最後の不思議

 気がつくと時間がたっていた。沈んだ太陽の最後の光が、図書室をほんのすこし照らしている。


 そうだ、わたしは図書室にいるんだ。まるで金縛りがとけたみたいに、体からふっと力がぬけていくのがわかった。


 テーブルに、『泣ける学校の七不思議』という本が置いてある。その横に、わたしが書いた貸し出しカードもあった。


未里みり、大丈夫?」


 ふわっと声が聞こえた。テーブルをはさんで向こうに、真っ白い男の子が座ってる。やさしい顔でわたしを見ている。


 そうだ、『泣ける学校の七不思議』がどんな話なのか、この子から聞いてたんだ。いま6つめの不思議を聞き終えたところだ。


「大丈夫?」男の子がまた聞いた。

「え?」


 言われて気づいた。この子の話を聞いているうちに、わたしの目から、自然と涙があふれていた。


 はずかしい。あわててハンカチでふく。でも、なんだか気持ちがすっきりしてる。いやな気持ちが、穴の空いた袋からすーっとぬけてくような感じ。


 そうだ、わたしは悲しくて図書室にきたんだ。親友の遙香はるかが転校してしまうんだ。それをずっとわたしに黙ってたから、わたしは悲しくて、いつも泣きにくる図書室にきたんだった。


 でも不思議だ。心の中にいっぱいあった悲しい気持ちが、もうない。わたしはすこし笑いながら言った。


「学校の七不思議、6つも聞いちゃったね。わたし泣いちゃった」

「うん」

「でもなんだかすっきりした。ありがとう」


 どうしてだろう、男の子はちょっと悲しそうな顔をした。

 わたしは男の子に、


「本を借りて読むよりも、いま、もうひとつ、最後の話を聞いた方がはやいかもね」

「その必要はないんだ」


 男の子の声が、急に悲しくなる。


「だってあとひとつだし……」

「いや、7つめの不思議はね」


 言いかけて、男の子は口をつぐんだ。色のない、白い唇がきゅっとすぼまった。


「なに? 言ってよ」

「どうしても、聞きたいの?」

 悲しい言い方だ。どうしてそんなふうに聞くの?


「聞きたい」

 わたしは言った。

 男の子ははじめて、青い瞳をわたしからそらした。


「7つめの不思議はね、『不思議を6つ聞いてしまったら』っていう話なんだ」


 え? どういうことだろう?

 どきっとした。


 だって、それってわたしのことじゃない? わたしは6つ聞いちゃったよ。

 男の子が先をつづける。


「6つの不思議を聞いてしまった子は……」

 わたしを見つめる。きれいな、澄んだ青色だった瞳が、いまは深い海のような色になってる。


「本の中に閉じこめられるんだ」


 がしゃん! どこかで門が閉まった音がした。そうだ、もうとっくに帰る時間はすぎてる。もしかして、校門の扉が閉められてしまったのかも。


「えっと、本に閉じこめられるってどういうこと?」

「二度と出られないんだ」

「だから、どういうこと?」


 男の子は顔をゆがませた。

「僕はずっと、この本の中に閉じこめられてる」

 そう言って、テーブルの上の『泣ける学校の七不思議』を指さす。


「そんなこと、あるわけないよ」

「本の中から出る方法がひとつだけあるんだ」

「あのね――」

「ほかの子に、学校の七不思議を6つ聞かせれば、代わりにその子が閉じこめられるんだ」

「え? 代わりの子って……」

「ごめん。きみは学校の七不思議を6つ聞いてしまったんだ。だからきみはもう本の中にいて、登場人物のひとりなんだ」

「うそだ……」


 わたしはあたりを見まわした。もう暗い。でも、いつもの学校の図書室だ。ここが本の中なんて、わたしが登場人物だなんて。


「きみもう出られないんだ。つぎの子に6つの不思議を聞かせるまで」


 男の子は悲しそうに言ったけど、涙は1滴も流れていなかった。まるで体の中に水分が全然ないみたいに。


「ごめん……」

 たった一言そう言って。


 わたしの目からは、たくさん涙が流れはじめる。ぽたぽたと、テーブルの上にしずくが落ちる。


「泣かないで」男の子が言った。「きみの涙を何十回も見た。もう見たくないんだ」

「どういうこと? 何十回って、なに?」

「きみは忘れてるだけなんだ。図書室から出たら、全部忘れる。本のことも、僕のことも。いままできみは、悲しくなったら図書室にきたね」

「うん……」

「そのたびに僕は、きみに七不思議を聞かせた。6つ聞かせて、きみを本の中に閉じこめようとした」


 男の子が指さした。わたしは、テーブルの上の貸し出しカードを見た。わたしの名前がびっしり書いてある。全部わたしが書いたんだ。何回もここにきて。


「だけど……だけどきみはそのたびに、話を聞き終えてから、僕に言うんだ、『ありがとう』って」


 そうだ。さっきわたしはそう言った。


「僕、そんなこと言われたら……」

 声が、悲しいくらい震えてる。

「きみを閉じこめることが、できなくなる」

「あ、あの……」

「帰った方がいい。もう、夜だから」


 図書室の中は真っ暗だ。月の明かりだけが、だれかをさがしだそうとするサーチライトみたいに、わたしたちに向かってさしこんでいる。


「でも……」

 男の子はどうなるんだろう?

 わたしの気持ちをさっしたように、男の子が言う。


「僕はこれからも、本の中にいる」

「じゃあ閉じこめられたまま?」

「うん……」


 男の子がわたしを見る。月の光に照らされて、青い瞳が輝いてる。


「そんなのだめ!」

「もしまた悲しくなったら、泣きたくなったら、図書室にきて。僕、ずっとここにるから」


 男の子は、テーブルの本を指さした。

『泣ける学校の七不思議』


「僕の話を聞いたら、きみの悲しい気持ちが、すこしだけ、おだやかになる」

「でも――!」

「僕はそれだけでいいのかもしれない」


 わたしがいままで聞いた言葉の中で、いちばん悲しい言葉だった。

 男の子がイスから立ちあがった。


「待って!」


 そのとき、廊下から声が聞こえた。

未里みり!」

 遙香はるかの声だ。


「さようなら」


 ふり返ると、男の子はいなかった。見まわすけど、どこにもいない。イスだけがひとつ、さびしそうに月の光に照らされてるだけで。


「未里!」

 声はわたしを呼びつづけてる。わたしは引きもどされるようにふらふらと歩きだす。図書カウンターの前を通ってドアを開けると、ぱあっと明るい光が飛びこんできた。


「未里!」

 廊下に遙香がいた。

「どこいってたの、心配したんだよ! 家に電話しても帰ってないって言うし!」


 遙香がわたしの腕をつかんだ。

 わたしは廊下に出た。


「遙香、ごめん……」

「図書室でなにしてたの? ひとり?」


 ふり返ると、ドアの向こうに暗い図書室が見えた。

 わたし、なにをしてたんだろう?


 なにもおぼえてないけれど、でも、図書室に入る前より、ずっとすっきりして、心がすっかり落ちついてる。


「ありがとう」

 だれに言ったのか、自分でもわからなかった。


「え?」

 遙香が聞きかえしてくる。

 わたしは、遙香の顔をじっと見つめた。


「遙香、ごめんね。転校しても、わたしたちずっと友達だよね」

「うん!」


 ふたりで夜を帰った。

 もう、悲しくなかった。

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