苦痛に耐え忍んできたのだろうか。それを想像すると、なんだか不安になってしまった。

 それで、つい、要らぬことを口走る。アホである。

「…でも、辛いことがあったら、死んだりせずに僕に言ってね」

 なんともまの抜けた励ましに、彼女はぽかんと口を半開きにして、僕を見た。困ってしまって、目を逸らす。

「あ、いや、その。なんだか、すごく辛そうにみえたもんだから、つい」

 なにやってるんだ。人に言えた義理ではないのに。

 彼女はしばらく何も言わず、ただじっと、僕の顔を見つめていた。

「佐伯さん?」

 何も言わない彼女を訝しんで、眉根を寄せる。すると佐伯さんは、缶を置いて突然立ち上がった。僕の正面へ移動してしゃがみ込むと、僕の右手を彼女の左手で、左手を右手でとって、ギュッと握った。思いもよらない事態に、心臓が跳ねる。

 それから彼女は、まっすぐに僕の顔を覗き込んで、不思議なくらい幸福そうに相好を崩した。顔をクシャッとさせたような、ちょっと恥ずかしそうな表情でもあった。

「ありがとう」

 それだけ言って、彼女はすぐに僕の手を放し、缶を手に歩きだした。今度は僕の方が呆気にとられて、二、三歩遅れて立ち上がり、彼女に続いた。

「ちょ、ちょっと、佐伯さん?」

「綾辻くん」

「なに?」

「私は君が憎いよ。心の底から」

「え?どうして?なにか悪いこと言った?」

「言ってないよ。悪いのは、私」

 相変わらず穏やかな微笑を浮かべる横顔は、とても僕を憎んでいるとは思えなくて、つまり、その言葉が書いて読んだままの意味でないことくらい、判っていて── されど彼女の真意は掴めず、僕はさらに二、三言、追求した。彼女は答えてくれなかった。

 その代わりに、僕らはどうでもいい話をしながら歩いた。明日の天気とか、月夜の闇がどうしてあんなに緑がかって寂しいのか、またあるいは、シチューはご飯にかけるべきか否か。

 そして、いつの間にやら辿り着いていた交差点で、彼女は一つだけ、冗談めかした口調と表情で告げた。

「また明日」

 それは、とても本当らしい言葉だった。

 僕は笑って、「また明日」と応えた。

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