予感 (KAC2020お題:最高のお祭り)
海野てん
予感
雲のない空に月が輝いていました。
あんまり白く丸いので、肉屋の大将は夜空に穴が開いてしまったのではないかと、ふと不安になってしまいました。窓際からじっと月を見ていると、通りの向こうにやはり月を窺っている者がいます。パン屋の若造です。
眠っている家族を起こさないよう、夜更けの路地にするりと抜け出ると、若造も足音を忍ばせやって来ました。
「やあ、こんばんは」
「こんばんは」
「あんまり月が白いからかい?」
「あんまり月が丸いので」
見上げると、家々の屋根を月が照らしています。あんまり明るいので、晴れた空には星も映りません。
大通りには街灯もありますが、俯いてばかりの彼らは、かえって月を恐れているように見えました。大将と若造は、思わずぶるりと身を震わせます。暗がりの路地は月の光がさえぎられていましたが、天空の月といったら、まるで何もかも見通しているように輝くのです。
「あら、ごきげんよう」
暗がりの路地に、澄んだ声が響きました。
「お二人とも夜のお散歩? 今日はあんまり月が綺麗ですものね」
鈴が転がるように笑うのは、町はずれの屋敷に住んでいるご婦人でした。白くほっそりと優美な姿態をしていますが、ちょいと屋敷を離れてはそこらの男をとっかえひっかえしている妖婦でありました。
大将も若造もそれを知っているので、少しだけ身構えます。でも、ご婦人は相変わらずしなやかな美人でした。
「お二人とも、よろしければ私も散歩の仲間に加えてくださらないかしら? 私ね、あんまり月が光るから、丘の上まで行って見ようと思ったのよ。ご存じでしょう? 私の屋敷とは反対の町はずれにある丘よ」
大将と若造は少し迷いましたが、ご婦人と一緒に丘まで行くことに決めました。
何ものも遮らない場所で、あの白くてぴかぴかの月をどうしても見てみたくなったのです。それに三人連れ立て歩けば、怖いことだって起こらないように思えました。
町を貫く石畳の道は、月の光でかえって冷たく感じましたが、吹く夜風はほんのり暖かく、迫る春を予感させます。自然と、足取りも軽くなりました。
月はどんどん大きくなります。
「こんな夜は特別なことが起こりそうね」
ご婦人が言います。
「ええ。僕も、大工の親方から聞いた昔話を思い出していたところです」
若造が答えました。
「親方の爺さんの話だろう。この町のやつは誰でも、一度はその話をされたことがあるものなぁ」
やれやれと、大将が肩をすくめます。
大工の家の親方は、町一番の年寄で足も悪くしていましたが、昔のことをよく覚えていて、町一番の物知りなのです。
そんな親方が誰にも彼にも話すのは、彼の祖父がまだ若い頃に起こった、大変なお祭りのことです。
「こんなに月が明るいと、どんなことが起こっても不思議ではないような気がしますね」
「でも、あれはずいぶん昔のことだろう。親方だって、自分の目で見たわけじゃあないそうだ」
お祭りは、それはそれはもう大変な大騒ぎになったということですが、それがどれほどのものか、どういうものなのか、誰にも分りませんでした。
「ならばなおのこと、私たちは予感に従わなければならないわ。一人だけ仲間外れにされてはつまらないもの」
大将も若造も、それには全く同意でした。お祭りというからには、きっと何か、とても良いことに決まっていますから。
「私ね、お祭りというものは、出会いの場のことだと思うの。今の主人にも負けないような人に出会えたら、私幸福に耐えませんわ」
ご婦人がうっとり笑って言いましたが、それを聞いた二人はまったく呆れてしまいました。
彼女が今住んでいる屋敷の主といえば、ご婦人の放蕩ぶりを全て受け入れて、彼女が何をしても怒らないのです。あんなに良い人を捕まえて、更に求めるだなんて、一体どれだけ欲張りなのでしょう。
「主人には感謝しておりますよ、勿論。でもね、私がよそで子供をこさえて帰るでしょう? そうして可愛い子供たちが増えると、あの人だって喜ぶのよ」
「けれど、ご婦人。結局、子供たちのもらわれ先まで、ご主人が手配しているのでしょう? ご主人がどうやって見つけてくるのか知りませんがね、なかなか大変なことなんじゃないですか?」
「いいえ、いいえ。これこそ、私の信頼の証なのですわ。あの人ならば、私の子供たちをきっと不幸にしやしないという信頼なのです。そういう人がね、も一人いたら、私の生はずいぶん安楽になるのです」
「へえ、そういうものですか」
ご婦人の言うことは、若造にはよく分かりません。
行く道は緩やかな坂になり、丘が近づいていることを知らせました。
月はどんどん大きくなります。
「大将はお祭りってどんなものだと思います?」
町はずれまでやって来ました。
冬の間放りっぱなしだった野の草が揺れて、夜の旅人たちを誘います。若草の芽に覆われた丘陵は、夜の中でほんのり緑に光っていました。
「ふうむ、そうだな。祈りの場、なのではないかと思うよ」
「祈りですか?」
「町でも、季節ごとのお祭りがあるだろう。収穫を祝ったり、新年を祝ったり。あれは結局、目に見えない何かに祈るものではないのかな。一つ一つの節目を越えたことに感謝し、次の節目まで過ごせるように祈るのさ」
若造はなるほどという顔で頷きましたが、奔放なご婦人は如何にもつまらなさそうでした。
街灯の一つもない原っぱは、ただ月明かりだけが頼りです。
冬の間に枯れた草と春の新芽とが生えるそこは、雪解けを含んだ泥濘の道です。足を汚し進む姿は放俗でありましたが、月が照らしだす彼らの旅路には、確かに神聖さがあるように見えました。
月はどんどん大きくなります。
「僕の考えなど、年長の二人には笑われてしまうかもしれませんが。僕は、お祭りでは神様に会えるのではないかと思うのです」
若造があんまりまじめな顔で言うので、大将もご婦人も笑い飛ばすことができませんでした。
「僕は生来、神様というものを信じてきませんでしたがね、町の人々には熱心に、それこそ毎日神様に祈る者がいるじゃあないですか。あの人たちはね、実は神様に会ったことがあるんじゃないかと、僕の考えではそうなんです。けれど、神様は簡単に会える相手ではないことくらい僕だって知っていますからね。きっと、こういう珍しいお祭りのときくらいしか会えないんですよ」
若造はすっかり興奮して、最後の方は声も大きく、いくらか早口になっていました。
大将は「何を馬鹿なことを」と言おうとして止めました。若造の考えに賛成したからではありません。丘には既に、彼らと同じ目的の仲間が大勢いたからです。
「やあ、大将」
「屋敷のご婦人も一緒とは珍しい」
「やあ、パン屋の。おふくろさんの調子はどうだい?」
各々月を浴びながらヒゲをいじったり、毛並みを整えたり。いかにもくつろいだ様子で夜更けを楽しんでいました。
どうしてここにと尋ねれば、皆口々に「月があんまり白いから」「月があんまり丸いから」と言うのです。そしてそれは、大将たちがここまでやってきた理由と全く同じなのでした。
「おい、親方が来たぞ」
一匹の声に、皆が振り返りました。
見れば、確かにそこには足を引きずりながら、丘を登ってくるぶち猫の姿があったのです。慌てて駆け下りた二匹の若者に支えられ、親方もとうとう丘のてっぺんまでやって来ました。
「ああ、諸君。今日は良い夜だ。こんなに月が白くて丸くて、大きい。今日は特別な夜になる」
猫たちは空を見上げました。老いも若きも雌猫も雄猫も、瞳いっぱいに月影を映します。それはまるで、夜の帳を食い破るように丸く大きくなっていました。
特別な何かが起こる予感が胸を満たし、誰もかれもが叫ばずにはいられませんでした。
おわあ。
おわあ。
月はどんどん大きくなります。
【了】
予感 (KAC2020お題:最高のお祭り) 海野てん @tatamu
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