アニマルズの9月(野球コメディーホラー)

 9月になっても暑さはつづいた。


 あの年はどんな9月だったか聞かれたら、きっとみんなはこう答えると思う、暑かった9月と。でも、人によっては泥棒さわぎの9月と言うかもしれない。


 9月に起こりはじめた泥棒さわぎは、後半になるといっそう大きくなった。泥棒はあちこちの家に入って金目の物を盗み、しまいには神社やお寺の賽銭まで盗むようになった。きっとバチが当たると千田先生は言っていたけど、信じる人はいなかった。


 僕の学校でも被害に遭った人はいて、金目の物以外すべて盗られたやつまでいるというウワサだった。金目の物すべて以外って、いったいなにを盗られたのだろうと、僕はチームのみんなとよく話しをした。


 チームというのは僕が所属する野球チーム。総勢10人。マネージャーを入れたら11人。監督を入れたら12人。その名も……



「4番、ピッチャー、馬場コウジ君」

 名前を呼ばれた。僕はあわてて打席へ向かう。


 ふだん、練習試合で名前を呼ばれることなんかない。だけど今日の対戦チームは父母がとても熱心で、たのまれてもいないのにウグイス嬢をやっている。


 9回裏、ワンアウト、ランナーなし。僕は打席に向かいながらうしろを振り返った。スコアボードには「37対0」。圧倒的に負けている。


 ベンチを見ると、チームのみんなは片づけをはじめてる。監督はベンチの上でグウグウ寝ていて、マネージャーはワンカップのお酒の空瓶を拾ってる。


 僕は打席に入り、気合いを入れてバットを構えた。


 3球後。


 下を向きながらベンチに戻っていくと、みんなは片づけを終えて晩ご飯の話なんかをしていた。


 最後のバッター、代打の牛田ノブが大きな体を揺らして打席に入っていく。ノブは食べる以外に興味のないヤツで、練習も全然しないので代打専門だ。


 1球目。豪快な空振り。予想通りだ。


 ノブは必ず、最後のバッターとして代打に出ていた。僕たちはほんのわずかな希望をノブに抱いているんだ。とにかくバットにさえ当たれば飛ぶにちがいない、と。


 2球目。ノブはまたしても空振り。これも予想通りだ。

 三度目の正直。僕たちがいつも思う言葉だ。それか、仏の顔も三度まで。


 3球目。やっぱり空振り。最後も予想通りだった。まあ、二度あることは三度あるということだな。


 ノブがチームに入って1年3ヶ月。その間、76打席すべて3球三振。228回バットを振り、228回当たらなかった。


「ゲームセット!」審判の声が響いた。両チームがホームベースを挟んで1列に並び、礼をした。37対0。うちのチームにしては健闘した方だ。


 チームのみんなはあっという間に帰りはじめた。どこのチームよりも早く支度し、どこのチームよりも早く帰る。勝負の味わいも試合の余韻もない。これが47年の歴史で1度も勝ったことのない僕のチーム、その名も「北北西アニマルズ」だ。


         *


 つぎの日曜日、僕たちはまたグラウンドに集まった。アニマルズの練習は毎週日曜日。練習内容はとにかく走ること。「野球の勝負は下半身で決まる」それが監督の口グセだ。


 アニマルズという名前の通り、僕たちはずっと走り続けた。北北西小学校のグラウンドを何周もひたすら走る。それ以外の練習はいっさいなし。技術はないクセに持久力だけムダにある。だから相手チームがヘトヘトになって勝ったときも、僕たちは涼しい顔で負けていた。


 パシュ、と音がする。ボールがグローブにおさまるいい音じゃない。監督が今日4本目のワンカップを開けたんだ。


 僕たちはみんな、監督のことを山辰やまたつと呼んでいた。本名・山田やまだ辰雄たつお、67歳。住所不定・無職……いや、それは言いすぎ。住む家はあるし職業はいちおう野球の監督だ。


 アニマルズに野球を教えるという名目でひとり5千円を徴収していたから、月々5万5千円。親戚の家に住んでいるというウワサだったから、きっと家賃はタダでご飯も出るんだろう。


 そうなると山辰の生活で必要な物は、あとはお酒だけだった。5万5千円を31日で割れば、1日あたりの酒代が見えてくる。1774円。200円のワンカップなら1日8.8本飲める。さっき開けた4本目はまだ今日の折り返し地点だ。


 走りこみをつづける僕たちは、前を走っていたノブを抜いた。僕たちはグラウンド5周目、ノブはまだ0周目だ。


「ノブ! せめて1周してから抜かれろ!」

 ベンチで山辰が怒鳴った。怒鳴った拍子にドタッと倒れた。


 倒れた山辰はやっかいだ。左手にワンカップを持っているから、なかなか立ちあがれない。右手を使えばいいと思うかもしれないけど、山辰の右腕は、肩から下がスッポリないんだ。


 どうして山辰に右腕がないのか。昔、参謀役のコーチに裏切られたからだと、ライトの鳥山は推理したけど、本当のところは誰も知らなかったし興味もなかった。


 ノブはもう走るのをやめて座りこんでいる。それを見た山辰は倒れたままでも怒鳴り散らす。見かねてマネージャのウサ子が山辰を起こそうと駆けよっていった。


 ウサ子はまだ5年生で、本当は宇佐見うさみ慶子けいこという名前だ。前歯がちょっと出てウサギみたいなので、みんなウサ子と呼んでいる。


 山辰はウサ子にだけは大人しいので、実は本当の父親なんじゃないかとか、むしろウサ子に淡い恋心をいだいているんじゃないかとか、みんなでウワサしていた。


  *


 結局、今日の練習も走りこみだけで終わった。ノブはグラウンドを半分走っただけなのに、美味しそうにスポーツドリンクをぐびぐび飲み干した。


 練習の最後は、みんな山辰の前に集まって礼をすることになっている。いったいなにに対する礼なのか疑問だったけど、これは伝統であり一種の儀式なのだと、ライト鳥山が言うので、みんなとにかく礼をしていた。


 赤い夕日がグラウンドを染めて、僕たちは山辰の前に集まる。山辰が、8本目のワンカップを飲み干す。もう今日は飲めないぞと、みんな思った。1日平均8.8本はみんな知っている。今日の夜は、残り0.8本という計算で、9本目の8分目まで飲んであとは残しておくのだろうか。


 礼をしようとしたとき、サードの猪本(いのもと)が「聞いていいですか」と言った。

「ダメだ」山辰は言った。


 それで終わり。もうなにも言うなという山辰の合図だ。


 だけどこの日の猪本はちがった。猪本だけじゃない、ほかのみんなもいつもとちがう。連戦連敗、負けるのには慣れていたけど、気がつけばもう9月。あと1週間で6年生はチームを離れ、後輩にあとを託すことになる。


 後輩といってもチームには6年生しかいないから、このチームは僕たちで終わりだ。北北西アニマルズはついに1勝もできずに幕を閉じるのだろう。そういうイラだちがサード猪本に火をつけたんだ。


「僕たちはこのままなんですか?」猪本は続けた。「せめて1回でも勝ちたかったです!」


 切実な言葉だけど、「勝ちたかったです!」と早くも過去形なのが気になる。だって1週間後にもう1試合残っているんだぞ。でもまあ、負けるだろうけど。


「うるさい!」

 山辰が怒鳴った。暴れる気配だ。僕はウサ子を目で探す。山辰をなだめてほしい。


 だけどウサ子はセカンド付近でのんびりトンボをかけていた。トンボというのは空飛ぶ昆虫のことじゃなく、先がT字になった棒で、それで土の上を平らにしていくのだ。ゆっくりトンボをかけるウサ子の姿は、しみじみとした味わいがあった。


「でも!」と猪本が食い下がった。山辰が左手に持ったワンカップのビンを投げつける。ビンは猪本から大きく逸れて、マウンドの方へ転がっていった。


「ノーコン」と誰かが言う。しらけたムードが広がる。礼もせず、みんなちりぢりに去りはじめた。僕たちアニマルズはもう終わりなのか。


「ノーコンなのは右腕が無いからだろ。これには理由があるんだ」

 山辰が誰にともなく言った。


 普通はここでみんな振り向き、つぎの山辰の言葉を待つのだろうけど、我らがアニマルズの面々は晩ご飯が気になってしかたないのでドンドン帰っていく。


 さすがにそれはまずい。エースで4番、その責任感のなせる技だろうか、僕はみんなをかき集め、ふたたび山辰の前に並ばせた。もちろんみんなブーブー言っている。


「ノーコンなのは右腕が無いからだろ。これには理由があるんだ」

 山辰はおなじ言葉を繰り返した。


 みんなが猪本を見る。お前がなにか言ってはやく終わらせろよ、ということだ。猪本はしぶしぶ……


「すいません、さっきはあんな――」

「あれは俺がまだ18のときだった」


 猪本が言いかけているのに、山辰は全然無視して自分の話をはじめた。年寄りには勝てない、猪本はそういう顔をして僕たちを見る。


  *


 ウサ子がグラウンドの整備を終えてもどってきたとき、山辰の話も終わっていた。みんな、話を聞いたことを後悔していた。ウソみたいな話で、信じていいかわからない。


 山辰はかつて名門高校の野球部でプレーして、プロ野球入りも確実だった。だけど母校の北北西小学校に夜な夜な現れる幽霊の話を聞いて、興味を持った。その幽霊は野球のユニフォームを着て勝負をいどんでくるという。まだ若さと才能があった山辰は、夜、面白がってグラウンドで幽霊を待ち、勝負をした。そして……


 結果は、山辰の右腕を見ればわかる。


「あいつが俺の一生を台無しにした」

 山辰が言った。


 幽霊に負けて右腕を奪われたという話よりも、こんなオヤジが自分たちの先輩だったという事実の方に僕たちはショックを受けた。


 山辰が、壮大な半生を語りを終え、パシュとまた酒を開ける。9本目だ。どうするんだ、8分目までしか飲まないのかと思いきや、グビグビといっきに飲み干した。


 ついに今日の分、オーバー。みんなそう思ったけど、あとで鳥山が気づいたところによると、9月は30日間なので、31で割った金額よりも多く酒を飲むことができるということだった。


 僕たちは、どうすんだよという空気だ。酔っぱらいのホラ話におよそ13分間つき合わされ、目の前で美味そうに酒を飲むところを見せつけられている。


「山辰、いつかリベンジする機会もありますよ」


 よせばいいのにレフト犬島が言った。とにかくなんらかのフォローをして早く家に帰りたかったんだろう。あとで聞いたところによると、この日の犬島家の晩ご飯は甘辛に煮た鳥の手羽先だったらしい。それは早く帰りたい。でも犬島のひとことが、僕たちアニマルズの運命を変えてしまった。


「今日リベンジしたらいいと思う」

 僕たちの背後で声がした。


 全員が振り返る。ウサ子がいた。トンボをかけながら話のすべてを聞いていたんだ。ウサ子は犬島の言葉に触発されたらしい。


「山辰のカタキ、私たちがとろうよ!」


 もちろんみんな、「私たち」というところに引っかかった。ウサ子は試合に出ないだろ。だけどライト鳥山の言葉を借りると、「マネージャーを含めた11人こそアニマルズなのだ!」ということになる(山辰は含まれていないのか?)。


 ウサ子の言葉は胸に響いた。僕たちはみんな、ウサ子に世話になっていたし、にくからず思っていたのも事実だし。


 こうして僕たちアニマルズははじめて、練習後もグラウンドに残った。


         *


 アニマルズが本拠地とする北北西小学校のグラウンドに、夜な夜な幽霊が出るというウワサは前からあった。創立して47年もたっているチームが1勝もできないなんて、たしかにおかしい。956戦956敗。幽霊にでも呪われていなければ説明のつかない数字だ。


 日が沈み、いよいよ夜になった。


 しぃんと静まりかえったグラウンドには、僕たちのほか誰もいない。もし山辰の話がまったくのウソで幽霊なんか現れなかったら、僕たちが逃した今日の晩ご飯の損害は大変大きい。


 ぐぉ、という音がして、みんなが振り返る。いよいよ出たか。

 ベンチに、巨体が横たわっていた。牛田ノブだ。待ちきれずに寝てしまったのだった。バットを抱き枕代わりに抱え、健やかな寝顔だ。


 緊張がいっきにとけた。もう待つのはやめようと誰が言いだすのか、みんなの視線が僕に集まった。馬場コウジ、エースで4番。お前が言えと。


 僕は恐る恐る、ベンチで晩酌をつづける山辰の方へ歩いていく。


 そのとき、バックネット裏に明かりが灯った。レフトにもライトにも。グラウンド上が照らし出される。


 おかしい、このグラウンドにナイター設備なんかない。よく見ると、明かりはすべて人魂だ。


 ああ、幽霊のウワサは本当だったんだ。山辰の過去の栄光はだいぶ水増しされたものだろうけど、夜な夜な現れる幽霊と勝負したのは本当なんだ。


 だってマウンドの上にぼんやりと現れたあのゆらめき。目を凝らすとそれは、ユニフォームを着た長身の野球選手だ。


 あれが、山辰の右腕と僕たちアニマルズの勝利を奪いつづけた、幽霊……。


 山辰は幽霊の方へ歩いていき、なにやら話しをはじめる。幽霊と堂々と話せるなんて、酒の力を借りてるとはいえ、さすが山辰だ。


 でも誰かがグラウンドの外から見たら、幽霊の姿は見えず、酔っぱらいがひとり、マウンドの上で独りごとを言っているだけに見えただろう。それはとても悲しい光景だ。


 話がまとまったらしく、山辰がもどってきた。

「試合に負けたら、俺は残った左腕も差しだすことになった」


 みんな、山辰の左腕を見た。左腕まで奪われてしまったら、どうやってお酒を飲むのか。これを機会に禁酒しようとしているのか。だとしたら前向きな交渉だ。


「あと、お前ら全員の右腕も取られる」


 そんな! 口々に文句が出る。だってそうだ。僕たちはまだ若い。小学6年生で右腕をなくしてしまうなんて、そんなひどい話があるだろうか。右腕を失い、山辰みたいに飲んだくれながら弱小野球チームの監督をして老いていくなんて、そんなの絶対イヤだ。それなら幽霊の呪いなんか解けなくていい。


「山辰、やめましょう。そして幽霊のことなんか忘れてしまいましょう」

 僕はいつになくハッキリと主張した。チームのみんなも僕に賛成だ。


「ダメだ。不戦敗も負けだから腕をとられる」

 なんという不平等。僕たちには勝つよりほか、道は残されていないんだ。


         *


 1回の表。僕はマウンドに立つ。

 バッターボックスに幽霊が入る。


 キャッチャー巳川みかわがミットを外角に構える。僕は大きく振りかぶった。


「タイム!」


 出鼻をくじかれた。タイムをかけたウサ子がボールを持ってやってくる。ボールならちゃんとあるのに。


「これ使って」


 ウサ子が持ってきたボールには、丸っこい文字で「なむあみだぶつ」とか「なんみょーほーれんげーきょー」とか書かれてる。なるほど、幽霊対策だ。ベンチを見ると山辰がニヤリと笑ってる。


 試合再開。


 僕は振りかぶって、記念すべき第1球目を投げた。幽霊対アニマルズ、世紀の一戦。


 さほど速くなく、いつも通りコントロールの定まらない球が時速78キロでキャッチャーミットに収まった。幽霊はバットを振ったが、かすりもしない。


 いける! チームのみんなが思った。


 いつもの試合なら、ここでホームランを打たれ、早くも敗戦ムード濃厚になっているのに、1球目でストライクを取れた。


 僕は2球目を投げる。空振り。またしても。


 バットがボールを避けているように見える。幽霊は念仏が恐ろしくてバットに当てることができないんだ。


 してやったり山辰。さすが僕たちアニマルズの監督だ。と思ってベンチを見たら、酒を飲んでもう寝てしまっていた。早いよ!


  *


 1回表はなんと0点に抑えた。幽霊は3回打席に入り3回とも三振。アニマルズはじまって以来の快挙に、早くもみんなお祭り騒ぎ。


 だけどそんな興奮もつかの間だった。1番ライト鳥山が打席に入り、初球、バットを振る。


 幽霊の投げた速球は、鳥山のバットを粉々に砕き、バックネットに突き刺さって煙を吐いた。あとで鳥山に聞いたところによると、恐らく3者三振の怒りのせいだろう、幽霊の目はマジだったという。


 ビビって三振になった鳥山のつぎは、2番セカンド猿渡さるわたり、3番サード猪本いのもと。ふたりとも初球でバットを折られ、ビビらされた挙げ句の3球三振。


「幽霊はマジ」

 ベンチにもどってきたふたりは口々に言った。


 僕はマウンドに立ち、ウサ子が書いた念仏ボールをひたすら投げつづける。2回、3回、4回、効果は抜群だった。いずれも三振。幽霊相手なら完全試合も夢じゃない。


 アニマルズのみんなも幽霊同様、三振を繰り返していたが、点をとられなければ大丈夫と、僕は自分に言い聞かせる。


  *


 雲ゆきが怪しくなったのは5回だ。幽霊がはじめてバットにボールを当てた。ファールチップだったけど、おやっとみんな思った。


 6回、頻繁にファールが飛ぶようになり、7回にはあわやホームランかという大飛球を打たれた。


 おかしい、幽霊が念仏ボールに慣れてきたのか。見ると、ボールの念仏がうっすらと消えはじめてる。キャッチャーミットに収まるたびにこすれ、字が消えてるんだ。


「ウサ子まずいよ、念仏が消えはじめた」

 8回もなんとかゼロに抑えてベンチに帰り、僕はウサ子に泣きつく。


 ウサ子はボールに念仏を上書きしていくけど、ペンの出が悪い。何度もペンをこすりつけてようやくうっすら念仏が見える程度だ。


「ペン、なくなってきた……」


 ウサ子の言葉に、ゾッとした。


 僕はチームのみんなを見回す。もしペンが書けなくなったら、念仏は消えてしまうだろう。消えてしまえば打たれてしまう。打たれしまえば僕たちの右腕も……。


  *


 9回の表裏、両チームとも3者三振。勝負はついに延長戦に突入する。


 延長10回、11回、12回……念仏の文字はなんとか消えずに残っていたけど、どこまでも繰り返される3者三振の無間地獄に僕たちは焦りはじめる。このままいけば、僕たちが点を入れるよりも早く、念仏の文字が消えてしまうにちがいない。


 13、14、15、16……。

 死んだ子どもの歳を数えるように回は進み、丑三うしみつ時をすぎても試合はつづく。


 僕たちにとって幸運だったのは、アニマルズ最大の武器が、膨大な持久力だったということだ。ライト鳥山の仮説によれば、通常、技術がなくては持久力も意味がない。だけど、すごく長くつづけば、技術よりも持久力の方が勝ることがあるそうだ。あくまでも仮説だけど。


 17、18、19、20回。その表、幽霊の攻撃。

 空が白みはじめる。僕はちょうど200球目を投げた。念仏は消えて、ただの汚れたボールになっていだ。幽霊が勢いよく振ったバットは、ボールを真芯で捉え、レフト犬島の上を軽々と越えていった。ホームランだ。


 ついに点を入れられる。そしてつぎもホームラン、またそのつぎも。つづけざま、3連続ホームランで、試合はもう決まってしまったのか……。


「タイム!」


 見かねたウサ子がマウンドに駆けてくる。内野手も外野手も僕のもとに集まる。どの顔にも疲労がにじみ、それ以上に試合の結末に不安でいっぱいだ。


「ウサ子、ペンは?」僕はウサ子に聞く

「もうない」ウサ子がは下を向く。


「むしろこのままずっとホームランを打たせて、試合を終わらせなきゃいいんじゃない?」


 チューこと、センターの佐村さむらただしが言う。もうみんな疲れていたので、そんな意見すら名案に思われた。


「ダメだ。引き分けは負けに等しい」

 山辰がやってきた。ようやく起きたのか。


「勝たないと負けだ」

 山辰はワンカップを空けてグビグビ飲んだ。


「でも、このままだと打たれっぱなしですよ!」

 僕は泣きそうだ。だけどウサ子が見てるから、なんとかグッとこらえる。


「ボールをこっちに向けろ」

 山辰が言う。どういうことだろう? 僕は山辰の方へボールを向ける。


 山辰はワンカップをウサ子に渡し、左手の人差し指の先を歯で噛み切った。うわっ。山辰は流れる血でボールに念仏を書く。49年間の恨みがこもってる。かつて右腕を奪われた幽霊相手にどうしても勝ちたいという執念だ。


「これでいいだろ」


 山辰は、ボールを僕のミットに押し押しこんだ。まだ血は乾いてなかったので、グローブも赤く染まる。正直、汚いなあと思ったけど、雰囲気が台無しになるので口に出すのは我慢しよう。


「コウジ、頑張ってね!」

 ウサ子が僕に言った。呼び捨てかよ、と思ったけど、ウサ子にそう言われると元気が出るから不思議だ。


 僕は幽霊と向かいあい、ありったけの力で、血で書かれた念仏ボールを投げた。それは今までのどんな念仏よりも強力で、幽霊はあっという間に三振に倒れた。


  *


 20回の裏、僕たちは追いつめられていた。3対0。このままでは負けだ。


 幽霊は血の念仏ボールをさわるのを嫌がってる。でも幽霊が3本も場外ホームランを打ったので、もうそのボールしか残っていない。


 ウサ子が説明すると、幽霊はしぶしぶ、ポケットからハンカチを出してボールをつまんだ。そんなにさわるのが嫌なのか。だけどハンカチを持ちながら投げれば、ボールは遅くなるに決まってる。


 僕たちにもツキが回ってきた。そう思ったけど、9番獅子谷ししたに(ししたに)、三振。1番鳥山、三振。あっという間にツーアウト。万事休す。


 2番猿渡さるわたりがバッターボックスに入る。幽霊が2球投げ、ツーストライク。もうダメだ。そう思って山辰を見ると、なにやらサインを送ってる。


 作戦だ。だけど今までサインの練習なんかしたことがないから、猿渡は山辰がなんのサインを出しているのか見当もつかない顔をしている。


 見かねたウサ子が山辰の横で、両腕を前にグイッとつきだした。左手はグーで下向き、右手はグーで上向き。バントのマネだ!


 幽霊が振りかぶって投げた。剛速球がうなりをあげて、バントをした猿渡のバットを砕く。ボールは3塁線を点々と転がっていく。そう、幽霊はひとりだ。ほかに守備はいない。


「早く走れ!」

 僕は叫ぶ。


 猿渡は必死に1塁へ走る。幽霊がマウンドを降りてボールを取っても、1塁には誰もいないので投げられない。セーフ!


 アニマルズ、対幽霊戦で初めてランナーを出す。

 アニマルズ球団史が編纂されるなら、この出来事は確実に刻まれることだろう。


 3番猪本、バットを折られながらもバント成功。セーフ。

 4番、馬場コウジ。僕だ。


 幽霊が、第1球を投げた。僕はバントの構え。だけど遅い。速球じゃなくカーブだ。幽霊のクセになんてズルいんだろう。小学生相手に変化球を使うなんて、いい大人のすることじゃない。


 大きく曲がった緩いカーブに、僕は必死に食らいつく。ボールはバットに当たり、ピッチャー前に転がる。幽霊もバカじゃない。バントをしてくることくらいわかっているので、猛然とマウンドを駆けおりボールをとる。


 僕は1塁目指して走りだす。

 振り返るとボールを持った幽霊が追いかけてくる。


「うわああ」

 僕は追いつかれまいと必死に走る。幽霊に追われるなんて、なんてホラーだ。


 1塁の手前、ふっと幽霊の足音が消えた(幽霊に足音があるのも不思議だけど)。走りながら振り返ると、幽霊は飛んでる。ジャンプして僕に襲いかかってくる。


 僕はヘッドスライディングで1塁に飛びこんだ。幽霊が僕の上にのしかかる。

 でも幽霊だからだろうか、触れられた感触も、重さはほとんどない。

 伸ばした僕の手は、1塁についていた。やった、セーフだ。


 20回の裏、ツーアウト満塁。ホームランが出れば逆転サヨナラ。アウトならみんな逆の意味でサヨナラ。


 5番ショート羊屋ひつじやが、やる気満々でバッターボックスへ歩いていく。チラッと振り返り、ウサ子を見る。なんのアピールだ?


「代打、牛田ノブ!」

 山辰が非情にも言った。あわれ羊屋。彼は悲しそうな目でベンチに退いた。


 だけどノブはバッターボックスに現れない。まだベンチで寝ていた。ウサ子が必死に起こすと、「肉まんじゅう?」と言いながらノブは起きだした。


「朝ご飯の肉まんじゅうは?」と、なおも言っている。どうやら牛田家の朝ご飯は肉まんじゅうなる代物らしい。僕はご飯の周りを肉で囲まれたおはぎの肉バージョンを想像したけれど、あとでライト鳥山が言うには、皮がすごく薄くてほとんど肉だけしかないような肉まんのことらしかった。



 太陽は今まさに日の出を迎え、遠くの高橋さん家の農場から、一番鶏の鳴く声が聞こえた。

 朝だ。


 幽霊は日差しを浴びながら、消えかかってる。ここで消えられたら試合をしてきた意味がない。また明日再戦だなんて言われてもやる気がしない。


 ノブ、1球で決めてくれ。チームのみんながそう願う。


 ウサ子に押されてノブが打席に立つと、お腹がぐぅと鳴った。思えば昨日の夜からなにも食べてない。そりゃお腹も減るだろう。


 幽霊が、最後の1球を投げる。今までのどんな球よりも速く、どんな球よりも力のある速球だ。


「ニク・マン・ジュウ!」


 ノブが思いっ切りバットを振る。みんなが延長20回を戦っている間、ひとりベンチでグッスリ寝ていた牛田ノブ。その有り余るパワーを全力でこめたひと振りは、幽霊のボールを、たしかにとらえた。


 ノブの発した美味しそうな奇声のために、みんなその快音を聞き取ることはできなかった。ただ、暁の空、昇りゆく太陽に向かって一直線に飛んでいく白球は、見えた。


 77打席目の快挙。229回目にしてようやく当たったボールは、グングン伸びて場外に消えた。食べる以外に興味のないヤツが打った初めてのヒットは、代打逆転満塁サヨナラホームランだった。77打数1安打。打率0割1分2厘。


 幽霊が、がっくりとうなだれる。ノブは打ったあと3塁へ走りはじめる。このとき僕たちはようやく、ノブが野球のルールをなにひとつ知らないという事実を知った。


 山辰やウサ子はじめ、みんながノブに1塁を指さし叫ぶ。ノブはあわてて1塁へ向かって走りだす。


 猿渡、猪本、僕がホームインし、ノブは2塁ベース上でひと休みしたあと、ようやくホームに帰ってきた。


 試合は終わった。3対4。北北西アニマルズは、はじめて勝利した。


 見ると、マウンドに幽霊はいなかった。最後の姿を見たというライト鳥山の話によると、消える寸前、幽霊は少し笑っていたという。


 みんなはホームベースの前に一列に並び、朝の太陽を浴びながら礼をした。試合が終わったからと、一目散に帰るヤツはいなかった。


 僕たちはさわやかな疲労感につつまれ、試合の余韻に浸りながら対戦相手に敬意を感じた。これが、北北西アニマルズが一度も味わったことのなかった、勝利というものだった。


 僕たちが帰ると、どの家でも大騒ぎだった。チーム全員が行方不明になったので、父母や先生はもちろん、警察まで僕たちを捜していた。


 不思議なのは、学校ももちろん探したのだけど、グラウンドには誰の姿もなかったらしい。


 その朝、もうひとつ事件があった。


 学校のすぐそばで泥棒が捕まったんだ。なぜか道路に倒れていて、その横には血で念仏の書かれた野球ボールが落ちていたらしい。きっとバチが当たったんだと、人々はウワサした。


  *


 行方不明騒動の責任をとるかたちで、山辰は、アニマルズの監督を辞めた。すぐに新しい監督がきて、翌週、僕たちは最後の試合を戦い、あっさり負けた。


 試合中、山辰の姿を見たというウワサがあったけど、本当のところはわからない。幽霊との一戦以降、僕たちが山辰に会うことは、二度となかった。


 9月が終わり、僕たち6年生はチームを引退した。でも、ウサ子の働きで5年生が14人入団した。なんだ、前より多くなったじゃないか。


 アニマルズは今でもあのグラウンドで練習していて、試合でも何回か勝ったらしい。幽霊の呪いが解けた今となっては、アニマルズの勝利はそれほど珍しいものではなくなったのかもしれない。


 それでも、僕たちはあの9月を忘れない。暑かった9月、人によっては泥棒騒ぎの9月かもしれないけど、僕たちにとってはまさに、アニマルズの9月だった。

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