第13話
佐伯さんに約束をすっぽかされたまま、月曜日を迎えた。午後八時頃にもう一度通話を試みたが、これにも応答はなかった。
教室にも佐伯さんの姿は無かった。そのうちにテストが始まる。ひとつめの教科は、彼女の苦手な数学だった。問題なく解けたけど、どうしてだか、彼女の顔が脳裏を過ぎったりして、いつもより集中できていないことが、自分自身でも判っていた。
そのまま物理のテストが行われ、放課の時刻になっても、彼女は現れなかった。
佐伯さんに呼び止められることも無いので、すんなりと教室を出る。ひと月ほど前までの僕の日常。人間はほんの一ヶ月くらいで、まったく違うモノになってしまえるらしい。
生徒玄関へ続く廊下で、ちょうど担任の先生と鉢合わせる。物理を教えているが、見た目は体育会系以外の何者でもないような、恰幅の良い男性である。
「先生」
「おう、どうした?」
「佐伯さん、休みなんですか?」
「ああ。昨日、体調を崩したらしくてな。明後日まで休むそうだ」
「そう、ですか…」
簡単に礼を述べて、先生と別れる。
やはり、何かあったらしい。
そういえば彼女は時々、早退することがあった。これまでは関わりもなかったから気にも留めなかったが、言われてみれば、病弱の片鱗は見え隠れしていたのだった。
僕は、自分で思っていた以上にバカだった。
せっかく仲直りしたというのに、僕はまた、一人で通学路を歩いていた。喧しい蝉時雨が今日はなんだか白々しく聞こえる。六月には花の残っていた躑躅も、もうすっかり青葉ばかりを茂らせている。
生きようとするものは、何だって鮮やかなんだなと思った。
ぼんやりしていると、端末が鳴動する。画面に彼女の名前。すぐさま応答した。
「ごめん!」
こちらが一言挟む前に、彼女は元気いっぱいに言った。とても病身だとは思えない。
「…昨日のことなら、いいよ。気にしてないから」
「ホント?」
「ホント」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとだよ。それより、大丈夫なの?体調崩したって聞いたけど」
えー、とか、あー、とか、曖昧な発音で、彼女は躊躇いを窺わせた。その意味は判らなかったが、最終的な答はシンプルだった。
「実は、入院しててさ。明後日には退院できるらしいんだけど」
「入院?何があったの?」
「や、ちょっと疲れが溜まってたみたいで、バイト先で倒れちゃって」
僕は顔を顰めた。どうにも不自然だ。疲れが溜まって倒れるというのは聞いたことがあるけれど、入院する羽目になるものだろうか。しかも三日間。僕は現代医学について何も知らないから判らないけれど、三日間の入院というのは、少なくとも僕には大仰に聞こえる。
こちらの気配を察してか、彼女はことさら元気な笑い声を披露する。
「もしかして、心配してくれたの?」
反射的に、つけあがらせてはいけないと思った。
「義理ってものがあるからね」
「ひどい!さんざん遊んで捨てるのね!」
「君とは最初から遊びだよ。知らなかったの?」
下らない茶番に、自然と笑みがこぼれる。
「そのぶんだと、もう平気そうだね」
「うん。木曜日には学校行けるからね」
「花畑は、もういいの?」
一瞬間、彼女は言葉に詰まったようだった。けれど、あくまで明るい声で答える。
「とりあえず保留で。またタイミングを見計らって君を拉致するから、覚悟しといてね」
「家の鍵を新調しておくよ」
話しながら歩いていた僕は、そろそろと坂の頂上へ至ろうとしていた。佐伯さんと話し始めてから気づいたのだが、通学路は一人で歩くよりも二人で歩いた方が短く感じる。食事だって、一人よりも二人の方が美味しいような気がする。
「暑そうだね」
蝉時雨が聞こえたのだろう、彼女が言った。
「ほんとにね。そろそろ、いつもの交差点に着くよ」
「そっか…ねえ、綾辻くん」
「うん?」
「水曜日、さ。よかったら、迎えに来てくれない?ほら、昼間だから、親も来られなくて」
素直に頷きかけて、やっぱり止す。
「高くつくよ?」
「足りないぶんはカラダで払うから」
「下ネタ禁止にしない?ズルいよ」
端末越しに、彼女はカラカラ笑う。それから、病院名を告げた。ここからだと歩いても行ける距離だ。問題ないだろう。
「時間は?」
「十二時ってことになってる。別に、私は待つの平気だから、ゆっくり来てくれていいからね」
相変わらずへんなところで律儀だ。テストが終わるのはだいたい十一時半くらいだから、急がずとも丁度良い時間に到着できるだろう。
「わかった。迎えに行くよ」
「ありがとう」
通話を終了する。蝉時雨が少しだけ静かになった気がした。
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