第1話
それは一ヶ月ほど前、
退屈で、ほとんど眠りかけていた昼休みのこと。
いつも通りに騒がしい教室の片隅で、僕は机に頬杖ついて、半ば瞼を下ろしていた。
「綾辻くん」
そこへ唐突に降ってきた女の子の声で、僕はピクリと肩を揺らした。非常に珍しいことだった。今は昔の言葉で『陰キャ』である僕には、クラスメイト── 女子ならば尚更であるが── に声をかけられるということを、日常的にあまり体験しない。それにしても『陰キャ』、酷い日本語もあったものだと思う。
ともあれ、姿勢を正して目を開けて、僕はちょっと笑ってみせた。
「あぁ、
余裕なフリして、内心、さらりと名前を言えたことにホッとしている。僕のような人間にとっては、些細な遣り取りが命取りとなるから。能う限りニュートラルな印象を保たなければ、今後の平穏は保証されない。我ながらせせこましい人生を送っていると思う。
「眠そうだね?」
「ああ、うん。ちょっと寝不足で」嘘だ。たっぷり八時間は寝た。
「そっかあ。ね、綾辻くんってさ、いっつもぼーっとしてるよね」
「あー、まあ」
「なんか難しいこと考えてるの?」
「なんにも考えてないよ。ぼうっとするのは、癖みたいなものだからさ」
「ふーん、そうなんだ。私、てっきり何か考え事してるのかと」
なるほど、
彼女は何度か頷いて、ひとり納得しているようだった。空気か、それ以下である僕が、これほど興味を持たれたのは久しぶりかもしれない。
慣れないことは息苦しい。話を切り上げたくて、僕は話題を転じる。
「ところで、何か用が有ったんじゃない?」
「あ、そうそう」彼女は僕の机に両手を突いて、すこし身を乗り出した。
「放課後、委員会の話があるとかでさ、職員室へ来るようにって、先生が」
「ああ、そっか。なんだっけ、掃除強化週間?だっけ?」
「そ。私たちが見回りとかやらなくちゃいけないらしくて、その打ち合わせだって」
「わかった。連絡ありがとう」
「いえいえー。じゃあ、また放課後ねー」
彼女は右手を振って、そのまま女子の輪の中へ戻っていった。その背中を見送ってから、僕はまた、頬杖をつく。
珍しいこともあるものだ。
この時はそのくらいにしか考えておらず、僕はただ、たまにはこんな日もあるものだと、他人事みたいに思っていた。
そしてこれが、僕の生活を変える出来事になろうとは、夢にも思わなかった。
放課後。
僕は言われた通りに職員室へ向かい、彼女と先生と打ち合わせをして、いつも通り帰路についた。佐伯さんも一緒だった。
ところが玄関に着いてから、彼女は傘立てを探し回って、首を傾げた。
「あれぇ?」
「どうしたの?」
「や、なんか傘が無くてさ」
僕は窓外へ目を遣った。雨はしとしと降り続けている。傘が無いと辛いくらいの強さだ。
「誰かが間違えたのかもしれないね」
「うーん…ね、綾辻くん」
「うん?」
「家、どっち?」
── そんなわけで、僕らはひとつ傘の下に仲良く収まる羽目になった。偶然も起こるもので、僕らの通学路はほとんど同じだったのである。
彼女のほうへ大袈裟に傘を傾げつつ、水溜りを避けて歩く。僕は彼女との距離に気を遣いながら、いつもより歩調を緩めていた。
「通学路で、会ったことないよね?」
「無いと思う。僕、いつも時間ギリギリだからさ」
「あ、たしかにそうだね。朝、弱いの?」
「そうなんだ。なかなか起きられなくて」
「へー、意外」
「そう?」
「うん。なんだか、もっときっちりしてる人だと思ってたから」
「ああ、なるほど」
苦笑した。僕にしては自然な表情だった。彼女の横顔を盗み見た。微笑んでいる。
そういえば、彼女はいつも笑っている。
「佐伯さんは、いつも元気だよね。僕とは大違いだ」
僕の何気ない一言に、彼女はくすくす笑った。
「それだけが取り柄だからね。騒がしいのはバカの特権なのさ」
つられて僕も笑った。
「あー、笑ったなー!やっぱり私のことバカだと思ってるんでしょ!」
「自分で言ったのに」
「それはそうだね」
「バカだなんて思ってないよ。ただ…」
「ただ?」
「羨ましい、とは、思う」
「へ?羨ましい?私が?」
「うん。僕は、ほら、つまらない人間だから」
やってしまった。言い切るまでもなく気づいて、にわかに後悔する。
八時間の睡眠が却って脳を鈍らせているのかもしれない。さすがに『陰キャ』の過ぎる発言だと、自分でも判って閉口する。これはちょっと、良くない。
だが予想に反して、彼女はうんうん唸り始めた。
「どうしたの?」
「いや、つまらない人間っていうのが、よく解んなくて」
これには僕の方が困ってしまって、大袈裟に笑ってみせた。すこしでも場が和むことを期待して。
「気にしないで。ああ、もう、自分でも嫌になるんだよ。すぐネガティブなこと言っちゃうんだ。ごめんね」
「んー?うん、や、それは、全然いいんだけど…」
なおも彼女は首を傾げ、しばらくそのままで歩いていた。
これは、やっぱり落第だろうか。黙したままの彼女にかける言葉も思いつけず、ただただ、へんに気まずい空気が流れる。
お願いだから何とか言ってほしい。
ようやっと彼女がこちらを向いたのは、緩い坂道を半ばほど上った時だった。僕らの通学路が合流する交差点へと続く上り坂である。
彼女はニコリと、いつもより大きな笑みをつくって、ほんの少しだけ首を傾けた。
「なんだか、面白いこと言うんだね?」
「お、面白い?」
「うん、とっても」
「そう、かな」
どう応えればいいのか判らず、僕は無難な相槌をもってこの場を切り抜けようと考えた。
しかし彼女は「ねえ」と続け、「うん?」と応じた僕に、実に突然に、世にも奇妙で不可解な質問を突きつける。
「君の死因に、なってもいいですか?」
シイン?しいん。試飲。死因。
死因?
僕は自身の耳と脳を疑った。
答えようもなく、意味も解らず、ただひたすらに謎めいた問は、混乱を通り越して一種の阿呆感すら与えた。
「…はい?」
「んーん、拒否権はあげません。君には、私の復讐を手伝ってもらうから」
まったく話が見えない。
僕は呆気にとられるまま、つい、オブラートからはみ出た言葉を紡ぎ始める。
「…佐伯さんってさ」
「うん?」
「ちょっと変わってる?」
「なっ、まさか君に言われるとは」
「やめてよ、これでも傷つきやすいんだから」
「私だって傷つきやすいですぅ」
そんな会話を続けるうちに、緩い坂道を登りきった。
「あ、私こっちだから。ここからは走ってくよ」
「大丈夫?」
「近いから、へーき」
「そっか。じゃあ、また明日」
「またねー」
また明日、か。そういえば、こんなセリフも久しぶりだ。
かるく手を振ってから、彼女は住宅街のほうへ駆けていく。僕が言えた義理ではないが、ひどく緩慢な動作だった。運動は得意じゃないのかもしれない。
端末を取り出して、AIに訊ねる。
「明日の運勢は?」
「あまりよろしくないようです」
「そっか」
これが、僕と彼女の出会いだった。
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