雨の日、アレがやって来る……。

「雨だ……」


 わたしは思わずつぶやいた。


 学校の玄関の、外につきだした庇の下から、空を見上げる。

 黒と灰色の雲が、空をどんよりおおって、じとじと嫌な雨が降っていた。


「最悪だあ」


 せっかく昨日買ったばかりの服を着てきたのに。

 かわいいフリルのついたスカートをみんなに見せびらかして、「かわいい」って言われたのに。


「傘ないの?」


 わたしの横で声がした。見たらミキが立っていた。


「ミキぃ!」


 わたしはミキに抱きついた。

 わたしの気持ちをわかってくれるのはミキだけだ。


「ねえねえ、せっかくかわいいスカートなのにさあ――」

「雨に濡れちゃうね」


 わたしの言葉をミキがつないでくれた。ほら、やっぱりミキはわかってくれる。


「そうなのよ~」


 またミキに抱きついたら、お腹にコツンと何か当たった。

 ミキからはなれて見てみたら、それはミキの小さな傘だった。


「チョコ、傘に入ってく?」


 チョコというのは、わたしのあだ名だ。


「いいの?」

「だって傘ないんでしょ」

「うん」


 そのとおり。

 傘がないから帰れない。

 かわいいスカートが雨に濡れちゃう。


「雨、やまないね。早く帰らないと」


 わたしが今朝のことを思い出してたら、ミキがそう言って傘を開いた。


「ミキ、帰っちゃうの?」

「うん。チョコも傘入って。一緒に帰ろう?」


「でも、ミキの家よりわたしの家の方が遠いよ」

「いいの、わたし、チョコの家まで行ってあげる」


「ええ~だめだよ~、ミキ、勉強あるんでしょ?」

「いいの、家庭教師だから、ちょっとくらい遅れても」

「だめだよ~。ミキは頭いいんだから、ちゃんと勉強しないと~」


 それでもミキは、何度もわたしを誘った。変なミキ。

 結局、わたしが何度も断ったから、さすがのミキもあきらめた。


「じゃあ、わたし、帰るね」


 ミキが傘をさして、庇から外に出た。しとしとと、ミキの小さな傘に雨が降り注ぐ。


「ホントにいいの?」


 ミキが後ろ向きのまま、背中を向けてわたしに言った。


「大丈夫!」

「でも、早く帰らないと、アレが出るよ」

「え? アレってなに?」


 わたしには、傘とミキの後ろ姿しか見えない。


「ミキ?」


 ミキがふり向いた。いつものミキの顔だった。


「うわさだから」


 そう言ってミキは笑って、雨の中を歩いていった。

 途中、二回か三回、ふり返ってわたしの方を見たけれど、顔はよく見えなかった。


「一緒に帰った方がよかったかな~」


 ミキの姿が見えなくなって、わたしはちょっと不安になった。

 だって、ミキが変なこと言うからだよ! 


「早く帰らないと、アレが出るよ」なんて、どういう意味だろう?

 うわさって言ってたけど、そんなうわさ、わたしは聞いたことがない。


 もしかしたら、わたしがミキの傘に入らなかったから、いじわるを言ったのかも。

 わざと怖いこと言って、困らせようって……。


 うそうそ! ミキはそんな子じゃない。

 きっと、ホントにわたしのことを心配してくれたんだ。


 でもわたしは、ミキの傘の大きさが気になったんだ。

 だって、ミキの傘は小さくてかわいい。


 あの傘に二人は入れない。

 どっちかが半分だけ濡れちゃう。


 もしかしたら、二人とも、半分ずつくらい濡れちゃうかもしれない。

 そうしたら、わたしの自慢のスカートはどうなっちゃうの?


 こうなったら、雨が止むのを待つしかない。

 でも、いつになったら雨は止むの?


 天気予報でなんて言ってたんだろう? ミキに聞いておけばよかった。

 それから、ママにも。


 でも、ママなんて嫌い。

 いっつもうるさいし、わたしがかわいいスカート履いて学校行くのを止めるし。

 だから今日の朝、「ママなんて嫌い!」って言っちゃった。


 あの時、ママはどんな顔をしてたんだっけ?

 朝の場面を思い出そうとするけど、ママの顔は浮かばない。


 誰かが言ってた。

 ある人を嫌いになったら、その人も、わたしのことをだんだん嫌いになっていくんだって。

 だからきっとママも、わたしのこと嫌いになったんだろうな。


「ちぇっ!」


 まわりにだれもいないから、わたしは舌打ちをした。

 ふだんはそんなことしないけど、いまはだれもいないから、大丈夫。


 あれ?

 そうだ、まわりにだれもいない。

 気がつくと、いつの間にか人がいなくなって、わたしっていま、一人だ。


 まわりを見回しても、だれもいない。

 みんな、あっという間に帰っちゃった。


 ふり返ると、暗い学校の玄関が見えた。

 しーんとしてる。


 蜂の巣みたいにな下駄箱の中に、上靴が一足一足、静かに入ってる。

 外靴は一足もないから、みんな帰っちゃったんだ。


 たくさんの上靴が、なんか、わたしを見つめてるみたいだ。

 早く帰れって言ってるみたい。

 そうだね、早く帰らないと。


 庇の向こうを、見つめる。

 日が落ちて、もう暗くなってる。


 雨は、ぜんぜんやまない。

 前よりも、強くなったみたい。


 暗闇の中に、雨の音だけ響いてる。

 ちょっと心細くなってきた。


 こんなことなら、ミキと一緒に帰ればよかった。

 小さい傘に二人で入っても、もしかしたら、スカートは濡れなかったかもしれない。


  ぴしゃっ。


 音がした。


  ぴしゃ。ぴしゃ。


 水たまりに、何かが入った音だ。

 庇の向こう、学校の外の暗闇から、音がする。


  ぴしゃ。ぴしゃ。ぴしゃ……。


 規則的に聞こえてくる音。

 だれかが向こうから歩いてくるんだ。


 こんな時間に? そうだ、もうすぐ夜になる。

 こんな遅くまで、学校に残ったことなんてなかった。

 ミキの言葉を思い出す。


「でも、早く帰らないと、アレが出るよ」


  ぴしゃ。ぴしゃっ……。


 音はどんどん近づいてくる。わたしは、暗闇の向こうをじっと見つめた。

 なにも見えない。


  ぴしゃ。ぴしゃっ。ぴしゃっ……。


 何かが、駆け足でやってきてるはずなのに。


  ぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃ……。


 目の前にいるはずななのに、姿は見えない。


  ぴしゃ――


 目の前で足音が止まった。


 え?


 でも、そこにはだれもいない。

 なのに、足音だけが聞こえて、その足音も消えた。


 なにが、こっちに走って来てたの?

 そのとき、ふわっと、わたしの後ろ髪がなでられた。


「うわああ!」


 驚いてふり向くけど、うしろにはだれもいない。


「なに、なんなの?」


 学校の、暗い玄関に、わたしの声だけ響く。

 だれかいる。だれかいるんだ。


 でも、わたしには見えない。

 これが、ミキが言ってた「アレ」なの?

 グイ! と急に、わたしのカバンが引っぱられた。


「えっ!」


 でも、そこにはだれもいない。

 見えないなにかが、カバンを引っぱってる!


「やめてよ!」


 大きな声を出すと、力が強くなった。すごい力で玄関の中へ引き寄せられる。


「いやああ!」


 恐ろしくて叫んだ。悲鳴が学校の中にこだまする。

 でも、だれもいない。

 だれも助けにきてくれない。


 ぐいぐい引っぱられる。引きずり込まれる。

 思わず、カバンをはなすと、わたしは、勢いで後ろに倒れ込んだ。


 バリッと音がした。

 見ると、空中で、カバンが、真っ二つに引き裂かれてる。

 中から、教科書やノートがバラバラと落ちる。


「助けて!」


 叫びながら、玄関から外に出た。

 庇の下から、雨の中を走り出る。


 冷たい雨が、顔に当たる。

 服が、買ったばかりのスカートが濡れていく。


 顔の上を流れていくのが、雨なのか涙なのかわからない。

 だけど、足がもつれて、わたしは転んでしまう。

 アスファルトの上の、水たまりに倒れた。


「いたいよお……」


 足をすりむいた。きっと血が出てる。


  ぴしゃ。


 背後から、音がする。


  ぴしゃ。ぴしゃ。


 追ってくる。

 逃げなきゃ。でも、足が痛くて走れない。


  ぴしゃ。ぴしゃ。ぴしゃ。ぴしゃ。


 どんどん近づいてくる。

 痛みにたえて、ようやく起き上がれた。でも……


  ぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃ


 もうだめだ。アレが、わたしのすぐうしろまで来ていた。


「千代子!」


 前から声がした。

 その瞬間、背後の足音が消えた。

 わたしは体をかたくしたまま、じっと動かなかった。


 降りかかる雨が、フッとやんだ。

 見ると、傘が、わたしの頭の上にある。


「なにしてんのよ、びしょ濡れじゃない」


 目の前に、ママがいた。


「ママ……」

「せっかく迎えにきたのに、びしょ濡れね」

「ママぁぁ!」


 わたしは、泣きながらママに抱きついた。


「もう! ママの服も濡れちゃうじゃない」


 そう言いながらも、ママはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。

 涙が止まらなかった。


「ママごめんね。嫌いって言ってごめんね」

「なに言ってんのよ」

「わたし、ママのこと嫌いって言っちゃった。ママ、わたしのこと嫌いになったんだよね」

「なるわけないでしょ。大好きよ」


 そう言ってまた、ギュッと強く抱きしめてくれた。

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、わたしは何度も、ママに謝った。


 次の日、校舎の外に、わたしのカバンと、教科書やノートが、びしょ濡れで落ちていた。

 全部、めちゃくちゃに引き裂かれていた。

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