第2話

 佐伯陽花さえきのどか。それが彼女のフルネームだ。

 高校入学時から同じクラスで、一度のクラス替えを経ても、それは変わらなかった。持ち前の明るさで、まずまずな人気者である。だから当然のように、いつも女子数人と連れ立って歩いている。僕とは対照的な立場に在る少女だ。

 平均的な身長の僕と並ぶと、頭のてっぺんが僕の顎の辺りにくる。肩の下辺りまで伸びた真っ直ぐな黒髪と垂れた目尻が作りだすにこやかな表情が、実際の快活さに相反して、ひどく温和な印象を与える。取り立てて美人というわけではないけれども、ちょっと童顔で、可愛らしい顔立ちであると思う。

 僕らは今学期から同じ委員会に所属していたが、日頃はほとんど仕事が無いので、これといって関わりも無かった。互いの存在を認識してはいるものの、ほんの一週間ほど前まで、話をする機会も無かったのだ。

 ── だから、僕はいま、非常に困惑している。

「ねえねえ、綾辻くん。いっしょにご飯食べよー?」

「あの、いつも言ってるけどさ、友達は?」

「それはいいの!ちゃんと断っといたから」

 お弁当が入っているらしいハンドバッグを提げた彼女は、肩をすくめる。線が細いというのか、もともと華奢な体型なので、縮こまるとやたら弱々しくみえる。

「それともアレ、あのー、えっと…もしかして、イヤだったりするのかな?」

 そうして、今まさに捨てられる子犬みたいな表情を浮かべる。そんな顔をされると断れない。

「や、そういうわけではないけど…」

 僕の答に、パッと、花のわらうが如く顔をほころばせる。

「じゃあおっけーだね!行こう行こう!」

 彼女に手を取られ、立ち上がる。

「綾辻くん、今日も食堂?」

「まあ、うん」

「じゃあ、しゅっぱーつ」

 人間関係の希薄な人生を送ってきた僕は、他人に振り回されるということを、いまさら体験するのだった。

 食堂は多くの生徒でごった返している。いちいち並ぶのは面倒だけど、かと言って購買は競争率が高いので、結局、昼食はいつも食堂で済ませることにしている。

 律儀なことに彼女は毎回、僕といっしょに並んで、ずっと隣で喋り続けてくれる。いい加減、食堂のおばさんたちの生温い視線が痛い。彼女のテンションと距離感から、たぶん僕らはうぶいカップルにみえるのだろう。

 だが、傍目に受ける印象ほど、実際の佐伯さんは可愛い生き物ではない── それは、この一週間ほどでよく解った。

 その証拠に僕らの会話はいつも、減らず口の応酬になる。

 数分後、カツカレーを手に入れた僕は、ようやく席の確保に取り掛かった。ずらりと並んだ長机のほとんどは、既に少年少女らによって占拠されている。

 ややあって、なんとか見つけた空席に、佐伯さんと向かい合って座ることができた。

「カレー、好きなの?」

「うん。なんか、こう、シンプルなものが好きなんだよ」

「あー、わかるわかる、わかるよ」

「その共感はかえって傷つくかなあ」

 大袈裟に顔を顰めた僕を見て、彼女はケタケタ笑いながらお弁当の包みを広げた。手作りらしいそれは、素人目にも判るくらい手間が掛かっていた。

「へえ、綺麗なお弁当だね」

「へへーん、これ、私が作ったんだよ?凄いでしょ」

「すごいすごい」

「腹立つ!」

「先に仕掛けたのはそっちだよ?」

「ぐぬぬ…」

 僕はちいさく笑って、カレーにスプーンを突き刺した。彼女も卵焼きを持ち上げる。

 判らないのは、彼女が僕なんかに絡む理由だった。人気者の彼女が友達を欲しているとは思えないし、ましてやその候補として僕の名が挙がるなんて、一ミリたりとも納得できない。興味本位で彼氏が欲しいにしても、もっと適した人間はクラスにいくらでも居る。それに、どちらかと言えば、彼女は交際を申し込まれる立場だと思う。

 まったく、不思議でならない。卵焼きを頬張る笑顔からは、何も推し量れない。

「しつこいようだけど、僕なんかと食べてていいの?」

 直截に訊くのは気が引けるので、僕は変化球を投げた。ゆるゆるのカーブだけど。

 彼女はご飯を飲み下して、眉を曲げてみせる。

「だいじょぶだって言ったでしょー、もう。気にしすぎだよ」

「そりゃ気にするよ。僕と佐伯さんは、違う世界の住人だから」

「クラスメイトなのに?」

「クラスメイトなのに」

 自分で言っておいて、ちょっと笑ってしまった。同じ高校二年生で、同じクラスに居たって、どうしてだか、僕には壁が感じられる。劣等感か、畏怖か、あるいは警戒心が見せる幻なのか。とにかく、僕にはその境界線が、はっきり見えるのだ。

「どうして、そう思うの?」

「…言われてみれば、判らない。でもほら、キャラが違うっていうのは、間違いないでしょ?」

「具体的に?」

「君みたいな人を、今は昔の言葉で『陽キャ』、僕みたいなのを『陰キャ』って言うんだ」

「ひどい日本語だね」

「僕もそう思う。でも事実だ」

「なるほど」彼女は頷き、今度はタコさんウインナーを口に放り込んだ。そのままモグモグして、ご飯を含んで、うん、実に美味そうに食べる。いや、なんとか言えよ。

 僕が痺れを切らしかけた時、彼女は口をひらいた。

「人間ってさ、すぐにそういうこと言いたがるよねえ」

 公園で散歩している鳩よりも平和な顔で、彼女はやたら深刻な事を言った。面食らって、僕は首を傾げる。

「どういうこと?」

「ほら、善悪とか、生死とかさ。なんか、人間ってみみっちいよね」

「…神かな?」

「人間だよ?」

「知ってる。や、とつぜん凄い事を言うもんだから、ビックリしちゃった」

 彼女はコップに手を伸ばしながら、見事なドヤ顔をつくってみせた。誰に対する優越感なんだ、それは。

 けれども、彼女の言うことには一理あるように思われた。僕らはいろんなことを割り切れないから、極端なことを言いたがるのかもしれない。

「ね、陰キャってさ、英語でなんて言うの?」

「なんで僕が知ってると思ったの?」

「だって陰キャなんでしょ?」

「そうだけど、そんなにハッキリ言われるとイラッとするね」

「やー、ほら、綾辻くん頭良いじゃない?解るかなーって」

「褒めるなら貶す前にしてほしかったね」

 事実、僕は『陰キャ』に相当する英単語を知らない。高校二年生の英語力では訳せないんじゃなかろうか。

「シャドウマンとか?」

「カッコよすぎるなあ。バトル漫画みたいだ」

「ヴィランは?」

「それじゃあ悪党になっちゃうよ」

「むー、難しい」

 彼女は眉間にシワを寄せて、唸った。ありえないくらい下らない事について真剣に悩めるのは、彼女の美徳なのかもしれない。

 ふと、単語が頭に浮かんだ。

「『レイニー』なんてのは、どうだろう」

「…いま、君が天才にみえた」

「いつもはどうみえてるの?」

「陰キャかな」

「ごめん、今のは僕が悪かった」

「じゃあさ、陽キャは?」

「『レイニー』の対義語だから、『サニー』?」

「なるほどなるほど。じゃあ、どっちでもない人は?」

「えっと、『クラウディ』?」

 陰でも陽でもない、その他大勢はクラウディだ。割り切れない灰の色。

 我ながら、これはなかなか名訳じゃなかろうか。僕は満足して水を含んだ。

 しかし、彼女はすでに興味を失ったのか、あるいは返す言葉が無かったのか、僕の名訳には言及しなかった。そうして、百八十度どころじゃないくらい違った話題に触れる。

「ところで、綾辻くんってさ、今は昔の言葉で『ボッチ』だよね」

「通り魔もビックリな不意打ちだね。や、その通りだけどさ」

「どうして、友達つくらないの?」

「どうして、か…」

 問われてみれば、答えられない。

 会話はあまり得意じゃないし、自分から話しかける度胸もないけれど、僕に友達が居ないのは、もっと違う理由に依る、ような気がした。もっと、こう、心の根っこのところで、何かがつかえている。

「…今は昔の言葉で、『コミュ障』だから、かな」

「でも、私と喋ってる時は饒舌じゃない」

「それは、君が無遠慮だから」

「図々しい人なら仲良くできるってこと?」

「…それも違うな」

「ははーん、さては、私のこと好きになっちゃった?」

「それはもっと違う」

「ちょっとは悩んでほしかったかなあ!」

 ちいさく叫んで、彼女は唇を尖らせる。口をきき始めて間もない女の子に、どうやって恋をしろって言うんだ。

 佐伯さんのことは、正直好きでも嫌いでもない。

 ただ、絡んでくるうちは応じようと思う。拒む理由もないからだ。

「絶対、君を呪い殺してやるんだから。覚悟してね!」

 不機嫌そうな表情のままで、彼女は言った。

「そうそれ、死因になる、だっけ?何だったの、あれ?」

「んふふふふ、そのうち解るよ」

 残念ながらまったく解る気がしない。あんまり解りたいとも思わない。

 僕は曖昧に頷くばかりで、考えもしなかった。

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