第7話

 月曜日、午後八時をまわって帰宅した母に買い出しを頼まれた。買い物の内容はほんの些細な物で、ついでに買ってくればいいのにと思うが、息子として文句は言えない。仕方なく、近所のドラッグストアへ向かった。

 街は人工的な灯りに照らされ、ぼんやりと浮かび上がるようにして在った。昼と夜では、こんなにも雰囲気が違っているのは何故だろう。ちいさな頃には、とても不思議に思ったものだ。その辺の標識やコンビニの灯りが、何か自分の知らないもののようにみえたのである。そんな幻想が、今よりもっと肌の近くに在った。

 ふと思った。

 僕は、ちいさな頃からこんなふうだったのだろうか。

 そうだったのかもしれない。今となってはよく思い出せないけれど。

「聞いてる?ちょっと、お父さん!」

 聞き覚えのある声に、僕は立ち止まった。数メートル前方に佐伯さんの姿が見える。傍にはくたびれた風貌の中年男性が立っていた。

「…っせえな、ガキは黙ってろ」

 彼はそう吐き捨てると、佐伯さんを突き飛ばして歩き去った。

「ちょっと…」

 彼女は二、三歩追いかけようとしたが、すぐに立ち止まって、肩を落とした。そうして振り返りざま、ばっちりと目が合ってしまった。

 咄嗟に目を逸らしたが、もう遅い。

「…綾辻くん?」

 言いながら、小動物を連想させる動きで小走りに駆け寄ってくる。僕は意識的に口角だけを動かして表情を繕った。きっと酷い顔をしていたことだと思うから。

「あ、えっと。あの人が、お父さん?」

「…うん。ごめん、イヤなところ見せちゃったね」

「や、ぜんぜん平気だけど…」

「ちょっとケンカしてただけだから。気にしないで」

 そう言われると、それ以上訊こうとは思えなかった。よその家庭問題に口出しする権利も義理もないのだから。

 彼女はいつもどおりに笑って、首を傾げる。

「ところで、綾辻くんは何してるの?」

「買い出しを頼まれてね。佐伯さんこそ、何してるのさ」

 彼女は制服のままだった。たしか部活はしていなかったはずだから、こんな時間まで着替えもせずにいるのは、ちょっと不自然だ。

 照れたように頭を掻いて、彼女は答える。

「やー、バイトだよ、バイト」

「へえ、バイトしてるんだね」

「言ってなかったっけ?」

「初耳だよ」

 彼女の背後から近づいてきた年配の男性が顔を顰めたようにみえたので、僕はさりげなく道の端へ寄った。彼女も従う。

「ほら、お金は大事だからさ」

「それは間違いないね。でも、目的は?お小遣い?」

「ま、そうだね。あんまり親にも頼れないし。自分で出来ることは、なるべく自分でやろうと思って」

「…そんなキャラだったっけ?」

「失礼な!これでもしっかりしてるんだからね!」

「説得力が家出してるね」

 しかし実際、僕は彼女を見直した。彼女のお弁当を思い出す。出来ることは自分で、という言葉に嘘はなさそうだ。

 膨れっ面から一転、彼女は忙しく表情を変えて、からり笑む。

「ところで綾辻くん、晩ご飯食べた?」

「あ、いや。まだだけど」

「じゃあさ、どっか食べに行こうよ!奢ったげるから」

「えー、いいよ。なんか悪いし」

 彼女の健気な努力が生み出したバイト代の一部を、僕の胃袋に収めるのはなんだか気が引ける。誘うならバイトの話の前にしてほしかった。

 しかし彼女は譲らない。

「いいっていいって。一人で食べるの寂しいんだよぅ」

「んー、だったら、お金は出すよ。それでいい?」

「ダメ」

「なんでさ」

「ほら、こないだ色々付き合ってもらったでしょ?ぬいぐるみも取ってもらったしさ。お礼がしたいの」

 へんなところで義理堅い。それに律儀で良識的だ。日頃の減らず口は、この細い体のどこに納まっているのか。不思議でならない。

 彼女が引き下がりそうになかったので、僕は不承不承、彼女にご馳走されることにした。

「よーし、決まりね!なんか食べたいものとかある?」

「んー、これといって」

「じゃ、お好み焼きにしよう」

 意気揚々と歩き出した彼女に従って、夜の街をゆく。

 母に確認してみたところ、買い出しはそれほど急がないらしいので、ゆっくりしてきていいとのことだった。よく考えてみると、これは僕とって非常に珍しいことで、当然、母にとってもあまり聞かない話だ。息子に友人の一人でも有ることを喜んでくれているのかもしれない。

 十分ほど歩いて、店に着いた。ちょうど交差点の角に在る店で、なんだかオシャレな雰囲気である。カウンター席とテーブル席が有って、僕らは待つことなくテーブルへ案内された。

 店内はどことなく異国を思わせる雰囲気だった。壁はレンガを剥き出しにしたようなデザイン、テーブルは木製。お好み焼きって和食だよね?もっと庶民的な雰囲気を期待していた僕は面食らって、情けなくも彼女の背に従い、とぼとぼ歩いて席に着いた。

 良さそうな店だけど、却って落ち着かない。

「お好み焼き、だよね?」

「そだよ。どうかしたの?」

「や、ずいぶんオシャレだと思って」

「まあまあ、これでも女子ですからね。ご飯屋さんはけっこう知ってるつもりだよ」

 そんなものだろうか。そもそも外食の機会に乏しい僕には、なんだか新鮮に映る。たまには若者らしく街を歩いてみるべきかもしれない。

 すこし相談してから、注文を決める。口には出さなかったが、僕はしきりに値段を気にしていた。さいわい、たいていの品はリーズナブルな価格で提供されていて、ほっと胸を撫で下ろす。

 彼女が仕切ってくれたお蔭で、注文はスムーズに済んだ。

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 そう言って立った彼女を見送って、僕は窓の外を走るヘッドライトを眺める。夜の暗さに毒されたのか、ネガティブなことを考え始めた。

 僕の性格について、つまり、僕が何事にも執着できないという事について。

 多額の借金を背負って死ぬほかないとか、運命の出会いを果たして底なしの愛に沈むとか、そんなことがない限り、日常には瑣末事しか起こらないようになっている。人生は、そんなふうに出来ている。僕は、そんなふうに世界を解していた。

 じゃあ、彼女は?佐伯さんは、依然、僕にとって瑣末事だろうか。

 ボーイミーツガール。

 運命の出会いは、人を変えると聞く。

 これがもし運命の出会いだったなら、僕の最適化された未来は、変わりうるのだろうか。少しは、僕の空虚な人生も報われうるのだろうか。

 バカみたいだ。独り吐いた長い息は、テーブルの隅っこへ解けて消えた。

 佐伯さんが戻ってきてから、ややあって、注文の品が運ばれてきた。この店は焼いてから持ってきてくれるタイプの店なので、僕らはすぐに食事を始めることができた。

 いつも通り、彼女はまったく美味そうに料理を口へ運ぶ。

「美味しい!」

「だね。僕、本格的なヤツ食べたの初めてだ」

 具材の食感が贅沢で、全体としてのまとまりが素晴らしい。生地もフワフワだ。

「お口に合うみたいで、よかった」

「でも、ホントに良かったの?」

「いいのいいの。君には、いろいろ助けられてるから」

 一瞬、箸が止まってしまう。彼女を助けたことなんてあっただろうか。まったく心当たりがない。だがまあ、そう言われて悪い気はしない。僕は心得顔で微かに頷いてみせた。

 彼女は行儀悪く、僕を箸で指す。

「それにね、やっぱり、ご飯は二人で食べた方が美味しいから」

 言っておいて、またお好み焼きを口へ運ぶ。なんだか見てるこっちも幸せになる食べっぷりだ。そのとき、何故だか僕は、彼女をとても正しい存在のように感じたのだった。

 カウンターの向こうから、鉄板の焼ける音がする。すでに酔っ払っているのか、やたら声の大きい男性が、隣の女性に絡んでいる。

 ぽつりと、彼女を呼ぶ。

「…佐伯さん」

「なあに?」

「もしもの話、だよ?もし、僕が死にたいって言ったら、君はどうする?」

 彼女と話すようになってから気づいた。僕もずいぶんなバカだ。いつも、こうやって無駄に口を滑らせる。

 彼女は呆気にとられたように、ぽかんと口を半開きにして、僕をじっと見つめた。

 それから、ちょっと悲しげに眉を下げて小さく何かささやいたけれど、聞き取れなかった。

「ん?」

「んーん、なんでもない。そうだねぇ、君が死にたいって言ったら、とりあえず殴るよ」

「追い込もうとしてない?」

「違うよ!正気に戻れってこと」

「とりあえず止めてくれるんだね」

「当たり前でしょー?私は君の死神なんだから。勝手に死ぬなんて許さないよ」

 あ、なんで僕、ちょっと感動してるんだろう。身勝手だし、バカみたいだ。いや、バカなのかもしれない。

「…ありがとう。バカなこと訊いて、ゴメン」

「いいよ、べつに。それより、なんか悩み事でもあるの?」

「あ、いや、そういうわけではないんだ。ただ、ね。なんとなく、そんなこと考えてて」

「そうなの?何かあったら言ってよ?」

「うん」

「落ち込んでるなら、胸くらいは触らせたげるから」

「辞書で貞操って言葉を引いてみてよ」

 僕が平素の声でそしると、彼女は満足げに相好を崩した。


 一時間足らずで店を後にして、僕らは大人しく帰路についた。ここからだと、僕の方が先に帰宅してしまう。

「遅いし、送っていくよ」

 ご馳走になったお礼に、せめて佐伯さんを無事に帰そうと思ったのだった。しかし、彼女はかぶりを振る。

「いいよ、いつものことだし」

「や、でも…」

「ほんとに、気にしなくていいよ?」

 そう言われてしまうと、どうすればいいのか判らなくなる。彼女が平気と言っているのだから、放っておけばいいような気もする。

 これまでの僕なら、すんなり引き下がっていたのだろう。

 黙っていると、彼女はいつもの調子で僕を小突いて、くすりと笑った。

「なあに、心配してくれてるの?」

「…まあ、ね」

 そっぽを向いて答える。

 良識的な大人か、それほど想い入れのない他人か。僕の周りには、その二種類しかなかった。

 だから、こんな気持ちは初めてだった。

 僕は、少なくとも彼女の無事を祈ったわけだ。つまり、自分以外の誰かが傷つくことを恐れたのだ。

 まったく、僕らしくない思考だった。

 うつむく僕と対照的に、彼女は僕の背中をバシバシ叩いて、露骨な喜びを表現した。何がそんなに嬉しいのか、僕にはあまりよく理解できないが、少なくとも彼女は僕を友達だと思ってくれているわけで、だったら僕の方も多少の好意を示す方が、彼女にとってはハッピーなのかもしれない。

「嬉しいこと言ってくれるじゃん!」

「そんなに珍しいかな」

「そうだよ!君が『また会おうね』なんてさ!」

「耳と脳のどっちが悪いんだろう?」

「辛辣だねえ」

「だって、そんなこと言ってないし」

「言ったも同然だよ!『元気でね』は、『また会おうね』と同じなんだから」

「なんかニュアンスが違うような気がするんだけど」

「そう?」

『元気でね』は、なんだか二度と会えない気がする。

 でも、よく考えてみれば、そんなふうに解釈できないでもない。相手の無事を祈ることは、自分にとって相手が『また会おうね』にしたい人間であることを仄めかしている。

 やっぱり、彼女と僕はサニーとレイニーだ。同じ世界で、同じ運命を背負っていても、感じるものがこんなにも違う。

「ねえ、綾辻くん」

「なに?」

 隣を見遣ると、彼女は空を仰いでいた。星を見ていると言うよりは、どこか、夜空の暗い曖昧な一点を見つめているような感じで。

「空が青いのってさ、どうしてだか知ってる?」

「光が空気中の分子に散乱されるからでしょ」

「うぇぇ、なんで知ってんの?」彼女は顔を顰める。

「自分から訊いといてそんな顔しないでよ」

 思わず苦笑した。偶然、どこかで聞いた話を憶えていただけだ。

「そっか、そんな理由があったんだね」

「知らなかったの?」

「うん。当たり前すぎて、気にしたことなかった」

 たしかに当たり前だ。べつに、知らなくてもいい事。

 当たり前を、当たり前に受け取れるかどうか。それも、もしかしたら僕と彼女の大きな違いなのかもしれない。

 歩きながら、僕は問う。

「空を見てて思いついたの?」

「すごい!エスパーみたい!」

「バカでも解ける謎だね」

 住宅街が近づいてくると自動車が減って、代わりに二人の足音が規則正しく宵闇に並ぶ。僕も星空を見上げてみた。僕の瞳は、果たして彼女と同じものを映しているのだろうか。

「ねえ」と彼女が呼ぶ。

「うん?」

「やっぱり、あの坂まで送ってくれる?」

「…いいよ」

「ありがとう」

 それっきり僕らは何も話さず、黙々と歩いた。その沈黙は決して冷たいものではなく、むしろ暗黙の了解のうちに生み出された気安さを感じさせた。

 坂の頂上が見えてきた── と、彼女は不意に駆け出して、一気に坂を上ってしまった。それから、髪を振り乱してこちらを向く。制服のスカートがふわりと膨らむ。月明かりが笑顔を浮かび上がらせる。

「また明日ね」

 彼女は心持ち大きな声で言った。夜の静けさは、その音を阻まなかった。だから、僕にもはっきりと聞こえた。

「うん、また明日」

 僕はそう応え、彼女に背を向けた。そうして、自分が無意識に微笑んでいたことに気づいた。けれどその理由は、家に帰って床に臥しても判然としなかった。

 仰向けになって天井を見つめながら、ふと、彼女の言葉を思い出した。

 ── うん。当たり前すぎて、気にしたことなかった。

 僕は布団を掛け直して、目を閉じた。

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