第十一話「のぞみと真奈美」

「はい、ありがとうございます」

そう言ってのぞみは一礼して席に着いた。

閉館が決まってから二週間。今も閉館について聞いてくる人がいる。尋ねてくるのはやはり常連の人たちばかり。だからついつい丁寧に対応してしまう。中には一度説明した人も、改めて声をかけてくれる。みんな南図書館の閉館を残念がってくれるし、中にはのぞみと会えなくなるのを寂しがってくれる人もいる。常連客は年配の人が多いから、のぞみを娘や孫のように思ってくれているのかもしれない。

本当にありがたい職場だったと実感しながら、のぞみは再びパソコンに向かい合って最後の大仕事に向けて準備を進める。


これは今日の朝に所長に許可をもらった。最後に読み聞かせ会を行ないたいというものだ。本来なら二ヶ月に一度の頻度で開催していたので今月は行わない月だ。でも最後だし、先月開催した時も次回の開催を楽しみにしている声もあったから、このままやらずに終わるのは嫌だった。所長もすんなり許可してくれたので、今は読み聞かせる本の選考を行っている。すでに漠然と考えてはいたが、最後となるとそれなりのものを選びたい。しかし案内も作らなければいけないので、早めに決めなくてはならなかった。

この読み聞かせ会の準備に加えて、通常業務に閉館に関する説明など、やることはとても多い。しかしのぞみにとっては忙しい方がよかった。例のことを考え込まずに済む。


それに佳や大祐の存在も大きかった。いつもの賑やかな感じは、悶々とした感情を吹き飛ばしてくれる。


「やっぱのぞみさんと離れるのヤダなー。のぞみさん、私が大学卒業したら一緒に働きましょうよ」

「佳ちゃん、卒業したら何するの?」

「化粧品会社に行って商品の開発をするつもりです」

「いや、そんなの私には無理だよ……」


閉館の話を佳にして以来、佳はずっとこの調子だ。

かなり仲のいい方だとは思っていたが、ここまで好いていてくれてたとは思わなかった。でもさすがに大手企業にまで一緒に行くことはできない。

「じゃあ今日の仕事帰りにご飯一緒に食べましょうよ。それで我慢します」

大手企業に比べていきなりスケールがダウンして本当に好いてくれているのか不安になったが、そんなことなら大歓迎だと快諾した。

「北橋も来る?あんたももうすぐのぞみさんと会えなくなるよ」

「お、俺は別に……」

急に、しかもすごい話題を振られたので大祐も慌てた。しかしそれ以上にのぞみも慌てていた。

「じゃあ来ない?」

「行きますけど……」

「……もう、佳ちゃん」

のぞみが隣に座っている佳の方を軽く叩く。

「じゃあ茉理さんも誘いましょう。茉理さんはナントの閉館はもう知ってるんですか?」

「う、うん。もう話してあるよ」

「じゃあ慰労会ということで。茉理さん奢ってくれないかなぁ」

もしかしてそれが本音なんじゃないかと思えるような軽いノリで食事会が決まった。しかし佳も茉理とずいぶん仲良くなったとは言え、のぞみ抜きではなかなか茉理と会う理由が作れないのかもしれない。佳としては仲のいい先輩二人と会えなくなってしまうのを寂しく感じているのだろう。


そんな構って欲しい子供のような佳を一通り相手にしたあと、のぞみは再び読み聞かせ会の準備に思考を向けた。

「そういえば閉館の前に最後の読み聞かせ会をするんだけど、大祐くんは何がいいと思う?」

「え?僕ですか?」

「うん。経験者として」

ちょうどういい相談相手として、大祐が帰る前に聞いておきたかった。結局ご飯も一緒に行くことになったので急ぐ必要もなくなったが。

「うーん。……『二人を繋げる橋』とかはどうですか?あ、でも主人公が両方とも女子学生だからお爺ちゃんのお客さんにはピンと来ないかな?」

「ああ、あのレースが題材の小説?大祐くんも読んだんだ」

「レース?ああ、刺繍のレースね。はい、中学の時の読書感想文を書くときに」

「うーん……」

大祐の提案にのぞみは頭を悩ませた。確かにあの小説は名作だし、古くからのベストセラーだから年配の方でも読んだ人がいるかも知れない。その点親しみやすくていいとは思うのだが、大祐が言うように主人公は女の子だし、それに長編小説だから長いのだ。どこか一部を抜き取るのも難しい。

でも。

「ありがとう。いいヒントをもらったわ」

『二人を繋げる橋』の作者である越野安規子は人間関係の絆を書くのが上手い作家だ。最後の本を越野安規子の本から選ぶのは悪くないだろう。短編集も数冊出している。読み聞かせにふさわしい話ものぞみの頭の中に浮かんでいる。後で内容を確認して、その中からいいものを選べばいい。

「よし。じゃあ終業作業をやっちゃおう」

読み聞かせ会の大きなハードルである本選びもだいぶ固まったので、のぞみはすっきりした感じで遅れていた終業業務を進めていった。


「じゃあ最後の点検をして鍵を閉めて行くから、佳ちゃんは大祐くんと先にお店に行ってて」

最後の客となった大祐を図書館の正面入口で見送るついでに夕飯のことを話し合った。茉理には佳がすでに確認を取っており、店で合流ということになっている。

今の時間は夜八時。できれば早めに行って席を確保しておきたい。

「え?私も残りますよ。仕事なんだし。お店には北橋一人で行かせれば」

「俺なら大丈夫ですよ。駅前の店ですよね?」

子供のお使いじゃないんだし、というような佳の口調に対して、大祐も全く気にせずに席取りの役を申し出た。

「でも茉理さんも来るんでしょ?そこに初対面の大祐くん一人じゃかわいそうじゃない」

そののぞみの提案に、二人は「あー……」というような表情で顔を見合った。

「実は……」


のぞみには、二人で喫茶店に行っていたことは内緒にしていた。真奈美の件もあり話せずにいた。でもこのあと茉理と合流したら、少なくとも茉理と大祐が初対面ではないことはバレてしまう。


「二人で行ったの?」

「はい。すみません」

「別に謝ることじゃないけど、でもお店で詳しく聞かせてもらうわ。どちらにしても私は自転車だから、佳ちゃんと大祐くんで先に行ってていいわよ」

「そうですか?じゃあ……」

そう言って佳は更衣室から自分の荷物を持ち、大祐と共に店に向かった。


のぞみは正面入口の鍵を閉めブラインドを下ろし、そのあと座席やテーブルに忘れ物がないかのチェックと窓の鍵締めの確認を行った。返却本の処理がまだ数冊残っていたが、それは明日の朝一で行えばいい。幸い明日の朝番ものぞみだからだ。

だがその隣に見覚えのある本が二冊置いてあった。これは大祐が今日借りるために選んだ本だった。話に気を取られて忘れてしまったのだろう。のぞみはお店で渡そうとその本を小脇に抱え、エアコンのスイッチが切れてることを確認して図書館の電気を消した。

事務所内の片付けはすでに終わらせてあるので、更衣室でエプロンと社員証をロッカーにしまい、裏口から出て鍵を閉めた。そして自転車が止めてある駐輪場へ行く。


と、そこに声をかけてくる人物がいた。

「こんばんわ。豊崎先輩」

突然のことで、のぞみは声が出ないぐらい驚いた。閉館時間もだいぶ過ぎてもう誰もいないと思ってたからだ。それに駐車場の大きなライトも消してしまっているから全体的に暗い。そして声の主は駐輪場の微かなライトの向こうから声をかけてきたから誰なのかすぐには分からなかった。

「お仕事お疲れ様です」

そう言って近づいてきた相手は、のぞみのよく知る人物だった。

「小山さん……」

そこに立っていたのは小山真奈美だった。後ろにはいつものように川里健太もいる。

「仕事終わりにすみません。どうしても聞きたいことがあったんで。すぐ終わります」

真奈美は優しい笑顔を作ってそう言った。ただその笑顔には、“私が納得する返事が聞ければ”というような感情がこもっている雰囲気がした。


「何で小笠原先輩の気持ちに返事しないんですか?」

真奈美は回り道もせず単刀直入に聞いてきた。

のぞみだって、真奈美がこんな形で会いに来たのだからその話であろうことは予想がついていた。しかし真奈美が先日の瞬とのぞみの出来事を知っていることには驚いた。

「……なんで小山さんが知ってるの」

「質問してるのは私ですけど、でも答えてあげますよ。もちろん小笠原先輩から聞いたんです。実は私、小笠原先輩の公演について行ってるんですけど、先輩がずっと元気ないので。もちろん公演は完璧ですよ。小笠原先輩は日本を代表する舞台俳優ですから」

たしかに瞬から直接聞かない限りはその情報は知りえないだろう。しかし瞬がそのことをわざわざ真奈美に話すだろうか。

「……お察しの通り、私にはなにも話してくれませんでしたよ。だから健太を通して聞いたんです。それでも聞き出すまでに時間はかかりましたけどね」

そんなことをしたのかとのぞみは驚く。視線を健太に向けると、真奈美の後ろで少し頭を下げた。きっと健太も真奈美に言われて仕方なく聞き出したのだろう。

「それでどうなんですか?なんで返事しないんですか?」

真奈美は話を戻す。今度は表情にも口調にも不機嫌さを隠さない。のぞみもそんな真奈美と視線を合わせる。

「あ、勘違いしないでくださいね。私は豊崎先輩を後押ししてるわけじゃないんですよ。豊崎先輩と小笠原先輩がうまくいけばいいなんてこれっぽっちも思っていませんから。この前も言ったように、もう豊崎先輩は関係ないんですからね。だったらなんで小笠原先輩の気持ちを断らないのか、理解に苦しむんですよ」

「それは……」

「もちろん私だって分はわきまえます。この問題が本人たちの問題だということも分かってます。でも豊崎先輩がはっきりしないせいで小笠原先輩の芝居に影響が出ては困るんですよ。小笠原先輩は今回の日本公演をきっかけにもっと大きな俳優になっていくんです。今回は小笠原先輩が日本の客のために帰ってきましたけど、いずれは小笠原先輩の舞台を見るために客の方からアメリカに行くような、そんな大きな俳優になっていくんです。それを豊崎先輩のせいで失敗して欲しくないんです」

この言い分は本当に分をわきまえているのだろうか。それに真奈美は瞬のマネージャーでも関係者でもない。今言ったことだって単に真奈美の願いだということもありえる。

「だから早く断って、小笠原先輩を芝居に集中させて欲しいんですよ」

しかし真奈美も俳優の端くれ。どんな身勝手な内容でも言い方ひとつで説得力を増してくるし、最後にこうはっきりと言われてしまうと細かなところを言えなくなる。

「私は……」

断りたいという気持ちはのぞみにはない。ただ受け入れられないという思いはある。

「まさか小笠原先輩のことを好きなんて言うんじゃないでしょうね?」

真奈美がのぞみに詰め寄ってくる。

「いい加減にしてください!だからそんなこと言う権利ないって言ってるでしょ!豊崎先輩は小笠原先輩の気持ちを一回断ってるんですよ。今回で二回目。今さら何が言いたいんですか?むかつくんですよ。私の方が小笠原先輩を好きなのに、小笠原先輩はあなたばっかり。そしてあなたは小笠原先輩の優しさに付け込んで、小笠原先輩の気持ちを弄んで。私に対する嫌味ですか?自分は愛されてるって自慢したいんですか?」

真奈美は健太と付き合ってるのではないだろうか?まさか瞬が真奈美の方を向いてくれないので健太と一緒にいるだけなのか。

しかしそんなことを言える空気ではない。

「そんなつもりじゃ」

のぞみはそう言うだけで精一杯。しかしその様子がさらに真奈美を苛立たせた。

「じゃあはっきり言えって言ってるのよ!小笠原先輩の思いを踏みにじってる理由をはっきり言いなさいよ!」

真奈美がのぞみの肩を掴んで大声で言う。真奈美の片方の腕は健太が抑えているのでそれ以上にはならなかったが、そのまま壁に押し付けられそうな勢いだった。


「私は……本が好きだから……」

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