第5話

 連絡先を教えたのを後悔したのは、まさにその翌日のことだった。

「おっはよー!あなたの死神、陽花ちゃんです!」

「…なんの用?」

「あっはははは!何その声!身代金要求されそう!」

「僕が犯罪者だったら、君を生かしておかなかっただろうね」

「やめて、その声で言わないで!」

 言いながらも、彼女は楽しげに声を揺らしている。

 端末が鳴ったので仕方なく目を開けたが、それはアラームではなく、彼女からの着信だった。時刻は午前六時。僕は彼女の前頭葉と体内時計を疑った。

「なんの用?」

「や、別に用はないけど」

「切るね」

「待っておねがい切らないで!」

「なんなのさ」

「いやあ、そのお、ですね。いっしょに学校行かない?」

 前から思っていたけれど、彼女は躊躇うところがへんだ。そこで口ごもるなら、そもそも掛けてくるなよ。

「そりゃ、べつにいいけど…僕がギリギリに行ってるの、知ってるよね?」

「知ってる!でも、今日だけでいいから、ちょっと早く来てくれないかな?話があるの」

「話?」

「そう。だから、おねがい」

「…わかった」

 端末越しに奇妙な深刻さを感じたので、断るに断れなかった。

「ほんと?ありがと!この恩は忘れないから!」

「二倍にして返…」

 僕が言いきらないうちに切りやがった。なんてヤツだ。

 ── あなたの死神、か。

 それも悪くないかもしれない。

 ため息を吐いて、半身を起こす。窓の外はもう明るくて、小鳥のさえずりがガラス越しに聞こえてくる。僕は右手に持ったままの端末を操作して、小声で話しかける。

「おはよ」

「おはようございます」女性の声が応える。

「将来の話なんだけど」

「はい」

「僕に最適な未来は、まだ変わらない?」

「はい。以前お話したとおりです」

「…そっか」

 なにを期待してるんだ、僕は。

 端末をベッドに置いて、身支度を始める。


 時間に余裕をもって登校するなんて、いったいいつぶりだろう。

 佐伯さんと関わり始めてから、僕はたくさんの『久しぶり』を体験した。なかには『初めて』もあった。たとえば、女の子と午前六時に通話することとか。

 折角なので景色なんか見ながら、ゆっくり歩いて、坂の頂上にたどり着いた。見まわせば、既に一日が動き出しているのが判る。ゴミ袋を提げた婦人がいそいそと駆けていき、スーツ姿の男性が自動車に乗り込む。まだ温まらない風に、街路樹の緑が揺れる。そのいちいちを朝日が照らす。

 たまには早起きも良いかもしれない。

「わっ」

 出し抜けに、背後から肩を叩かれる。

 振り返ると、にっこり笑う彼女が立っていた。長い髪をちいさく揺らして、首を傾けてみせる。黙っていれば可愛いのに。神様は彼女に二物を与えなかったらしい。

「おはよ」

「おはよう」

「じゃあ、行こっか」

「うん…ところでさ」

「なあに?」

「話ってのは?」

「…ご飯にシチューかけるのってさ、どう思う?」

「僕の安眠を返して、今すぐ」

 なんとなくそんな気はしていた。何かにつけて、彼女は僕をからかいたがる。それにしても、もうちょっとマシな言い訳を思いつけなかったのか。

「いいじゃん、友達に早く会いたいっていう乙女心が解んないの?」

「ツッコミどころが多すぎる。ってか、朝に呼び出さなくてもいいのに」

「それは、お父さんが…や、えーと、いろいろ事情があってですね…とにかく!今朝は君と話したかったの!」

 言いながら、彼女はそっぽを向いた。なんだか僕が怒られてるみたいだ。

「…まあいいや。二倍にして返してくれるんでしょ?」

「え、そんなこと言ってない」真顔である。

「言ってる途中で切られたんだよ」

「なら無効だもんね!」

 舌を出してみせる彼女を横目に、ため息を吐いた。僕の落胆など意にも介さず、彼女はくるりと表情を変えて、いつもみたいに笑ってみせる。

「で、シチューをご飯にかけるのはアリ?ナシ?」

「アリかな」

「えー、なんで?やっぱりパンじゃない?」

「おなじ炭水化物だから」

「それはズルい!」

「じゃあ君は、ナシだと思うの?」

「もちろん!やっぱカレーでしょ」

 なんか論点が変わってるような気がする。まあいい。

 僕は小さく空を仰ぐ。今日も地球は青かった。

「いい天気だね」

「どしたの、突然おじいちゃんみたいな」

「いや、ふと思って」言いながら欠伸が漏れる。

「眠そうだね」

「誰のせいだか、胸に手をあてて考えてみてよ」

「まーたセクハラかあ。好きだね、ホント」

「君の高潔なモラルには神様も頭が上がらないね」

 そろそろと学校が見えてきた。時間が早いからだろう、まだ、生徒の姿は少ない。自転車に乗った女の子が僕らの横を通り抜けて行った。

「綾辻くん、明日ヒマ?」

 そう言えば今日は金曜日だった。嘘を吐く理由も無いので、素直に答える。

「ヒマだけど」

「じゃあさ、遊びに行こうよ」

「えー、めんどくさい」

「ひどい!やっぱり他に女がいるのね!」

「気に入ってるの、それ?」

 仕方なくツッコんであげると、彼女はいたずらっ子みたく顔を歪めた。ちょっと童顔だからだろうか、ほんとうに無邪気にみえるから困る。

「いいでしょう、どうせヒマなんだから。ご飯食べに行こう」

「しょーがないなあ。付き合ってあげるよ」

「やったやった!決まりね」


 待ち合わせはいつもの坂のてっぺん、午前十一時三十分だった。

 僕は時間ぴったりに到着した。佐伯さんは未だ居なかった。手持ち無沙汰だったので、端末のストップウォッチ機能を使って時間を計り始める。

 佐伯さんが現れたのは、それから五分ほど経った時だった。ストップウォッチを止める。

「ごめーん、待った?」

「五分と四十八秒待った」

「今来たとこーって言ってよ、もう!」

「なんて理不尽な」

「まあいいや、行こっか」

 納得いかないけど、僕は彼女に従った。

 四角いブロックを敷き詰めたような歩道は、レンガで囲まれた花壇で車道と隔てられ、一定周期で街路樹が植えられている。樹間にも背の低い緑が茂っているものの、花は未だ無く、その正体は定かでない。のぼりが立ち並ぶ店先には、食品サンプルや服を着たマネキンをショーウィンドウから覗く人々。どこからともなく食べ物の匂いがする。まばらな人のささめき、並んだ赤と青の自販機、信号機の音。

 駅前にはそこそこ洒落た店が並んでいる。もちろん飲食店も多い。今日は、この辺りで昼食を摂ると聞いている。

 土曜日の昼ということで、さすがに人が多かった。老若男女を問わず、あらゆる種類の人々が横断歩道を行き交い、自動車が忙しなく走っては止まる。

 佐伯さんはご機嫌な様子で、ハミングなんてしながら歩いている。白いノースリーブのブラウスは涼しげだが、微妙に露出度が高くて目の遣り場に困る。そういえば、初めて私服を見るのだった。

 僕の視線に気づいたのか、彼女はこちらを見上げて、奇妙に目尻を下げた。どこかの民族のお面みたいな表情だ。

「どこ見てるの、もう」語尾にハートが付きそうなトーンである。

「だいじょぶ、君にそんな色気は無い」

「さすがに泣いちゃうよ?いいの?」

「ちょっと見てみたいかも」

「わーん、綾辻くんがイジめるぅ、ぴえん」

「また、古いネットスラングだね…」

「私、着痩せするタイプなんだよ」

「その薄着で?」

「もー、ほんとだってば!なんなら、スリーサイズ教えてあげよっか?」

「遠慮しとく。…でも、服は似合ってると思うよ。うん」

 冗談にしても言い過ぎたように思われたので、フォローを試みたのだった。すると、彼女は目をぱちくりさせて、満更でもなさそうに頬を緩め、それきり、黙って歩いた。

 数分後、僕らが立ち止まったのは、でかでかと看板に和食を謳う店の前だった。軒先には鉢に植えられた立派な松が飾ってある。

「とうちゃーく。ここです!」

「おー、和食なんだ」

「日本人はもっと米を食べるべきだと思うの」

「シチューには?」

「パン!」

「よし入ろう」

「なんか今日冷たくない?」

 てっきり、若い女の子に人気のスイーツ店とかレストランに連れていかれて、パンケーキでも食べさせられるのかと思ったけど、そこは至って普通の定食屋だった。定番の焼き魚や唐揚げはもちろん、海鮮もあった。

 窓際のテーブルへ案内され、僕は唐揚げ定食を、彼女は天ぷらそばを注文する。米食わないのかよというツッコミは辛うじて飲みこみ得た。

 店員が去っていくと、僕はお冷に手を伸ばす。

「なんか意外」

「なにがー?」僕と同じようにしながら、彼女が応える。

「てっきり、もっとメルヘンな店へ連れていかれるのかと」

「やだなあ、何を期待してたの?綾辻くんのエッチ」

「今のはどういう思考回路なの?」

「冗談だよー。私、家庭料理って言うのかな、ああいうのが好きなんだ」

 食堂で見たお弁当を思い出す。そう言えば、彼女には料理の心得があるようだった。

「作るとき参考にしたりするの?」

「んー、あんまり。やっぱりプロみたいにはいかないし。でも、なんかホッとしない?庶民的な食べ物ってさ」

「解らないでもないね」

「でしょでしょ」

 店内は冷房が効いていて涼しいが、お冷のコップは既に汗をかきはじめている。歩道の街路樹が風に揺れては、木陰の形を盛んに変えてみせる。親しみやすい店なのだろう、客層は様々で、小さな子供がはしゃぐ声も聞こえる。

「綾辻くんってさ、趣味とかあるの?」

 おしぼりで手を拭いていると、出し抜けに彼女が訊ねた。

 訊かれてみて困ってしまう。僕には、趣味らしい趣味がひとつも無いのだ。本を読んだりゲームをしたり、高校生らしいこともしてみるけれど、趣味と言うには熱意が足りない。何をする気にもなれなくて、ぼんやりしていることの方が多い。

 テーブルの黒い木目を睨んで、頑張って考えてみたが、何も出てこない。僕はおしぼりをテーブルへ戻しながら答える。

「うーん、これと言って」

 彼女は目を丸くして、首を傾げる。

「え、無いの?なんにも?」

「うん」

「じゃあ、日頃は何してるの?」

「たいてい、ぼうっとしてる。ゲームとかも偶にするけど、それほどのめり込めないんだよね」

「へー、そうなんだあ。なんか、へええ」

「何その反応」

 なんだか嬉しそうな表情の意味が解らず、僕は目を逸らして頬杖をついた。困った時に目を逸らす癖は、何年経っても直らない。

「や、いっつも勉強してるのかと思ってた」

「そんなに真面目にみえる?」

「うん。雰囲気だけなら教科書に載ってても違和感ないよ」

「うえ、それはそれでやだなあ」

 僕が顔を顰めると、彼女は笑ったままで「倫理の教科書に載ってそう」と言った。さすがにゲンナリした。哲学者のいかめしい肖像と並べられるのは、あまり嬉しくない。

 まあ、学校では黙っていることの方が多いので、そう言われても仕方ないけれど。それに、真面目だと言うのもあながち間違いではない。それは僕の成績表を見ても明らかだ。

「でも、趣味はあった方が良いと思うよ?」

「そういう君はどうなの?」

「料理かな」

「なるほど」

 そこまでハッキリ言われると、返す言葉がない。いつもの減らず口も出てこない。

 その代わりに、頭を過ぎった下らない思考の内容を言語化するか否か、ちょっと迷った。これまでにも似たようなことはあって、僕は度々失言している。常人レベルの学習能力を見せたければ、黙っているべきだと解っていた。

 けれど結果として、僕は頬杖ついた手で横顔を隠しながら、要らぬことを口走った。

「…良いね。ちゃんと、好きなものを好きって言えるのは」

「えー、普通のことじゃないの?」

「うん、たぶん普通のことなんだと思う」

 その先を続けるのが嫌で、僕は口を噤んだ。陰キャにも陰キャなりの矜恃がある。僕はつまらない自分語りをしたいわけではないのだ。

 今度こそ失言を避けて、似たような主張を、能う限りカジュアルに続ける。

「…海外の動画とか見てるとさ」

「うん?」

「よく、ウィッチイズナイス、って聞こえるんだ。たとえば、自分のお気に入りの物を紹介してる時とか」

「どっちが良いかってこと?」

「そっちじゃなくて、関係代名詞。習ったでしょう?」

「あー、なんか習った気がする」

「あれ、すごく良いなって思うんだ。『素敵だね』って、言えることが」

 僕の言葉を受けて、彼女は細い両眉をあべこべに曲げた、へんてこな表情を見せた。実に器用な顔面をしている。それからちょっと唸って、お冷を飲んだ。

 そのままで、たっぷり三十秒は経っただろうか。小っ恥ずかしいキザなセリフに何とか返してほしい僕は、前髪を引っ張ったりして気を紛らわせていた。何の罰ゲームだろう、これは。

「素敵だね」

 唐突に、彼女は呟いた。

「うん?」

「それに気づく綾辻くんが」

「…からかってるの?」

「やだな、今のは、ちょっと本気でグッときたんだよ?」

「舌先三寸め」

 吐き捨てるように返してから、彼女のほうを盗み見る。彼女は、何とも形容しがたい不思議な表情を見せた。笑っているのに、どこかいつもと違っていて、若干の真面目さすら感じさせる。

 僕は面映ゆくなって、目を伏せた。なぜか、彼女は僕の捨て台詞に食いついてこなかった。

「で、何の話だっけ?」黙ったままの彼女に、僕は耐えきれず話題を転じる。

「君が素敵だって話だよ」

「ごめんなさい許して。もう勘弁して」

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