第9話

 いつの間にか、佐伯さんと過ごす日々が当たり前のものになりつつあった。なんでも受け容れられるのは若者の特権か、あるいは僕が人生に無頓着過ぎるのか判らないけれど、とにかく、隣に彼女が居ることを、僕はさほど不自然に思わなくなっていた。

 だから、僕はすっかり忘れていたのだった。彼女と僕が違う世界の住人、すなわち、『サニー』と『レイニー』であることを。

 火曜日の昼休み、佐伯さんと昼食を摂って教室へ戻った。たいてい、昼食の後も彼女は僕に絡んでくる。そして、僕の前の席を勝手に占領して、だらだら下らないおしゃべりを続けるのだ。

 しかしその日は偶然、彼女がトイレに寄って、僕は一人で教室へ戻った。何の気なしにドアを開けて入室すると、入口付近の席に座っていた少女と目が合った。というか、睨みつけられた。

 なんか面倒臭いことになりそうだと直感した僕は、ふいっと目を逸らして自席へ戻ろうとした。だが、それは許されなかった。

「綾辻くん」

 背後からの声を無視するわけにもいかず、僕はおもむろに振り返った。そこには、やはり僕を睨みつける彼女が居た。

 瀬戸美雪。佐伯さんの親しい友人である。

 僕は自然に笑ってみせた── そのつもりだけど、引きつっていたかもしれない。だって瀬戸さんの顔が怖いんだもの。

「ちょっと来て」

 そう言って、彼女は踵を返した。そのまま教室を出ていく。仕方なく、僕も後に続く。

 彼女が足を止めたのは、人の少ない階段の踊り場だった。

「あんた最近、陽花と仲良いみたいじゃん」

 いきなり高圧的に問うてくる。やっぱり顔が怖い。もとが涼しい感じの美人なので、切れ長の瞳が吊りあがって、いかにも怒られている感じがする。

「まあ、そうだね。話すことは多いかな」

「付き合ってんの?」えらく直截な質問である。

「いや、そんなんじゃないよ。委員会がたまたま一緒だから、それで話し始めたってだけ」

 嘘は吐いていない。僕らが話し始めたきっかけは委員会の仕事だったし、彼女の言葉を借りれば、僕らは友達だ。

 瀬戸さんはあからさまに訝しみ、僕をまじまじと眺めた。イヤな感じだ。向けられているのが好意でないことは、鈍い僕にも明らかだった。

「そう。まあいいや」

 彼女は低くささやいた。自分に言い聞かせているようにもみえた。

「面倒臭いから、端的に言うね。あんまりあの子に絡まないで」

「どうして?」

 反論するつもりはなかったのに、口を衝いて訊いてしまった。やはり、僕はかなり毒されているらしい。本当はそんなこと、どうでもいい、ハズなのに。

 まあでも、瀬戸さんの高圧的な態度に苛立っているというのは本当だった。どうして僕が、そんなふうに言われなくちゃいけないんだ。

 彼女は眉間にシワを寄せて、さらに鋭く僕を睨む。蛇みたいだ。

「あんたみたいなのに絡んでたら、あの子まで陰険扱いされかねないから。クラスでちょっとした噂になってるの、知らないの?」

「噂?」

「あんたと陽花が付き合ってるって」

「へえ、知らなかった」

「解ったら、さっさと別れて。陽花に近づかないで」

「…それは難しいかもしれない」

「なに、やっぱり気があるの?」

「そうじゃなくて。佐伯さんの方が、承知しないと思う」

「はあ?なにそれ」

「単刀直入に言って、僕と彼女の関係は、彼女が積極的に絡んでくるから成り立ってるんだ」

 それはあさましい自己防衛にも聞こえる。しかし僕は、そういった効果を期待したわけではない。

 細々と想像せずとも判ることだ。彼女は、僕が拒絶することを許してくれないだろう。思い上がりだと笑いたくば笑え。

 なにより、たぶん僕の方が彼女を拒絶できない。人を突き放すことは、怖いし、面倒だし、なにより捨て犬みたいな顔をされては、さすがに良心が軋むので。

 もちろん、瀬戸さんは納得しない。

「あの子が、あんたに絡んでるってこと?」

「そう。拒絶もしなかったけれど、言い寄るような真似もしてない」

 ここまでは、すらすらと答えることができた。嘘偽りなく、僕は事実だけを答えたのだった。

 しかし、瀬戸さんが苛立った様子で髪をかき上げながら放った問に、僕はひどく困惑した。

「じゃあ、もし陽花が素直に言うこと聞くのなら、あんたは陽花を突き放せるの?」

 どうして、すんなり答えられない。

 以前までの僕ならば、一秒となく即座に答えていただろう。

『佐伯さんの友人である君が、そう言うのなら』

 簡単なことだ。ぜんぶ瑣末事なんだから。どうだっていいじゃないか。

 その一言を喉の下へ押し込める、この不可解な力の正体は、いったい何なのだろう。もしや瀬戸さんの言うとおり、僕は佐伯さんに恋をしている?いや、僕に限ってそれはない、はずだ。

 だったら、いったい何が邪魔をしている?

 考えたって答は出なかった。頭の中であらゆる思考が綯い交ぜになって、ぐちゃぐちゃにこんがらがる。

 彼女をよく想う僕も、そうじゃない僕も、全てひっくるめた僕の全部が出した答は──

「…たぶん、できるよ。僕は、彼女を突き放せる」

 それを受けて、瀬戸さんは少しのあいだ黙りこくって、なにやら考えているようだった。ややあって、蚊の鳴くような声で「そう」と呟き、興醒めだと言わんばかりの冷たい視線でもって僕を貫いた。

「もういい、解った。とにかく、陽花を困らせるようなことは止めて。私からも、あの子を説得してみるから」

 なんだよ、それ。

 困らせる?困ってるのはこっちの方だ。理由も解らず絡まれて、振り回されて。挙げ句、その親友から尋問じみた嫌味を言われて、もう、ワケが解らない。

 自分自身に、ひどく混乱していた。自分の気持ちも考えも、ちっともまとまらないままだ。

 僕はなにも応えなかった。彼女もまた、何も言うことなく、背を向けて去っていく。しばらく、その場から動けなかった。

 どうして、否定できなかったのだろう。理由は沢山思いつくし、そのどれもが独立しているわけじゃないから、理路整然と言語化するのは難しい。

 僕の存在は、やはり彼女にとって毒だったのだろうか?

 僕はやはり、何事も大事にできないのだろうか?

 彼女は僕を『友達』と呼んでくれた。では、僕にとって彼女は、いったい何だったのだろうか?

 僕はポケットから端末を取り出した。基本的に校内での使用は許されていないが、かまわずAIに話しかける。

「…僕の、最適化された未来は?」

「以前お話したとおり、『自殺』です」

 ため息と一緒に歩きだした。


 ── 綾辻くん、ご飯いこー。

 ごめん、ちょっと食欲なくて。


 ── 一緒に帰ろうよ。

 寄り道していくから、今日は無理。ごめん。


 ── ねえねえ、この問題さ、どうやって解くの?

 ここに書いてあるから読んでみて。


 この日から、僕は佐伯さんを避けるようになった。

 約束していたテスト勉強も、やっぱり一人で集中したいからという理由をつけて断った。あまり露骨にすると不必要に彼女を傷つけるだろうし、瀬戸さんの逆鱗に触れかねないから、できるだけ自然に、やんわりと離れることにした。僕の対応に満足したのか、瀬戸さんに呼び出されることは無かった。

 意外にも、僕は思い通りに彼女と距離をとることに成功していた。そして日毎に、そんな自分を嫌いになった。

 しかし、そんな対応には早々に限界が来る。それは僕も察していたし、実際、その予想は外れなかった。

 残念ながらバカなのか賢いのか判らない佐伯さんは、すぐさま僕の変化に気づいたのだった。そして、とうとうその金曜日、彼女は僕を帰路にて捕まえ、問いただした。

「ねえ、やっぱり絢辻くん、へんだよ。最近、なんか冷たいし、いっつも調子悪そうだし」

 都合のいい口実として僕が多用したのは、体調不良だった。これには流石の彼女も反論できず、大人しく引き下がることが多かったのだ。

 瀬戸さんの名を出すわけにもいかず、僕はかぶりを振る。

「べつに、何も無いよ」

「嘘つき。なにか隠してるんでしょ」

「ほんとに何も無いってば。体調が悪いのは、ほら、夏バテだよ」

「じゃあ、私に冷たいのは?」

 答えかねる。都合のいいことに、僕はいまさら、傷つけることを躊躇っていた。

「…いまは、そんな気分なんだよ。一人で居たいんだ」

「むー、納得いかない」

「とにかく、気にしないで。じゃあね」

「あ、ちょっと…」

 僕は逃げるようにして歩きだした。二、三言、なにやら言葉を発して彼女が制したが、無視してその場を去った。

 追いかけてくる足音が無いのを確認して、僕は歩調を緩めた。気がつけば、いつもの坂道に差し掛かっている。

 最低だな。

 それは、自分でも解っていた。

 佐伯さんにどう向き合えばいいのか解らないなら、初めから拒絶しておけばよかったんだ。ここまで素直に応じてきたのに、突然そっぽを向かれたらどんな気持ちになるのかなんて、小さな子供でも解ることだ。

 僕は、無意味に彼女を傷つけているのだ。

 思えば、僕に友達が居ない原因のうち、もっとも大きいものはそれなのかもしれない。何事にも執着できないから、人を大事にできない。来るものは拒まないけれど、去るものを追わない。決して、自ら友達でいようとしない。

 ああ、こんなのでは、何も残らないわけだ。

 今に至ってようやく、自分が何故こんなふうなのかを理解した。

 一人きり、僕は黙々と家を目指した。久しぶりに通学路が静かだった。

 家に辿り着いて、着替えて、机に向かった。数学の教科書をパラパラと捲る。彼女に教えた問題が、いくらか目に飛び込んでくる。つまらない自傷行為だと思った。

 瀬戸さんから警告を受けて数日が経った今、どうしてあの時、彼女の問を否定できなかったのか、僕なりに少しずつ整理でき始めていた。

 大きく理由は三つある。

 一つ目は、僕自身の立ち位置が決まっていなかったこと。僕はどうしても、佐伯さんが僕にとって『また会おうね』の人なんだと割り切れていなかった。それはすべて、僕の意志薄弱な内面によるものだ。どこかで、離れるならそれでいいと思ってしまっていた。

 あるいはそれは、臆病者の哀しいさがなのかもしれない。

 二つ目は至極単純。僕自身の立場を憂いたこと。

 瀬戸さんの逆鱗に触れ、また、芋づる式に方々からの悪評を受け、今後の平穏が脅かされることを恐れていた。無気力で、防衛本能ばかりに頼って生きてきた人間だからこそ、こんな時でも保身は忘れなかったらしい。どうせ死ぬくせに、だ。

 そして三つ目。佐伯さんの身を案じたこと。

 瀬戸さんの口ぶりには苛立たされたが、言っている内容は、まずまず正しいものであるように思われた。僕のような『陰キャ』に絡んでいることが、佐伯さんの評判を地に落とすことに繋がりかねない。その可能性を否定できない。

 僕の中の卑屈は、この懸念を増幅した── つまり、いずれ死んでしまう僕なんかとつるんでいるよりは、瀬戸さんやその他の女子と居たほうが、彼女の青春を豊かにするのではないかと、そう考えたのだ。だからますます、僕は瀬戸さんの言い分を正しいものに感じるのだった。

 多少、佐伯さんを悲しませることになったとしても、僕は彼女から離れるべきだ。それが、互いのためなのだ。そう、自分に言い聞かせていた。

 いっぽうで、その決意の大部分が醜いエゴに支配されていることも、僕の冷静な部分は解っていた。

 その夜は、ろくに眠れなかった。

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