第十二話「のぞみと本」

のぞみは、今まで考え続けていたが、言葉には出さなかったことがある。言葉に出してしまえばその思いが本当になってもう終わってしまう気がしたからだ。


「私は、本が好きだから……」

「……は?」


そののぞみの言葉を真奈美はすぐには理解できず、肩を掴んでいた手からも力が抜けた。その後ろにいた健太も呆気にとられていた。

「私は本が好きだから、本が読めなくなる生活はできない。だからアメリカには行けないと思った。瞬くんが嫌いって訳じゃない。でもこんな理由で納得してもらえるか分からなくて」

のぞみも瞬と一緒に行けない他の理由を考えた。逆に一緒に行きたい理由も考えた。しかし最終的にこの思いにぶつかってしまう。

自分でもすごい理由だと思う。理解できない人の方が多いだろう。

だから今まで気づかないように、この思いが本物にならないようにずっと塞いで誰にも言わなかった。

でもついに言ってしまった。これでもう瞬にも自分にも言い訳できない。


そんなのぞみの決意を聞かされた真奈美は、そっとのぞみの肩から手を離した。それまで真奈美の顔を見て話せなかったのぞみも顔を上げる。


パンッ!!


一瞬、何が起きたか分からなかったが、頬の痛みと真奈美の振り抜かれた腕を見て、自分が叩かれたと分かった。呆気に取られていた健太もその音で我に返り、手遅れながら真奈美を抑える。

「馬鹿にしてるの!?そんな些細な下らない理由で小笠原先輩を断ったわけ?」

真奈美は怒っていた。真奈美なりにいろいろ理由を想像したであろうが、そのどれにも当てはまらないものだった。それだけ、のぞみの理由は真奈美にとっては小さく馬鹿馬鹿しいものだった。

「本なんてそこら中にあるじゃない。いくら英語ができなくても、アメリカに行ったって日本語の本ぐらいあるでしょ。今では電子書籍だってあるし、どこにいたって本は読めるわよ。そんなことも考えなかったわけ?それで今日まではっきりさせなかったの?」

真奈美がまくし立てる。

まるでのぞみがアメリカに行ける理由を並べているようだが、真奈美の気持ちはその逆。こんな小学生でも分かるようなことで悩んでたのぞみに呆れ果てていた。

「そんな馬鹿みたいな理由で小笠原先輩の気持ちが私に向かなかったと思うと、本当にムカつくわ」

大声で言い終わって少し冷静さを取り戻した真奈美は、自分の腕を抑えていた健太を振りほどいて、服を整えた。

「今の事は私から小笠原先輩に言っておいてあげます。だからもう二度と小笠原先輩の前に現れないでくださいね」

そう言って真奈美は帰っていき、健太もそれについて行った。

残されたのぞみは、その場で叩かれた頬に手を当てながら座り込んだ。


『些細な下らない理由』。

きっと瞬にもそう思われると思い、だからのぞみははっきり言えなかった。

しかし本が読めなくなるというのは、のぞみにとっては些細で下らない理由ではない。それは自分を形成する上でとても大事なことだった。


先ほど真奈美から言われたことは、とうの昔にのぞみも熟考したことだ。

アメリカにも日本語の本はある。電子書籍でも読める。日本から取り寄せれば。

そんなことを考えた。でもきっとそれだけではのぞみは満足できないことも分かった。


のぞみはまるで食事をするかのように本が読みたい。息を吸うように物語に落ちていきたい。そんな願いを持っている。

のぞみは日本語の表現が好きで、わびさびが好きで、日本語の形が好きだった。そして本という媒体が好きだった。本ごとに違う重さがあり、ページを指でめくる感触と音に触れ、読み進めていく中で手の中で左右の重さが変わっていくのが好きだった。


それらができなくなる道を選ぶことは、のぞみにとっては些細なことではなく、心の一部をそぎ落とすようなことだった。

しかしこの感情が万人に理解できる感情ではないことも薄々分かっている。きっと異常なのは自分の方だと感じていた。大人はもっと上手に折り合いをつけるものだ。

だから遥かに大人で夢を追いかける瞬には、こんな子供じみたわがままを言えなかった。

こんなことなら、本なんか好きになるんじゃなかったと思ったし、瞬とも出会わなければと思った。


ジャリ……。


人の足音が聞こえてのぞみは顔を上げる。

するとそこには大祐が立っていた。

「大祐くん!?」

びっくりしたのぞみは慌てて立ち上がる。しかし顔を叩かれたせいもあってか、少しふらついてしまった。

「大丈夫ですか?」

そう言って大祐はふらついたのぞみの腕を取って支えた。

「うん、大丈夫大丈夫」

そうは言うが、のぞみは顔を上げられなかったし、足も震えていた。

大祐もそんなのぞみをずっと支え続ける。

「……大祐くん、戻ってきたんだ」

「はい。借りた本を忘れちゃったんで」

大祐は本を忘れたことを店に行く途中で思い出した。暗い道を歩いていたのでとりあえず佳を店まで一緒に行ってから図書館に戻ってきた。これならのぞみを暗い道を一人で来させなくて済むので一石二鳥だと思った。

「……そっか」

「はい……」


大祐が図書館に着いた時には当然正面入口は閉まっている。だから大祐は駐輪場に向かった。駐輪場にのぞみの自転車もうなければどこかですれ違ってしまったということだし、自転車があれば待てばいい。

しかしその駐輪場では誰かが言い争っている。のぞみのことはすぐに分かったが、相手が誰なのかは暗がりですぐには分からなかった。しかしシルエットや最近見た男女のカップル、そしてのぞみをよく思っていない相手として、それがすぐに真奈美と健太であることを大祐は察知した。

大学の直接の先輩後輩のやり取り、そしてそれが男女関係の話となれば、部外者の大祐がすぐに入り込める状況ではなかった。

のぞみが叩かれた時には出ていこうかと思ったが、そのあとの真奈美の剣幕に驚いたのと、やはりのぞみの言ったことが心にかかって出ていけなかった。


「はい、これ」

のぞみは、さっき叩かれた時に落とした大祐の本を拾い、大祐に渡した。

「私、今日はもう帰るね。服も汚れちゃったし」

それにきっと頬も赤くなってるし、この状況でみんなにどんな顔をすればいいか分からない。

「あ……」

大祐がかける言葉に迷ってるうちにのぞみが自転車の鍵を開けて駐輪場から出した。

「ごめんね……」

のぞみは、なぜ大祐に謝ったのか分からないまま自転車を押して帰った。

大祐もまた、なにも言えずにのぞみを見送った。

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