第1話

 それは一ヶ月ほど前、緑雨りょくうが歩道沿いの躑躅つつじに注ぐ、なんでもないような六月の日だった。

 退屈で、ほとんど眠りかけていた昼休みのこと。

 いつも通りに騒がしい教室の片隅で、僕は机に頬杖ついて、半ば瞼を下ろしていた。

「綾辻くん」

 そこへ唐突に降ってきた女の子の声で、僕はピクリと肩を揺らした。非常に珍しいことだった。今は昔の言葉で『陰キャ』である僕には、クラスメイト── 女子ならば尚更であるが── に声をかけられるということを、日常的にあまり体験しない。それにしても『陰キャ』、酷い日本語もあったものだと思う。

 ともあれ、姿勢を正して目を開けて、僕はちょっと笑ってみせた。

「あぁ、佐伯さえきさん」

 余裕なフリして、内心、さらりと名前を言えたことにホッとしている。僕のような人間にとっては、些細な遣り取りが命取りとなるから。能う限りニュートラルな印象を保たなければ、今後の平穏は保証されない。我ながらせせこましい人生を送っていると思う。

「眠そうだね?」

「ああ、うん。ちょっと寝不足で」嘘だ。たっぷり八時間は寝た。

「そっかあ。ね、綾辻くんってさ、いっつもぼーっとしてるよね」

「あー、まあ」

「なんか難しいこと考えてるの?」

「なんにも考えてないよ。ぼうっとするのは、癖みたいなものだからさ」

「ふーん、そうなんだ。私、てっきり何か考え事してるのかと」

 なるほど、はたから見ればそんなふうに映るわけだ。なおさら堅苦しい奴だと思われているかもしれない。

 彼女は何度か頷いて、ひとり納得しているようだった。空気か、それ以下である僕が、これほど興味を持たれたのは久しぶりかもしれない。

 慣れないことは息苦しい。話を切り上げたくて、僕は話題を転じる。

「ところで、何か用が有ったんじゃない?」

「あ、そうそう」彼女は僕の机に両手を突いて、すこし身を乗り出した。

「放課後、委員会の話があるとかでさ、職員室へ来るようにって、先生が」

「ああ、そっか。なんだっけ、掃除強化週間?だっけ?」

「そ。私たちが見回りとかやらなくちゃいけないらしくて、その打ち合わせだって」

「わかった。連絡ありがとう」

「いえいえー。じゃあ、また放課後ねー」

 彼女は右手を振って、そのまま女子の輪の中へ戻っていった。その背中を見送ってから、僕はまた、頬杖をつく。

 珍しいこともあるものだ。

 この時はそのくらいにしか考えておらず、僕はただ、たまにはこんな日もあるものだと、他人事みたいに思っていた。

 そしてこれが、僕の生活を変える出来事になろうとは、夢にも思わなかった。


 放課後。

 僕は言われた通りに職員室へ向かい、彼女と先生と打ち合わせをして、いつも通り帰路についた。佐伯さんも一緒だった。

 ところが玄関に着いてから、彼女は傘立てを探し回って、首を傾げた。

「あれぇ?」

「どうしたの?」

「や、なんか傘が無くてさ」

 僕は窓外へ目を遣った。雨はしとしと降り続けている。傘が無いと辛いくらいの強さだ。

「誰かが間違えたのかもしれないね」

「うーん…ね、綾辻くん」

「うん?」

「家、どっち?」

 ── そんなわけで、僕らはひとつ傘の下に仲良く収まる羽目になった。偶然も起こるもので、僕らの通学路はほとんど同じだったのである。

 彼女のほうへ大袈裟に傘を傾げつつ、水溜りを避けて歩く。僕は彼女との距離に気を遣いながら、いつもより歩調を緩めていた。

「通学路で、会ったことないよね?」

「無いと思う。僕、いつも時間ギリギリだからさ」

「あ、たしかにそうだね。朝、弱いの?」

「そうなんだ。なかなか起きられなくて」

「へー、意外」

「そう?」

「うん。なんだか、もっときっちりしてる人だと思ってたから」

「ああ、なるほど」

 苦笑した。僕にしては自然な表情だった。彼女の横顔を盗み見た。微笑んでいる。

 そういえば、彼女はいつも笑っている。

「佐伯さんは、いつも元気だよね。僕とは大違いだ」

 僕の何気ない一言に、彼女はくすくす笑った。

「それだけが取り柄だからね。騒がしいのはバカの特権なのさ」

 つられて僕も笑った。

「あー、笑ったなー!やっぱり私のことバカだと思ってるんでしょ!」

「自分で言ったのに」

「それはそうだね」

「バカだなんて思ってないよ。ただ…」

「ただ?」

「羨ましい、とは、思う」

「へ?羨ましい?私が?」

「うん。僕は、ほら、つまらない人間だから」

 やってしまった。言い切るまでもなく気づいて、にわかに後悔する。

 八時間の睡眠が却って脳を鈍らせているのかもしれない。さすがに『陰キャ』の過ぎる発言だと、自分でも判って閉口する。これはちょっと、良くない。

 だが予想に反して、彼女はうんうん唸り始めた。

「どうしたの?」

「いや、つまらない人間っていうのが、よく解んなくて」

 これには僕の方が困ってしまって、大袈裟に笑ってみせた。すこしでも場が和むことを期待して。

「気にしないで。ああ、もう、自分でも嫌になるんだよ。すぐネガティブなこと言っちゃうんだ。ごめんね」

「んー?うん、や、それは、全然いいんだけど…」

 なおも彼女は首を傾げ、しばらくそのままで歩いていた。

 これは、やっぱり落第だろうか。黙したままの彼女にかける言葉も思いつけず、ただただ、へんに気まずい空気が流れる。

 お願いだから何とか言ってほしい。

 ようやっと彼女がこちらを向いたのは、緩い坂道を半ばほど上った時だった。僕らの通学路が合流する交差点へと続く上り坂である。

 彼女はニコリと、いつもより大きな笑みをつくって、ほんの少しだけ首を傾けた。

「なんだか、面白いこと言うんだね?」

「お、面白い?」

「うん、とっても」

「そう、かな」

 どう応えればいいのか判らず、僕は無難な相槌をもってこの場を切り抜けようと考えた。

 しかし彼女は「ねえ」と続け、「うん?」と応じた僕に、実に突然に、世にも奇妙で不可解な質問を突きつける。

「君の死因に、なってもいいですか?」

 シイン?しいん。試飲。死因。

 死因?

 僕は自身の耳と脳を疑った。

 答えようもなく、意味も解らず、ただひたすらに謎めいた問は、混乱を通り越して一種の阿呆感すら与えた。

「…はい?」

「んーん、拒否権はあげません。君には、私の復讐を手伝ってもらうから」

 まったく話が見えない。

 僕は呆気にとられるまま、つい、オブラートからはみ出た言葉を紡ぎ始める。

「…佐伯さんってさ」

「うん?」

「ちょっと変わってる?」

「なっ、まさか君に言われるとは」

「やめてよ、これでも傷つきやすいんだから」

「私だって傷つきやすいですぅ」

 そんな会話を続けるうちに、緩い坂道を登りきった。

「あ、私こっちだから。ここからは走ってくよ」

「大丈夫?」

「近いから、へーき」

「そっか。じゃあ、また明日」

「またねー」

 また明日、か。そういえば、こんなセリフも久しぶりだ。

 かるく手を振ってから、彼女は住宅街のほうへ駆けていく。僕が言えた義理ではないが、ひどく緩慢な動作だった。運動は得意じゃないのかもしれない。

 端末を取り出して、AIに訊ねる。

「明日の運勢は?」

「あまりよろしくないようです」

「そっか」

 これが、僕と彼女の出会いだった。

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