第十三話「のぞみと願い」
窓から差し込む日差しに瞼をくすぐられる。
うっすらと瞼を開け、その瞬間のぞみは飛び起きた。
寝坊した!?
のぞみはすぐさまベッドから立ち上がってテーブルに置いてあるスマートホンで時間を確認する。
時刻は午後の2時。
寝坊どころではない。とんでもない遅刻だ。
昨日の夜にちゃんとアラームをセットしておいたのになんでこんなことに。
そんなことを考えている場合ではないとスマートホンをテーブルに戻して着替えようとしたところ、テーブルにメモがあることに気づいた。
そこには『有給・今日~明後日』と書かれていた。
だんだんと記憶が蘇ってくる。
今日の朝はちゃんとアラームで起きたのだったが、昨日の夜になかなか寝付けなかったことから来る寝不足と頭痛と体のだるさで出勤する気力がなかった。それでもいつもなら図書館に行けば元気が出ると言い聞かせて仕事に向かうのだが、昨日の出来事があったばかりではその力も切れていた。
だから朝のうちに館長に電話して仕事の休みをもらったのだった。
のぞみは午後から出勤すると言ったが館長に止められた。ついでに有給も全然消化していないからこの機会に使うように言われ、館長命令で強引に3日間の休みを作られた。
状況を整理できたのぞみは、とりあえず勘違いの焦りで上がった心拍数を整え、寝起きのコーヒーを飲んだ。時間を見ればしっかり寝たはずなのに、眠りが浅かったのか、また寝起きで焦ったからか、あまり疲れが取れていない。
のぞみはだるい体とモヤモヤした気持ちをスッキリさせるために散歩に出た。
のぞみは散歩が好きだった。
自分の好きな本を集中して読んで、読み終わったあとに散歩するのが好きだった。果たして自分は今、現実世界を歩いているのか、それとも本の中の世界を歩いているのか。そんな風に思考があやふやになる時間が好きだった。
本は鏡。自分を写し出す。
時には感情をかき乱し、自分の嫌な部分を突きつけてくることもある。それでもいつでも自分を教え、導いてくれる。過度に厳しくすることもなく、必要以上に甘やかすことなく。
しかし今日は昨日のことが頭から離れない。
あそこまで人に怒られたのは初めてだった。
のぞみが何よりも本を優先することは、他の人から見たら考えられない事かもしれない。自分が変われば、自分が本を諦めればうまくいく。
もっと本と距離を置くべきだろうか。
のぞみはそんなことを考えていた。
モヤモヤを抱えたまま何も考えずに歩いていると、気づけば駅の近くに来ていた。意識的に南図書館とは違う方向に歩いていたらこんなところまで来ていた。駅前には新しい図書館がある。少し迷ったが、今まで仕事が忙しくて新しい図書館には来たことがなかったし、好奇心には勝てずに中に入った。南図書館の館長はこの図書館の館長も兼務しているので、万が一にも出くわさないように早めに帰るつもりだ。
ここは南図書館と違って白い床に綺麗な壁紙に明るい照明。そして新しい建物の匂いがまだ残っている。それに混じってくる新しい本の匂い。南図書館は古い本を多く取り揃えているのに対して、ここは新しい本も多い。南図書館とは違った心地よい匂いだ。
のぞみは館内をグルっと一周してから図書館を出た。
体のだるさも、モヤモヤした頭も、帰り道ではもうスッキリしていた。
昨日と今日で、のぞみは自分の夢をはっきり自覚した。
のぞみは、家に帰る前に茉理の働く喫茶店に寄った。
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翌日、のぞみはアラームで目を覚ました。
今日は時間通りの落ち着いた起床。だが違ったのは見上げた天井。そして隣のベッドには、今までほとんど見たことのない茉莉の寝顔。
昨日、茉莉の喫茶店に行ってからここまではあっという間だった。
のぞみが茉莉に、昨日の食事会に行けなかったことの謝罪とあの時の出来事、そして瞬への思いを話した。早めに瞬に思いを伝えるべきかどうか迷っていると、茉莉はぐずぐずしても後悔しかないと言って動いてくれた。
瞬の公演予定を調べ、明日の午後から仙台公演が行われることが分かり、チケットは完売だったが当日券を期待して、茉莉の仕事終わりに新幹線に飛び乗った。
今まで瞬のことでのぞみが悩んでいたことを茉莉は知っていた。それにのぞみが本音を話してくれるのを待っていた茉莉は、それを聞けて嬉しくて一気に動いてくれた。
仙台のホテルについた途端に茉莉から強引さを謝られたが、のぞみからしたらここまでしてくれないと自分でまたモヤモヤしてしまうことは分かっていたから逆にありがたかった。
そして今日。
当日券をなんとか一枚だけ確保できたのぞみは、茉莉に申し訳ない気持ちながらも瞬の舞台を見せてもらった。もちろん茉莉もそのつもりだったので快く譲ってくれた。
演目は「スター・シティ-星の都-」。イギリスの小説家メアリー・ダスティンが書いた同名の作品を舞台化したものだ。のぞみもこの本は読んだことがある。中世ヴェネティアが舞台で、身分が高く気の強い女性と、その女性を守る男性の物語。原作では女性目線で描かれているが、この舞台では瞬が演じる男性が主人公になるように改変されている。そして原作にはない恋愛模様も加えられている。
のぞみの座席は後ろの方だったが、瞬の存在感はすごかった。主演ということもあるが、全てが瞬中心に回っていた。原作はハッピーエンドだったが、この舞台では少し悲しい終わり方をする。そしてそこが一番の見せ場として、舞台役者・小笠原瞬が最高に魅せる演出となっていた。
学生以降、瞬の演技を見ることはなかったが、当時にも増して瞬の演技は素晴らしかった。瞬に対して個人的な感情があるのぞみは、この舞台を素直な気持ちで見られるかどうか不安だったが、それを忘れさせるほどの熱のこもった舞台を見せられた。このような舞台を、そして世界的な舞台役者になった瞬を間近で見られることは本当に幸福なことなのだと思った。
ラストシーンを終え、カーテンコールを拍手で迎えられて瞬が再び舞台に戻ってきた。観客全員に手を振る。客席全体を見渡して、そして後方の席に座っていたのぞみと目が合った。距離はかなり離れていたけど、確かにそう思った。カーテンコールとは言えあくまでまだ舞台役者の小笠原瞬である以上、動揺したり表情を崩したりすることはなかったが、なんとなく瞬ものぞみのことを認識したことが分かった。
カーテンコールが終わる前に望みは劇場を出た。
舞台は終わったが、のぞみにとってはこれからが本番だ。
瞬に会うためにのぞみはスタッフルームにつながる劇場横の通路に行く。すると既に何人かそこに集まっていた。みんな関係者だろう。警備員の許可の順に通されていく。しかしのぞみは関係者ではない。ただの一ファンが通してはもらえないだろう。
のぞみが悩んでいると、瞬が通路まで出てきてくれた。通路にいたファンに歓声に応えながら、瞬は警備員に何かを告げている。そして瞬が再び奥に戻っていくのと同時に、警備員がのぞみの元に来て通してくれた。
のぞみは安心しつつも緊張しながら劇場奥へと進んでいった。
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