第3話
たとえば、神様に定められた、死の運命があるとして。
僕らは、おいそれと死んでしまえないから、必死に足掻く。
僕と彼女は、同じものを背負っていながら、まったく違うやり方で、自分自身の運命と闘っていたのだった。
このとき、僕は未だ、それを知る由もなかった。
金曜日。
明日は早起きしなくて済むのだと思えば、一日が終わるのは早い。気づけば、もう昼を過ぎている。
午後の授業は英語だった。僕らの先生は大抵、授業のはじめに音読をさせる。その時は二人一組でやるのが恒例だ。
僕はこれまで、僕の前の席に座っている優しい、小柄な男の子とペアを組んでいた。彼はいつだって温厚で、僕のような人間にも非常に親切に接してくれる。友人も少なくないようだが、気を遣ってくれているのか、授業ではいつも僕に付き合ってくれていた。ありがたいことに。
しかし最近はというと、もっぱら佐伯さんと組むようになった。
「ハロー綾辻くん」
「やあ」
「ハローって言ってよ」
佐伯さんと僕の席はけっこう離れているのだが、彼女は授業の度に、わざわざやって来る。最初に来た時には、突然のことに温厚な彼も困惑しているようだったが、「綾辻くんは私に任せて!」とか、どの立場から言ってるんだか判らないようなことを言って、彼と取って代わってしまった。まあ、彼がペアの相手に困ることは無いだろうから、僕としては別に構わないのだけども。
ちなみに、こういう時の彼女は意外と真面目であって、先生の指示通りに音読をこなす。そういうところは、素直に尊敬したい。
今日も佐伯さんは、真面目なのかふざけているのか、バカに気取った発音で、けれどもきちんと音読に励んでいる。
ところがしばらくして、順調に読んでいた彼女が、ふと、口を閉ざした。
「どうしたの?」
「今日、放課後空いてる?」
「空いてるけど」
「ちょっと、付き合ってほしいんだけど」
「いいよ」
どうでもよかったので頷いた。
そして、放課後になって、その軽率な返事を後悔した。
「ねえ、どこまで行くの?」
電車に乗って、かれこれ三十分は移動している。
彼女はこちらを向いて、不敵な笑みを浮かべた。
「お花畑だよ」
「ついに成仏する気になったのかい」
「やだなあ、まだ死んでないって」
もうちょっとキレ良くツッコんでくれないと困る。
「お花畑って、ほんとにお花畑なの?」
「そだよ。公園になってるらしいんだけどね、おっきい池があって、夕方、それをバックに花畑を撮ると、すごく綺麗なんだって」
「…なんで、今日?」
「なんとなく?」
そんな理由で、わざわざ放課後に電車で遠出するものなのか。にわかには信じ難い。
ともあれ、それから五分と経たずに僕らは電車を降りた。
彼女の言う花畑は、その駅から歩いて間もないところにあった。たしかに大きな公園である。入口には広場があって、ドーム型の建物とか、土産売り場とか、アイスクリームの屋台だとかが見られる。ちょっとした観光地になっているらしい。
案内に従って、石垣のように造られた壁に沿って歩いていく。花畑はこの先にあるらしい。平日だというのに人の姿も多いから、ひょっとすると僕の想像よりも有名なところなのかもしれない。
それにしても。
「…カップルばっかりだね」
見渡す限りに見える人影は、すべて寄り添う若い男女だ。恋人同士か夫婦か知らないけれど、明らかに友達以上の関係らしい人達ばかりである。
彼女はけろりと応えてみせる。
「そりゃあ、恋人の聖地ですから」
「…は?」
「ここで夕陽を見た二人は、永遠に結ばれるんだってさ。ロマンチックじゃない?」
「バカなの?」
「ひどい!私はただ、綾辻くんと幸せになりたいだけなのに!」
彼女はニヤけた横顔で小さく叫んだ。どうやら、僕をからかうのが目的らしい。まったく腹立たしいので踵を返してやろうかと思ったが、せっかくここまで来たのだから、花畑は見ていくことにする。
蔦の絡まった金属製のアーチをくぐると視界がひらけ、果たして、そこに花畑が広がっている。
僕は言葉を失った。
「きれい」
ポツリと、隣で彼女が呟く。たしかに、その一言に尽きる光景だった。
一面に群れ咲いた赤い花は、名前こそカタカナで書かれてあって馴染みがないけれど、その薄く柔い花弁は僕の目にもひどく可憐で、振り子が共振するみたいに、夕凪を乱す微かな夏風にひらひら揺れた。池の向こうへ落ちる陽は薄橙色の光を水面に投げていて、一筋の道の如くキラキラと反射するそれが、遠くの花々のシルエットを浮かび上がらせる。
僕をからかう気も失せたのか、佐伯さんも口を噤んで、ただぼんやり、その光景を眺めている。僕もまた、しばらく見蕩れていた。
「…私ね」不意に、彼女が口をひらいた。若干の沈黙をはさんで、低い声で続ける。
「誰かに、好きだよって、言ってもらいたいんだ。いいねって、言ってほしい」
「…どうして?」
「誰も言ってくれないからだよ」
「…だったら、僕なんかに構ってる場合じゃないでしょう」
「いいの、それは」
意外と強い口調で言われて、僕は黙った。
「綾辻くんは?好きな人とか居ないの?」
「居ると思う?」
「思わない!」
「そんなに言われると腹立つね」
彼女はさも楽しそうに笑って、両手を後ろにまわした。
ちょうどその時、今更ながら、どうして僕が連れて来られたのか、ようやっと理解した。
「もしかして、カップルばっかりだから、カモフラージュのために僕を?」
「ギクッ」
わざとらしく慌てた素振りを見せる彼女。僕はため息を吐いた。
「まあいいよ、別に。たしかに、これは綺麗だしね」
彼女にからかわれても見る価値はあるかもしれない。なんだか、不思議と怒る気になれないのだった。
「ね、手ぇ繋いでみていい?」
「ええ、なんで?」
「将来のための練習だよ、練習」
相手が僕では練習も何もあったものではないと思うが、彼女に「ほら早く」とせがまれ、仕方なく左手を差し出した。彼女の右手がそれを取る。思ったよりも小さい手に、少しどぎまぎしてしまって、気づかれないように呼吸を整える。
「わー、綾辻くん、おっきい」
「言い方に悪意を感じるね」
「へ?」
「ごめん、今のは僕が悪かった」
何やってるんだ、僕は。意識しすぎだ。
彼女はふたたび前を向いて、しばらく、そのまま何も言わなかった。僕は手を放すタイミングを失って、ただ、なされるがままに彼女の隣に立ち尽くす。
恋人の聖地と言うだけあって、陽光が薄れるにつれ、ロマンチックな雰囲気が色濃くなってくる。恋人たちは親しげに寄り添って、ちいさく笑い合う。
僕らは明らかに異端だった。
その雰囲気に耐えきれず、先に口をきいたのは僕の方だった。
「好きになる予定の人は、居ないの?」
我ながら妙な質問だった。
彼女はぼうっとしていたのか、答が返るまでには少し間があった。
「んふふふふ、居ないよん」
そして、とても奇妙な答だった。嘘とも本当ともとれない。僕にとってはどちらだっていいけれど。
「なあに、もしかして私、狙われてる?」
「君に言われるとはね」
「えー、ちょっと期待したのにぃ」
どこに期待する要素があったのかさっぱり判らない。
彼女はようやく満足したのか、手を放してくれた。夕闇のなかで、僕はなんとなく手もとを確認する。
そのはずみに、ふと、彼女の手の甲にうっすら痣のような痕があるのを発見した。これまでも何度か見ることはあったのに気づかなかった。我ながらマヌケだ。
「ねえ、それ、どうしたの?」
彼女はサッと右手を引っ込めた。それを見て、マズイことを言ったと後悔する。もしかしたらコンプレックスに触れてしまったかもしれない。
「あ、いや、気になったもんだから…ごめん」
「ううん、気にしないで。これね、子供の頃にうっかりお湯が当たってさ。火傷が、痕になっちゃったの」
「そうなんだ。…へんなこと訊いて、ごめんね」
「いいって。それより、そろそろ帰ろ?暗くなっちゃった」
促されるまま、僕らは帰路についた。
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