ジョンといっしょに……(犬)
夜8時。住宅街のはずれにあるサイクリングロードは、静かで暗い。
こんな時間にひとりでくるなんて、里見にははじめてだ。
昼間にだって、ひとりで来たことはない。
いつもいっしょに走ってたんだ……。
でもそのことは、もう考えない。
里見は大きく息を吸って、走りだした。
夜の、ひんやりした空気を顔に感じながら、タッタッタと走る。
その足音だけが聞こえる。
いつもなら、人がいるはずだ。だってサイクリングロードなのだから、ジョギングをする人や自転車に乗る人がいてもいいのに。
今日にかぎって、どうして人がいないんだろう。やっぱりあのウワサのせいなのかも。
走りながら里見はそう思った。
里見はあの日以来、4ヶ月ぶりにこのコースを走っている。
思ったより走れる。でも、いつまでもつかわからない。
走りなれたサイクリングロードなので、コースはわかってる。
まずは直線がつづく。道の左はしにある街灯が、ボトンボトンと光を落としてる。
その光の中に入るたびに、目がくらんで、めまいのような感覚になる。
光を走りぬけると、つぎは闇だ。
まるで、世界から人がいなくなって、たったひとり、最後の人類になった気持ち。
なんていうのは大げさだけど、もしも、サイクリングロードの左側にあるマンションに明かりがついてなかったら、きっとそれも、大げさとは言えないかもしれない。
直線のあと、道はくだり坂になって、ゆるやかに左にカーブしていく。
ここで里見は、いつものようにスピードをあげた。
自然にそれができたので、なんだか不思議な気分だ。
昨日も一昨日も、このコースを走っていたみたいだ。
でも最後に走ったのは4ヶ月前のマラソン大会で、里見はけっきょく、完走することはできなかった。
同じコースを走ってると、あの日のことを、やっぱり思い出してしまう。
里見は、勉強はあんまりできないけど、走ることには自信があった。特に長距離走だ。
1年から5年まで、マラソン大会はいつも10位以内。
いちばん成績のよかった5年生のときなんか、1位と20秒差の3位だった。
だから6年生のマラソン大会は1位を目指した。なのに……。
4ヶ月前のあの日と同じように、左カーブが終わって直線になっても、里見のスピードは落ちなかった。両足が車の車輪みたいに、規則正しくなめらかに動く。
よかった、事故の影響はないみたい。里見は思った。
毎年、マラソン大会では、この直線で先頭グループができていた。
5、6人、多いときには10人くらいが固まって、先頭を走る。
6年間、里見は必ず先頭グループにいた。
さらに今年は、先頭グループの中でもいちばんトップを走った。
今年の里見は自信があった。何度も練習で走ったコースだ。
1週間に3回は走った。ジョンといっしょに。
そうだ。ジョンといっしょに……。
夜の、暗いサイクリングロードをひとりで走りながら、思いだしてしまった。
飼っていた犬、ジョン。
ジョンといっしょに、この道を走ったんだ。
ジョンの散歩が、里見のマラソン の練習だった。
ジョンは器用にカーブを曲がる。手に持ったリードに引っぱられながら、里見もジョンとおなじように曲がる。そうやって、カーブの曲がり方をジョンに教わった。
走りながら、じわじわと体の中が熱くなる。
ジョンのことを思いだしたからなのか、それとも走りつづけてるからなのか、里見にはわからなかった。
ガツっと、足になにかあたった。
転びそうになる。
里見はバランスをもどして、また走りだす。
ほら、やっぱりここなんだ。
夜の、暗いサイクリングロードをひとりで走りながら、思いだしてしまった。
飼っていた犬、ジョン。
ジョンといっしょに、この道を走ったんだ。
ジョンの散歩が、里見のマラソン の練習だった。
ジョンは器用にカーブを曲がる。手に持ったリードに引っぱられながら、里見もジョンと同じように曲がる。そうやって、カーブの曲がり方をジョンに教わった。
走りながら、じわじわと体の中が熱くなる。
ジョンのことを思いだしたからなのか、それとも走りつづけてるからなのか、里見にはわからなかった。
ガツっと、足に何か当たった。
転びそうになる。
里見はバランスを戻して、また走りだす。
ほら、やっぱりここなんだ。
20年前に作られたサイクリングロードは、整備がいきとどいてなくて、ところどころ道が盛りあがってる。道の下から草が生えてきてるせいらしい。
里見は、この直線は得意なはずだった。
くだり坂のカーブで勢いをつけて、直線をグングン走っていく。
なのにいつもこの盛りあがりに足をとられた。
せっかくここまでいい感じで走れていたのに、ここでペースは乱される。
今日もそうだし、マラソン大会では、ここで転んだんだ。
そうだ、それが原因だった。
先頭グループのいちばん前を走っていたのに、里見はここで転んだ。
そうして先頭グループからひとりはなされてしまった。
あの日、両脇から、応援の父母たちが大きな歓声をあげていた。
里見が転んだとき、悲鳴のような驚き声があがった。
遅れてしまった。五〇メートルくらいはなされてしまった。
まずい。
あせる気持ちで、心臓がドクドクドクドク大きくはねていた。
なんとか追いつこうと走るペースをあげるけど、先頭グループにはぜんぜん追いつかない。
それよりも、どんどんはなされてるように感じた。
どうしよう、これが最後のマラソン大会なのに……。
里見の動揺は、走り方にも現れた。
なめらかだったフォームは乱れ、それを元に戻そうと余計に力が入る。どんどんスタミナが奪われていく。
動揺はそれだけじゃなかった。マラソン大会の朝に聞かされたこと……
ジョンが病気で、入院することになった。
夜のサイクリングロードを走りながら、里見はあの日のことを思いだしていた。
いっしょに練習していたジョンが病気になって、落ちこんだ気持ちで走りはじめたんだ。
さらに途中で転んでしまい、先頭グループから置いていかれる。
いつもよりも、はやくスタミナはなくなっていって、まだマラソンコースの半分にさしかかるところなのに、お腹の横がぎりぎりと痛くなってきたんだ。
そうして、あの陸橋の下をくぐることになった。
サイクリングロードは、大きな道路と交差するところは、その下をくぐるようにできている。
いま、夜の道を走る里見も、30メートルほどある道路の下を走っていく。
だけど昼間と違って、夜はほとんどが闇だ。
照明が何個かあるけれど、なんの役にもたたない。
海に砂糖を入れたって甘くならない……。
里見はそんなことを思いながら、陸橋の下を、闇の中を走っていく。
早く外に出たい。
じゃないとあの日のように、またアレが……。
ヒタ、ヒタ、と背後で音が聞こえた。
ほら、やっぱりやってきた。
マラソン大会のときもそうだった。
この下を走ってるときに、背後から足音が聞こえてきた。
最初は、うしろを走るランナーだと思ったけど、すぐにちがうことはわかった。
だって耳元でささやきかけてきたんだ。
「1位になりたいか?」
ぞくっとした。
だれが、どうしてそんなことを?
サイクリングロードは、大きな道路と交差するところは、その下をくぐるようにできている。
いま、夜の道を走る里見も、30メートルほどある道路の下を走っていく。
だけど昼間と違って、夜はほとんどが闇だ。
照明が何個かあるけれど、なんの役にもたたない。
海に砂糖を入れたって甘くならない……。
里見はそんなことを思いながら、陸橋の下を、闇の中を走っていく。
早く外に出たい。
じゃないとあの日のように、またアレが……。
ヒタ、ヒタ、と背後で音が聞こえた。
ほら、やっぱりやってきた。
マラソン大会のときもそうだった。
この下を走ってるときに、背後から足音が聞こえてきた。
最初は、うしろを走るランナーだと思ったけど、すぐにちがうことはわかった。
だって耳元でささやきかけてきたんだ。
「1位になりたいか?」
ぞくっとした。
だれが、どうしてそんなことを?
でも、ふり返ってもだれもいない。
後続のランナーはずっとうしろを走ってる。
里見の背後には、ただ暗闇があるだけだった。なのに声がする……
「1位になりたいなら、俺と契約しようぜ」
里見は1位になりたかった。
どんなことをしてでも。
もう、先頭グループは先をいってしまって、見えなくなってる。
ここから、後半の距離で追いつくのは無理だった。だから……
「ゴールまで走りたい?」
あの日から4ヶ月後、夜の道を走る里見に、またあの声が聞こえてきた。
暗い陸橋の下で、またアレがささやきかけてきた。
「最後まで走りたいなら、俺と契約しようぜ」
走るスピードをあげて、はやくここから抜けだしたい。耳元で聞こえるささやきを消し去りたい。でも、声はしつこく里見を誘う。
里見は首を振って、声を拒否する。
マラソン大会のときは、里見は声にうなずいてしまった。「わかった、1位になりたいならなんでもする」と心の中で言ってしまった。
そのとたん、里見の走る速度はグンとあがった。
陸橋を抜けて、昼間のまぶしい光に照らされたとき、里見はまるで空を飛ぶ鳥みたいに、海を泳ぐ魚みたいだった。
なんの抵抗もうけず、スイスイと空気を切りさいていく。
やった、と心の中で思った。
先頭グループが見えてきた。6人の集団。
だけどもうみんな疲れて、スピードはどんどん落ちている。
里見はさらに走る速度をあげた。
あっという間に距離が縮まる。
30メートルが20メートルに、20メートルが10メートルに。
追いつくのは時間の問題、追い抜くのも確実で、その先にある道路を渡れば、300メートル先がゴールだった。
4ヶ月後の、夜の道をひとり走る里見も、暗い陸橋を走りぬけた。
今度は誘惑をふりきった。アレの声にうなずかなかった。
だから、走るスピードはあがらない。それよりもどんどん落ちていく。
あの日の先頭グループみたいだ。
グキ、と足首が曲がった。
「いたい!」と悲鳴をあげる。
里見がかばうように走っていると、逆の足首も痛くなる。
痛みは足首からひざ、ももへとあがってくる。
足が痛い。しびれる。
お腹も痛くて、壊れた機械みたいに息がぜえぜえと体から漏れる。
このままだと、ゴールまで走りきれない。
そう思ったとき――
ヒタヒタ……ヒタヒタ……
足音が、背後から聞こえてきた。
ヒタヒタ、ヒタヒタ……
追ってくる。
陸橋の下をぬけたのに、夜の暗闇の中を、アレが追ってくる。
「最後まで走りたいんだろ? な、俺の言うこと聞けよな」
あの声がまた耳元で聞こえた。まるで、里見のすぐ横をピッタリはりついて走ってるみたいだ。里見は強く、何度も首をふった。
もう二度と、アレの言うことなんか聞かない。
あんなひどい目にはあいたくない。
声を無視して走ると、向こうに、青い光が見えた。
その光は何度か点滅して、赤に変わった。
そうだ、この信号だ。四ヶ月前、里見の最後のマラソン大会はここで終わったんだ。
あとすこしで先頭グループに追いつきそうになったとき、先生が里見を止めたんだ。
「信号赤だ! 一時停止!」
ここはマラソン大会のコースで、唯一、道路を渡らないといけない場所だった。
信号が青の場合は、ランナーはそのまま走って渡り、黄色か赤なら、先生が停止させるきまりになっていた。
先頭グループのランナーは青のまま道路を渡った。
だけど、里見は運悪く黄色にひっかかった。
信号の青がチカチカ点滅してる。
走ってくる里見に、監視の先生が手を広げて止めようとする。
もう少しで追いつけたのに。
と里見は思った。
「もう少しで追いつけたのにな」
と、アレも耳元で言った。
「ここで待たされたら、追いつけないぞ」
信号で止まった里見に、アレの声がささやきかける。
道路を渡った向こうで、先頭グループはどんどん先へ走っていく。
せっかくここまで追いついたのに!
「急げよ! あとを追えよ!」
里見はその声に従った。
先生が、里見のうしろから来るランナーに目をとられてるすきに、横をすり抜けて、道路に飛びだした。
だけどそのときには、信号はもう赤だった。
里見が最後に覚えてるのは、ものすごく近くで聞こえた急ブレーキの音だった。
4ヶ月間、里見は走ることができなかった。
もしかしたら、とっくに走れるようになっていたのかもしれないけど、走る気が起きなかった。
ケガは奇跡的に軽かった。骨折もなく、打撲と脳しんとうだけ。
ただ、もしものために1週間入院することになった。
マラソン大会は途中棄権。
先生が止めるのを聞かずに、ルールを破ったんだ。
最悪の気分だった。
それに、里見は入院中に聞かされた。
ジョンが死んだ。
その日の午前中に入院していたジョンは、翌日、容態が変わり、息を引きとった。
「だいぶ、悪かったみたいだ」
病院のベッドに寝ている里見に、父親が、申し訳なさそうに言った。
「もっとはやく、気づいてやればよかった……」
自分の事故のショックもあって、さらに、あまりに急な死の知らせに、里見は混乱した。
自分の感情を、どう出していいのかわからない。
だから退院して家に帰ったとき、ジョンの物がすべて片づけられていたのを見ても、なにも思えなかった。
犬小屋も、ジョンのリードも、なにもない。
とつぜんジョンの存在がこの世から消えてしまった。
里見は学校にもいかなくなった。
ルールを破って道路に飛びだした自分を、学校のみんなはどう思ってるだろう。
きっと悪口を言ってるだろう。ズルをしようとした罰だと、言ってるんだ。
そうだ、私は、アレと契約を結んで、アレの言葉を聞いてしまった……。
4ヶ月ぶりに、里見はあの信号の前まで走ってきた。
暗闇に、信号が赤々と灯ってる。
里見は信号の前で止まって、その場で足踏みをつづけた。
ここから先がマラソン大会のつづきだ。あの日、走れなかった部分。
4ヶ月前に置いてきた大切なものが、この先にあるような気がした。
どうして里見が、今ごろになってまたこのコースを走る気になったのか。
家にこもりっぱなしで、ゲームとインターネットで時間をつぶしていたときに、みつけてしまった。この町の、怖いウワサの情報。
北北西市のサイクリングロードで、夜になると犬の鳴き声が聞こえるらしい。
8時過ぎにランナーが走っていると、鳴き声が聞こえてくるという。
ジョンだ。
里見は思った。
ほんとうは近所で飼われてる犬の鳴き声かもしれない。
でも里見にはジョンの鳴き声のような気がした。
一緒にこの道を走ったんだ。
ジョンが呼んでるような気がする。
信号が青になった。
ここから先が、マラソンのつづき。そう思って里見は走りだす。
「さあ、急いで走ろうぜ、ヘヘ……」
アレの声がうしろから聞こえた。
「うるさい!」
思わずうしろをふり返りながら叫んだ。
そのまま前を向かずに道路に出ようとした瞬間――
ワン!
聞こえた。
ネットの噂のとおりだ。
その声に里見は立ち止まった。
すると横から、異常にまぶしい光がやってきたかと思うと、猛スピードで里見の前を通りぬけた。
「うわっ!」
里見はおどろいて歩道に戻った。
目の前を信号無視の車が走っていった。
「ちぇっ」
とアレの舌打ちが聞こえた。
「ヘヘ、おしかったな。もうすこしでお前は車に――」
ワンワン!
鳴き声でアレの声が消された。
姿は見えないけど、いるんだね。
里見は左右を確認して、道路を渡った。
ふたたびサイクリングロードにもどる。
「ジョン、いくよ」
そう言って走りだす。
里見のうしろから、犬の走る足音が聞こえてくる。
「走ったってムダだぜ。あきらめちゃえよ」
暗闇から聞こえるアレの誘惑になんて負けない。
暗い道だって怖くない。私はひとりじゃない。
「ジョン!」
走る速度をあげた。
こうやって、いっしょに走りつづけてきたんだ。
ジョンが死んだあと、なるべくジョンのことを考えないようにしてきた。
思いださないように、自分で自分にウソをついてきた。まるで自分に呪いをかけたみたいに。
だけど、もう終わりだ。
ジョン、ごめんね。
思い出さないようにして、ごめんね。
ひとりで、さびしかったよね。
病気で入院して、具合が悪いのに、いてあげられなくてごめんね。
心ぼそいまま、旅だたせてごめんね。
涙がぼろぼろとこぼれ落ちても、里見は走りつづけた。
何度ぬぐっても、目からつぎつぎと感情があふれる。
走り疲れた荒い息が、涙の嗚咽に変わる。
それでも、絶対に、最後まで走るんだ。
ゴールが見えてきた。サイクリングロードの脇にある、大きな古い木だ。
道はその先にもつづいているけど、マラソン大会のゴールはこの木がある場所だった。
5年間、この木の横を通り抜けた。
毎年、順位は上位で、最高は3位。10位以下になったことはなかった。
今年、6年目の里見のマラソン大会は、スタートしてから4ヶ月かかった。
いま里見は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、でもはっきりと顔を前に向けて、大きな木の横を、走りぬけた。
つかれで、足が重い。
空気を吸いこみ、吐きだすたびに、胸が大きく上下する。
足を引きずるようにして、里見は、街灯の光の下までやってきてベタリと座りこんだ。
やっと、マラソン大会が終わった……
ワン!
見あげると、さらにつづくサイクリングロードの先にジョンがいた。
暗闇の中でもハッキリ見える。
「ジョン!」
里見は叫んだ。
ジョンは、里見の方を見て笑っていたが、なごり惜しそうに、向こうに歩きはじめた。
「待って!」
ジョンは里見の声に反応するみたいに、二度三度ふり返った。
だけど暗闇がつづく道の先へ歩いていき、そうしてついに、見えなくなった。
「ジョン!」
里見は顔を押さえて泣いた。
手のすき間から、涙がこぼれた。
「ジョン、ごめんね……。ジョン、ありがとう……」
かけがえのない大切な存在のために、何度も泣いた。
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