第12話

 その翌日、午前七時に叩き起された僕は、ひどく不機嫌だった。原因はやはり、佐伯さんからの着信である。

「君の体内時計はネジが緩んでるみたいだね」

「あっはは!やっぱりその声、なんかツボる!」

「締め上げてやろうか」

「怖いってば!朝早く電話したのは悪かったって。でも、今回はちゃんと理由があるんだから、許して」

「…シチューご飯問答じゃないだろうね」

「違うよー。初めてのケンカ記念に、デートがしたいなって」

「どこからツッコめばいいのさ」

 あれは、果たしてケンカだったんだろうか。自分でもよく判らない。まあ仮にケンカと呼ぶにしても、記念すべきことではないし、僕らは友達だからデートはしない。

「あのね、お花畑に行きたいの」と、出し抜けに彼女が言った。

「また?」

「うん。今度は、ちゃんと『友達』として」

 それ見たことか。さっそくネタにしやがった。

 それに、あの花畑は恋人の聖地だったはずだ。友達と行っても無意味じゃないか──と、思ったことが口に出ていたらしく、端末の向こうで、明らかにむくれる気配があった。

「いいの、細かいことは!」

「ぜんぜん細かくないと思うけど…まあいいや。今日行くの?」

「うん!私、午前中はバイト行かなきゃだから、午後からだけど、だいじょぶ?」

「いいよ」

「じゃあ、十三時に、坂の上で」

 わかった、と言って通話を終える。

 あの交差点で会うのが、すっかり恒例になっている。彼女と話すようになって、ずいぶん時間が経ったように思うけれど、実際には未だひと月ほどしか経っていないのだ。長く生きると時間の経過を早く感じるようになるそうだが、僕にはまだ、それが解らない。

 端末を手に持ったまま立ち上がる。二度寝をする気にもなれなくて、そのまま机に向かった。どうせ暇だから、約束の時間までテスト勉強でもしていよう。

 そう思い立って、教科書やらノートやらを開いた、そのとき、ふと思った。

 どうして僕は、勉強なんかしてるんだろう。

 どうせ死ぬのに。

 当たり前のように真面目に生きてきた。それは、たぶん将来のためだ。勉強して、良い大学へ進んで、安定した職に就かなければならないと、小さなころから教えられてきた。大人がみんな、口をそろえて言うから、従った。それだけのことだ。

 でも、大人になれない僕には、安定した未来なんて必要ない。なら、今を頑張って生きる意味は、いったいどこにあるのだろう。

 手に取ったシャーペンを机上に戻す。

 AIによれば、僕の命日は二十歳の冬の日らしい。もちろん、病気で定められた寿命ではないから、それは僕自身の意思によって覆されうる。が、僕は、それくらいに死んだ方が良いそうだ。

 机上に置いた端末に話しかける。

「僕は、どうして死んだ方が良いんだっけ?」

 AIはすかさず答えた。

「貴方は、精神的に非常に貧弱であり、健全な社会生活を送れる可能性が極めて低いのです。そのうえ、生物学的な解析によれば、二十五歳を過ぎずして多くの疾患をかかえると予想されます」

 僕が中学生のころから変わらない答だった。変化を期待していたわけでもないが、ちょっと落胆して、「ありがとう」と言いかけた、のだが、AIは僕を遮った。

「加えて──」

「…加えて?」

「貴方は、佐伯陽花さんと友人関係にあります。このままですと近い将来、あなたがたは男女としての交際を始めると推察されますが、これが実現された場合、実生活において、さらなる苦難を強いられる可能性があります」

 佐伯さんと話す前には、当然、聞いたことの無い話だった。そういえば生物学的に相性が悪いとか聞いたけれど、あれも自殺の理由に含まれるのか。

 男女として、交際する。

 AIは、この世界でほとんど絶対的だ。根拠のある神様のお告げ。完全完璧な未来予知とまではいかないが、それにきわめて近い何か。

 依然、AIが正しいのだとしたら。

 やっぱり僕は、どこかで彼女とサヨナラしなくちゃならない。今はできなくても。少なくとも高校を卒業したら、もう会えない。会ってはいけない。

 僕も彼女も、不幸にならないために。

 自身の思考に感じる奇妙な違和感には、苦虫を噛み潰した気分で目を瞑った。


 結局、勉強する気にはなれず、ベッドに寝転がってぼんやりしていた。頃合いを見計らって昼食を摂り、支度を始める。それから、僕にしては珍しく、時間に余裕をもって家を出た。

 待ち合わせ場所に着いたのは、十二時五十五分だった。七月になって勢いを増した蝉の大合唱と、突き刺さるような陽射しに目眩がする。ちょっとの間だから平気だと思っていたけれど、律儀に五分前集合するんじゃなかった。

 佐伯さんの姿は無い。僕は近くにある小さな商店の軒先に避難して、言い訳のために自販機で缶コーヒーを一本買った。それをちびちび飲みながら、彼女を待つ。

 時刻は十三時をまわった。彼女が約束通りに現れないのはそれほど珍しいことでは無いので、僕は気にせず待っていた。

 疑問に思い始めたのは、それから三十分ほど経ってからだった。焼けるような暑さに苛立って、端末を確認する。彼女からの連絡は無い。

 さすがに遅すぎるような気がする。すっぽかされた?いや、彼女に限ってそれは無い、と思う。いくら僕が陰キャだからと言って、それはあんまり疑いたくない。

 と、僕は彼女について、重要なことを思い出す。

 ── これでも私、体弱いんだからね?

 そうだ、彼女は体が弱いのだ。いつも元気に笑っていて、疲れた様子さえほとんど見せないから、すっかり失念していた。

 もしかして、彼女の身に何かあったのではないか。

 その可能性に思い当たり、なんだか落ち着かなくなってきた僕は、連絡先の一覧を端末に表示させる。『佐伯陽花』の名前は探さずともすぐに見つかった。

 迷わずタップした。無機質な呼び出し音が耳元で繰り返され始める。一回、二回、三回…。

 反応がない。

 明らかにおかしい。すっぽかされたのでなければ、彼女の身に何かが起こっている。

 矢も盾もたまらず、僕は炎天下へ飛び出した。しかしそこで、致命的なことを思い出す。

 彼女の家を知らない。そういえば一度も、彼女の家へ行くことはなかった。バイト先も聞いていないし、いま学校へ行ったって、会えるわけがない。

 愕然として、空を仰ぐ。僕は、彼女についてあまりに無知だった。平常運転の無関心が邪魔をして、僕は、彼女について知ろうとしなかった。

 結局、僕にできるのは待つことだけだった。十四時を過ぎても彼女は現れず、やむなく、僕は帰路についた。


 佐伯さんに約束をすっぽかされたまま、月曜日を迎えた。午後八時頃にもう一度通話を試みたが、これにも応答はなかった。

 教室にも佐伯さんの姿は無かった。そのうちにテストが始まる。ひとつめの教科は、彼女の苦手な数学だった。問題なく解けたけど、どうしてだか、彼女の顔が脳裏を過ぎったりして、いつもより集中できていないことが、自分自身でも判っていた。

 そのまま物理のテストが行われ、放課の時刻になっても、彼女は現れなかった。

 佐伯さんに呼び止められることも無いので、すんなりと教室を出る。ひと月ほど前までの僕の日常。彼女の存在がいかに僕の日常を変えてしまったのか、思い知る。

 生徒玄関へ続く廊下で、ちょうど担任の先生と鉢合わせた。物理を教えているが、見た目は体育会系以外の何者でもないような、恰幅の良い男性である。

「先生」

「おう、どうした?」

「佐伯さん、休みなんですか?」

「ああ。昨日、体調を崩したらしくてな。明後日まで休むそうだ」

「そう、ですか…」

 簡単に礼を述べて、先生と別れる。

 やはり、何かあったらしい。

 そういえば彼女は時々、早退することがあった。これまでは関わりもなかったから気にも留めなかったが、言われてみれば、病弱の片鱗は見え隠れしていたのだった。

 僕は、自分で思っていた以上にバカだった。


 せっかく仲直りしたというのに、僕はまた、一人で通学路を歩いている。喧しい蝉時雨が今日はなんだか白々しく聞こえる。六月には花の残っていた躑躅も、もうすっかり青葉ばかりを茂らせていた。

 生きようとするものは、何だって鮮やかなんだなと思った。

 ぼんやりしていると、端末が鳴動する。画面に彼女の名前。すぐさま応答した。

「ごめん!」

 こちらが一言挟む前に、彼女は元気いっぱいに言った。とても病身だとは思えない。

「…昨日のことなら、いいよ。気にしてないから」

「ホント?」

「ホント」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとだよ。それより、大丈夫なの?体調崩したって聞いたけど」

 えー、とか、あー、とか、曖昧な発音で、彼女は躊躇いを窺わせた。その意味は判らなかったが、最終的な答はシンプルだった。

「実は、入院しててさ。明後日には退院できるらしいんだけど」

「入院?何があったの?」

「や、ちょっと疲れが溜まってたみたいで、バイト先で倒れちゃって」

 僕は顔を顰めた。どうにも不自然だ。疲れが溜まって倒れるというのは聞いたことがあるけれど、入院する羽目になるものだろうか。しかも三日間。僕は現代医学について何も知らないから解らないけれど、三日間の入院というのは、少なくとも僕には大仰に聞こえる。

 こちらの気配を察してか、彼女はことさら元気な笑い声を披露する。

「もしかして、心配してくれたの?」

 反射的に、つけあがらせてはいけないと思った。

「義理ってものがあるからね」

「ひどい!さんざん遊んで捨てるのね!」

「君とは最初から遊びだよ。知らなかったの?」

 下らない茶番に、自然と笑みがこぼれる。

「そのぶんだと、もう平気そうだね」

「うん。木曜日には学校行けるから」

「花畑は、もういいの?」

 一瞬間、彼女は言葉に詰まったようだった。けれど、あくまで明るい声で答える。

「とりあえず保留で。またタイミングを見計らって君を拉致するから、覚悟しといてね」

「家の鍵を新調しておくよ」

 話しながら歩いていた僕は、そろそろと坂の頂上へ至ろうとしていた。佐伯さんと話し始めてから気づいたのだが、通学路は一人で歩くよりも二人で歩いた方が短く感じる。食事だって、一人よりも二人の方が美味しいような気がする。

「暑そうだね」

 蝉時雨が聞こえたのだろう、彼女が言った。

「ほんとにね。そろそろ、いつもの交差点に着くよ」

「そっか…ねえ、綾辻くん」

「うん?」

「水曜日、さ。よかったら、迎えに来てくれない?ほら、昼間だから、親も来られなくて」

 素直に頷きかけて、やっぱり止す。

「高くつくよ?」

「足りないぶんはカラダで払うから」

「下ネタ禁止にしない?ズルいよ」

 端末越しに、彼女はカラカラ笑う。それから、病院名を告げた。ここからだと歩いても行ける距離だ。

「時間は?」

「十二時ってことになってる。別に、私は待つの平気だから、ゆっくり来てくれていいからね」

 相変わらずへんなところで律儀だ。テストが終わるのはだいたい十一時半くらいだから、急がずとも丁度良い時間に到着できるだろう。

「わかった。迎えに行くよ」

「ありがとう」

 通話を終了する。蝉時雨が少しだけ静かになった気がした。

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