番外編:走れメロス(新型コロナ対応編)

メロスは激怒した。

必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。


メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。


今日未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこのトーキョーの街にやって来た。


歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。


路で逢ったマスクをした若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の街に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。


若い衆は、首を振って答えなかった。


しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。


老爺は答えなかった。


メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


「王様は、自粛を要請します。」


「なぜ要請するのだ。」


「菌をばらまく、というのですが、このままでは街が持ちませぬ。」


「たくさんの人を自粛させたのか。」


「はい、はじめは王様の妹婿さまの旅行事業を。それから、お世嗣の飲食店を。それから、賢臣アレキス様のレジャー施設を。」


「おどろいた。国王は乱心か。」


「いいえ、乱心ではございませぬ。自粛するしかないというのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少し派手な事業をしている者には、店舗名を公開するよう命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、つぶれます。きょうは、六人つぶされました。」


 聞いて、メロスは激怒した。


「呆れた王だ。生かして置けぬ。」


 メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。


たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。


メロスは、王の前に引き出された。


「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」


暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


「街を暴君の手から救うのだ。」


とメロスは悪びれずに答えた。


「おまえがか?」


王は、憫笑した。


「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」

「言うな!」


とメロスは、いきり立って反駁した。


「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」


「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」


暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。


「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」


こんどはメロスが嘲笑した。


「罪の無い人を自粛させて、何が平和だ。」

「だまれ、下賤の者。」


王は、さっと顔を挙げて報いた。


「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、コロナになってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」


「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」


と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、


「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」


「ばかな。」


と暴君は、嗄れた声で低く笑った。


「それこそ不要不急ではないか」

「いいえ、不要不急ではありませぬ。」


メロスは必死で言い張った。


「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、彼を不要不急の外出者として絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」


それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。


そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。


自粛せぬものは、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。




「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」


・・・(中略)・・・


「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」


と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声がマスク越しに幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。


「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」


と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。


「セリヌンティウス。」


メロスは眼に涙を浮べて言った。


「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、


「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」


 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。


「ありがとう、友よ。」


二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。


暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。


「密です!」

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