第8話

 期末テストが一週間後にせまり、普段は寝てばかりの生徒たちも、そこそこ真面目な顔つきで授業を聞くようになった。ウチの高校はそんなにハイレベルでないから、そこそこ勉強しておけば、赤点を取ることはあまり無い。

 …のだが、例外がここに居た。

「私、最近いっつも数学赤点なんだよね」

 相変わらず綺麗に作ってあるお弁当を食べながら、佐伯さんは言う。僕は食堂で味の薄いうどんを啜りながら彼女の話を聞いていた。

「…それは、ご愁傷さまだね」

「あー、いま見下したでしょう!性格悪いなあ」

「君はへんなところ敏感だね…」

「ねえ、助けてよ」

「申し訳ないけど不正行為は手助けできないね」

「不正行為なんて言ってないでしょー!」

 あれ、違うのか。てっきり、カンニングの手伝いをしろって言うのかと思ってた。

「そうじゃなくて、ほら、勉強教えてよ」

「えー、めんどくさい」

「ひどっ!」

「だって、勉強なんて、根性でどうにかするしかないでしょう」

 天才と呼ばれる人種を除いて、学力は努力に比例するのだと、僕は信じている。才ある者と比べてどうとか、限界がどうとか、そんなことは知ったこっちゃないが、とにかく、テストで良い点を取りたければ、頑張るしかないのだ。

 しかし彼女には伝わらなかったらしく、わざとらしく顰めっ面を見せる。

「それは、君が賢いから言えるんだよぅ」

「そんなことないよ。だいたい、ホントに賢いヤツは勉強しなくていいんだから。努力が必要な時点で、そいつらは有象無象なんだ」

 極端なことを言った。しかし嘘は吐いていない。僕も彼女も、天才じゃないから努力しないといけない。ただ、それだけだ。

 彼女はなおも食い下がる。

「でも、才能にはランクがあると思うの」

「中途半端な天才が居るってこと?」

「そ。神様って、たぶん、人間をそんなふうに造ってるんだよ」

「また、君は大仰なことを」

「そう思わない?」

「あんまり」

「ええー。だってそうじゃないとさ、世の中の物ってだいたい一緒になっちゃうでしょう?ほんとに、馬鹿と天才が紙一枚しか挟んでないんだから」

 言い返しかけた口を噤んで、彼女の目を見た。見返された。何も言えなくなった。

 それは、その通りなのかもしれない。物事をそのまま受け取れず、極端な見方ばかりするから、僕は、ウィッチイズナイスを言えないでいるのかもしれない。

「…まあ、それが正しいとしても、ある程度は努力しなよ。解らないところが有れば教えてあげるから」

「努力の仕方も判らないバカはどうすればいいの?」

「そう来たかあ。うーん、そう言われると」

「ね、助けが必要でしょう?」

 意外と、反論できなくなってしまった。努力の仕方が判らない人間の存在を否定できない。そんなヤツも、たしかに居るかもしれない。

「…まあ、その主張は認めよう」

「やったやった!じゃあ、君んち行っていいかな?」

「どうしてそうなるのさ」

「えー、いいじゃん。行ってみたいんだよ」

「図書館とかでいいんじゃない?」

 ちょうど、駅付近に新しくて大きな図書館が在ったはずだ。勉強用のスペースも有るらしいから、テスト勉強をするにはうってつけだと思う。

 けれど、彼女は頑なに認めようとしない。

「混んでるかもしれないし。それにほら、人が多いと気を遣うでしょう?」

「行ってみないと判んないよ?」

「むー。そんなにヤなの?」

 嫌なんだろうか、僕は。

 彼女を部屋へ招き入れることに若干の抵抗を感じるのは、何故なんだろう。自分でも解らなかった。

 食事を続けながら、少しの間悩んだ。そして、どうでもよくなってしまった。勉強を教えてあげるだけ。他に、どうということもない。

「…いいよ」

「ほんと?やった!じゃ、さっそく明日、行くね」

「わかった」


 翌日は土曜日で、よく晴れた夏の日だった。

 朝、目が覚めて、何をしようかと考えて、すぐに彼女の顔が頭を過ぎったことに嫌気がさした。毒されている。誰かの存在を前提とした一日なんて、これまでに無かったかもしれない。

 そうだ。一日だって、無かったかもしれない。

 思えば僕は、人をあまりアテにしてこなかった。それは『誰も信じない』みたいな、いわゆる厨二病の戯言ではなく、もっと単純な思考放棄に依るものだ。人はアテにならないと、当たり前のように思っていた。両親を除いては、ほとんど他人に期待したことが無いと言っても過言でない。

 そんな僕が、いま、彼女の来訪をアテにして、その準備に取り掛かろうとしている。なんとまあ、僕は部屋を掃除しようとしている。

 どうしちゃったんだか。

 彼女に、会いたいとは思わない。学校に居て、食事を共にしたり、授業中の活動でペアになったり、そういうことは全然構わないが、では休みの日にも話したいかと問われれば、それは否である。僕は彼女を恋しく思わないし、むしろ面倒だとすら感じる。それは、今現在も変わらない。

 じゃあ、どうして僕は、掃除なんかしているんだろう。

 その難問は百秒くらい僕の頭を悩ませた。

 そのうち考えることにも飽きて、僕は掃除機で絨毯を撫で回しながら、違うことを考え始めた。

 といっても、それはやっぱり、佐伯さんのことだった。

 彼女はいったい、何を考えている?

 僕は、彼女の心中を理解できないでいた。

 親しくされればされるほど、僕は戸惑った。彼女が気安い人間で、一緒に居ることを苦痛と感じない人であったとしても、それは、それだけは気掛かりだった。死因だとか死神だとか、不穏なことを言うわりには、なにを仕掛けてくるでもなく、彼女は僕を友達と呼ぶ。

 あ。

 ふと、気づく。

 僕は、他人から寄せられる感情を、二種類にしか分けられない。

 好意か、悪意か。

 考えてみればおかしな事だし、人間心理に、もっと微妙な側面が存在することくらい、常識として知っていた。けれど僕は、これまで当たり前のように、他者からの評価を良い悪いの二元論に落とし込んでいた。

 その認識で、困ることは無かったから。身を守るには十分な思考だったから。だから、改めようとも思わなかった。

 もしかしたら彼女は、人間のなにか大事な部分を、僕に教えてくれようとしているのかもしれない。いや、それが彼女の目的ではあり得ないけれども。


 午後一時。今日は、時間通りにやって来た。

 チャイムの音に、僕はベッドから起き出して玄関へ向かった。ドアを開けると、果たして佐伯さんが立っている。夏らしいワンピースが、童顔の彼女にひどく似合っていた。口には出さなかったけれど。

「いらっしゃい。あがって」

「おじゃましまーす」

 彼女は上機嫌に宣言してから、白いサンダルを脱いだ。

「あれ、ご両親は?」

「居ないよ。買い物に行ってる」

「あ、そうなの」

 彼女を二階の自室へ連れて行った。なんだか気恥しいような気がするのは、たぶん人生経験の乏しさのせいだ。

「わー、これが、綾辻くんの部屋かあ」

「殺風景でしょう?後悔した?」

「あ、ベッド発見。お宝はこの下かなー?」

 言いながらベッドへ駆け寄り、膝をついて覗き込む。ちょっとでも客人扱いした僕がバカだった。

「入室後一分と経たずにベッドを覗き込む客は、後にも先にも君だけだろうね」

 ため息を吐きながら、ローテーブルの一方に腰を下ろす。ほとんど同時に彼女も物色を止めて、こちらを向いた。

「なんにも無いじゃん!」

「どうして怒ってるのさ」

「もー、期待してたのにぃ」

 なぜか不服そうな彼女は、それでも僕の向かいのクッションにペタンと座った。

「ふつう、男の子ってそういうの、隠してるものじゃないの?」

「漫画の読みすぎだよ、きっと。そもそも、そんな判りやすいとこに隠さないって」

「え、なら、どこに隠してるの?」

「持ってないよ。そうじゃなくても教えないよ」

「えー、つまんない」

「君は、ほんとに何考えてるか解んないね…」

 もうすでに疲れた。お引き取り願いたいくらいだ。

 当の彼女はそんな僕を差し置いて、バッグからノートやら教科書やらを引っ張り出していた。やる気はあるらしい。僕もいったん立ち上がって、机上から教科書を取り上げた。

「大事なことだと思うの」真面目な顔で彼女が言う。

「何が?」

「彼氏の性癖」

「今すぐお引き取り願えるかな?できれば二度と来ないように」

 彼女の脳内ではニューロンの接続があべこべになっているらしい。オマケに接触が悪い。絶望的な粗悪品だ。

「でもまあ、思ったより綺麗に片付いてるね。エロ本も無いし」いまさら部屋を見回す彼女。僕は試験範囲の最初のページを開きながら、小声で返す。

「期待を裏切って悪かったね」

「ホントだよー!エロ本の一つも置いてないなんて、それでも男の子なの?」

「じゃ、始めようか」

「よろしくお願いします!」

 この素直さだけは、素直に尊敬したい。

 かくして僕らはテスト勉強を始めたわけであるが、まもなく、僕は事の重大さに気づく。

 彼女は、数学のセンスが絶望的に悪い。なにもスマートに計算する必要は無いけれど、わざわざややこしいことをしたり、難しく考えすぎたり。これは、なかなか手強いかもしれない。

「とりあえず、たくさん勉強することをオススメするよ」

「えー、そんな!見捨てないでよぅ」

 泣きそうな顔で懇願され、さすがにノーとは言えなかった。しかし、よい解決策が浮かばないのも事実である。

 一種の気まずさを感じた僕は、良い答を期待して問う。

「あのー、もしかして、ほかの教科もヤバかったり?」

「んーん、そんなに。赤点はないし、英語と国語は自信あるよ!」

 典型的な文系である。かく言う僕も、理系よりは文系の方が得意だが、それにしても、極端な例があったものだ。これは、一朝一夕には解決しえない。

 とりあえず、付け焼き刃でも基本的なところだけは押さえてもらいたい。そうすれば、少なくとも赤点をとることはないだろう。

 さっそく、僕は今回の試験における急所のみをまとめて、なるべく端的に説いた。一度は授業で聞いた内容だから、それほど疑問はないらしく、彼女は黙って聞いていた。

「じゃ、改めて問題解いてみよう」

 僕がいくつか問題を示し、彼女はペンを動かす。しばらくは、特に引っ掛かる場面もなく、スムーズに進んだ。しかし、やはり解けないのは応用問題だった。まあ、誰にとっても難しいところであろうが、それにしても応用力に乏しすぎる。

 苦戦しながら、すこし難しめの問題を二つ三つ解いて、また引っ掛かったところで、彼女は小さく叫んでペンを投げ出した。

「あー、もう!なんでそんなひねくれたこと訊くのかなあ!」

「気持ちは解るけどね。こればっかりは、慣れるしかないと思うよ」

「これは、ちょっと努力が必要だね」

「だから言ったでしょう。根性だって」

「いいえ、根性だけじゃダメです」

「と言うと?」

「誰か居ないとやる気出ないんだよ」

 知ったこっちゃない。甘えんな。

 喉元まで出かかった本音を飲み込めたのは、僕自身も数学が得意じゃないからだ。ペンを投げ出したい気持ちは解る。

「だから、お願いしますね、先生?」

 猫撫で声で言って、彼女は微笑む。

「友達とやればいいでしょう」

「こんな楽しくないことに友達なんて誘えないよ」

「どうして僕ならいいと思うの?」

「君がボッチだから」

「わかった、二度と口をきかないよ」

「ごめんごめん。や、真面目な話ね、私の友達もバカばっかりだからさ」

「そうだっけ?瀬戸せとさんとか、賢いんじゃない?」

 授業中に指名されても、すらすら解いているところをよく見る。バカばっかりというのも、ただの口実なんだろう。

 彼女はなおも抵抗する。

美雪みゆきは、ほら、部活忙しいから」

「テスト前なのに?」

「うっ」

「白状して。何を企んでるの?」

「なにも企んでなんかないよ!ただ…」

「ただ?」

 彼女は口ごもる。そのままたっぷり数十秒が経過した。散々二の足を踏んでから、ふいっと顔を背けて呟く。

「…ただ、私がそうしたいから。それじゃダメ?」

 覚えず、僕は息を呑んだ。

 ただ、そうしたいだけ。

 それは自然で、真っ直ぐで、とても正しい。たぶん、僕には言えない言葉。

 なにも言い返せなくなってしまった。最近、こんな事が多いような気がする。

 拗ねたようにそっぽを向いたままの彼女に、僕はかける言葉を見つけられず、無意味に手もとの教科書をパラパラ捲ったりした。

「…うん、まあ。いいよ、べつに。どうせ、僕も勉強しなくちゃいけないし」

「え、ほんと?」

 無言で頷く。彼女は子供みたく面を輝かせて、身を乗り出してくる。

「じゃあ、放課後も来ていい?」

「好きにしなよ」なんだか面映ゆくなって、投げやりに答えた。

 それからは何事もなく、僕らは勉強に勤しみ、日が暮れる前に彼女を帰した。勉強相手を確保できたのが嬉しかったのか、終始、彼女は上機嫌だった。

 去り際、彼女はやっぱり「また明日」と言った。

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