流しの下の

DA☆

流しの下の


 急に福岡に転勤が決まった。引っ越し休暇はわずかしかもらえなかった。今にして思えば、そのわずかな期間で引っ越しができるヤツ、という人選だったのかもしれない。だが、いざ引っ越し準備を始めると自分の持ち物の多さにうんざりする、っていうのは、決して僕も例外じゃあなかった。


 アパートの六畳間はおおわらわでこしらえた段ボール箱の山で埋まり、僕はこの部屋での最後の三日間を、ほとんど台所だけで暮らすことになった。


 だからといって生活がどう変わるわけでもない。特に食事など変わりようがない。何しろこの部屋に住んで、学生時代からかれこれ十年にわたり、学食や社食の昼飯以外は、朝も夜もたいがいカップ麺という日々を過ごしてきたのだ。


 流しの下の戸棚には、鍋や包丁は入っておらず、特売で山のように買い込むカップ麺ばかりが納まっている。引っ越す前に、それを消費しておかなければならなかった。


 あといくつ、残ってたかな。確か、きつねうどんがふたつと、焼きそばがふたつ、のはずだ。今夜と明日の朝。明日の夜はたぶん宴会だから、あと、引っ越し当日の朝。三つあれば事足りる計算になる。


 とりあえず確認してみようと思って、流しの下の戸棚の扉を、ばこと開けた。


 すると。


 ……そこに女の子が座っていた。見たこともない、年の頃十歳くらいのワンピースを着た女の子が、ひとり膝を抱えて暗がりにうずくまっていた。きつねうどんがふたつ、やきそばがふたつ、女の子がひとり。


 「……」


 思わず見つめ合ってしまった。十秒くらいか。


 ばこん! と音を立てて閉めた。


 閉めてからしばし考えた。……今夜の食事、どうしよう。


 僕は意を決して、ばこ、ともう一度扉を開けた。


 夢でもなんでもなく、女の子は確かにそこにいた。ついでに今度は、僕に向かってきつねうどんを差しだしてきた。受け取るしか、なかった。熱湯五分。賞味期限にはまだ半年の間がある。点線までふたを開け・かやくを入れて・お湯を注ぐ。ラベルの文字が妙にくっきりと目に入る。


 ……。


 「ろくなもの、食べてないのね」


 彼女のこまっしゃくれたひとことは、大きなお世話だとばかりに扉をばこん! と閉めさせるのに充分だった。やかんに湯を沸かし、きつねうどんにだばだば入れ、五分待って、ずるずるかっくらって、寝た。




 翌朝。僕は寝坊した。時計を見ると、遅刻寸前の時間だった。


 今日は最後の出勤である。朝礼の時に、壮行会のようなこともしてくれるらしい。そこへ主賓が遅れていったんじゃしゃれにならない。


 とはいえ、胃袋には何か入れておきたい。


 やかんをコンロにかけて、ばこんと流しの下の扉を開けると、女の子はまだそこにいた。


 間髪入れず、はいっときつねうどんが手渡された。


 「ばかもの!」


 何しろ遅刻寸前で気が立っていたのだ。僕は思わず怒鳴ってしまった。女の子はびっくりして手を引っ込めた。


 ……きつねうどんは熱湯五分だ。きつねと麺が両方ふやけるまでのタイムなので、この五分間は絶対に譲れない、フライングはできない。しかもスープが熱いから一気に食べられないときている。遅刻寸前に食すには最も不的確な選択なのだ。


 「そっちの熱湯九〇秒のやきそばをよこせ」


 女の子は目に涙をいっぱいにためて、眉間にしわを寄せて、それでも言われたとおりに、やきそばを差し出した。


 僕は礼も言わずにばこんと扉を閉めた。


 扉の中からしくしく泣く声がした。まさか女を泣かす日が来るとは、などと思いつつ、僕はやきそばにだばだばと湯を流し込み、きっかり九〇秒後に湯切りをし、ソースをかけてぐるぐる混ぜてかっ食らって、ネクタイを締める手ももどかしく部屋を飛び出した。




 夜になっても行われた壮行会は、三次会まで続いてようやく終わった。さんざっぱら飲んで騒ぎ、家に帰ってくるとそのまま、台所に敷きっぱなしにしてあった布団にくるまってばたんきゅーで朝まで寝た。


 目が覚めるともう日が高かった。むろん今日は会社には行かなくていいものの、正午には引っ越し屋が来ることになっていた。準備を始めなければならなかった。


 ……腹が、減った。


 この部屋での、最後の食事だ。僕は流しの下の扉をばこ、と開けた。


 おずおずと、九〇秒焼きそばが差し出された。


 「……昨日は怒鳴ってごめん」


 僕は、流しの下の女の子に言った。


 「あのさ、僕は今日、引っ越すんだけど」


 女の子は驚いて、焼きそばのパッケージを取り落とした。ごてっと乾いた音がした。


 「……せっかく会えたのに……」


 女の子は、うなだれた。なんだかかわいそうになった。奇妙な会い方を三度しただけなのに、なぜだか親近感がわいてきていた。


 「ねぇ」僕は尋ねた。「どうして、ここにいるの」


 女の子は答えず、逆に、矢継ぎ早に質問を返してきた。くってかからんかという勢いだったが、流しの下からは出てこなかった。


 「引っ越すって、なんで?」


 「転勤、だよ。別の場所で仕事をするんだ」


 「どこへ?」


 「福岡」


 「ねぇ、それで」次に来たのは、ひどく答えにくい質問だった。「それであなたは幸せ?」


 「えーっと」飛ばされただけっていわれればそうなんだけど、いちおう、職務上の階級はひとつ上がって給料は増える。見聞を広めたいっていうのも事実だし、僕は、今回の転勤が糧になると思っている。


 「幸せなんだと思うよ」


 「よかった!」


 女の子は、薄暗がりの流しの下で、にっこり笑ったようだった。そして、焼きそばを拾い上げると、また僕に渡そうとした。僕はそれを受け取った。


 「そっちの残ったきつねうどんも、出してくれる?」


 「ふたつ食べるの?」


 いや、そうじゃなくて、と思ったが、きつねうどんひとつを引っ越し先に持っていくのもばかばかしい。僕は、ふたつのカップ麺を彼女の前に差し出して、言った。


 「君、どっちか食べる?」


 「いいの?」


 女の子はうれしそうに言った。顔を上気させているようだった。


 「どっちがいい?」


 「えとね、えっとね、……やきそば。いちど、食べてみたかったの」


 僕はうなずいて立ち上がり、ふたり分の湯を沸かした。やかんはすぐにごぽごぽと音を立て始める。僕はふたつのパッケージを開け、かやくを入れ、湯を注いだ。


 焼きそばの方が先にできあがる。湯切りをしてソースをぐるぐる混ぜ、それから割り箸と青のりのパックを添えて女の子に差し出した。女の子は手を合わせ、いただきます、と小さな声で言ってから、麺を一本一本すすり上げ始めた。


 戸棚の前に座り込んで、しばらくその幸せそうな表情を眺めているうちに、すぐきつねうどんもできあがる。ふたをはがして割り箸を割ると、僕はいきなり揚げをぱくりとやった。


 ……彼女がどうしてここにいるのか、という質問には、結局答えてもらえなかった。


 けれど、流しの扉を挟んで向かい合い、ずるずるときつねうどんをすすりながら、つるつると焼きそばをすする女の子を見ていたら、なんとなくわかってきた。


 気がついたらどこからともなく家の中に現れて、いるのかいないのかよくわからない存在感で、住人の幸せを願う、子供。


 ……ざしきわらしも、ずいぶん様変わりしたものだ。


 「ごちそうさま!」


 食べ終えた空のカップと割り箸を受け取って、最後のゴミ袋に入れた。


 これで、流しの下の戸棚にものはなくなった。女の子だけが座っている。


 アパートの外から、引っ越し屋のトラックの音が聞こえてきた。


 流しの下から、女の子が笑いながら手を振ってくれた。歯に青のりがついたままなのがほほえましい。


 「元気でね」


 「うん。それじゃ」


 ばこん! 僕は、盛大に音を立てて流しの扉を閉めた。




 引っ越しの荷物を積み終わり、何もなくなった部屋からは、十年分の生活臭も消え去った。忘れ物の確認と、それから最後の挨拶をしようと思ってもう一度流しの下の戸棚を開けたら、もうそこに女の子はいなかった。空っぽの戸棚だった。


 僕は部屋を後にして、新天地へと向かった。次にこの部屋に住む誰かにも、彼女は微笑むのだろうか、そんなことを思いながら。

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