第十話「のぞみと運命の歯車」

運命の歯車は突然回り始めた。


もし自分が今の状況を小説にするとしたらこんな表現を使うのではないだろうかと思った。使い古された文章ではあるが、今の自分にはピッタリだ。

のぞみは目の前の状況を見ながらこんなことを考えていた。


今日、いつもは開館してから顔を出す館長が珍しく早く来た。そして早番のシフトを確認する。今日はのぞみとベテランの白井だ。

「白井さんが来たら声をかけてくれ」と言って館長は事務所に行く。

のぞみは本の返却手続きを行いながら、館長の用事はなんだろうと考えていた。館長は駅前の図書館の責任者でもあるから、向こうでなにかトラブルがあって、それの注意喚起でもしに来たのだろうか。それとも白井さん個人に関することか。もしかしたら夏の臨時ボーナス?

それはないかと考えながら、いつも通りの時間に来た白井を出迎えた。


「館長。白井さんがこられました」

のぞみは白井と一緒に事務所に入る。館長は一枚の紙を見ながらコーヒーを飲んでいた。

「そうか」

そう言って館長が立ち上がる。

いつもの雰囲気と違う館長を不思議に思いながらも、のぞみはこのあと重大な決定を聞くことになる準備などなにもしていなかった。

「非常に残念なことになると思うが、この南図書館は閉館することになった」

館長は持っていた紙を見ながら言った。

しかしのぞみは館長の言葉をすぐには理解できなかった。

閉館とは夜二十時の閉館時間のことを言っているのか。

もちろんその閉館ではない。そんなことを改まっていうはずがない。しかもこんなかしこまって。

「最近の地震の多さを上の方が前から気にしててな。耐震設備を強化するかどうかを検討していたんだが、やはり新しい図書館がある以上、ここにそんなに費用はかけられないということになった。耐震設備を強化しないまま客を入れるのも危ないということなので閉館することになった」

のぞみは館長の話をすぐには受け入れられなかった。子供の頃から好きだったこの場所がなくなってしまう。

単に費用を削減したいのならいくらでも協力する。なんなら自分の給料はいらないとまで言える。しかし耐震設備に関しては、のぞみは何もできない。ただでさえ古い建物に、倒れると危険な大きな本棚、落ちてくると危ない分厚くて重い本。そして集まってくるのは年配の人。耐震設備を強化することは絶対に必要だ。それに多額の費用がかかるのも分かる。それに耐震設備を強化しても、他に修繕しなければならない箇所もこれからどんどん出てくる。


そして新しい図書館の存在。

南図書館に多額の費用をかけるより、その分を新しい図書館に回したいという考えだ。それも当然。図書館だってボランティアで行っている訳ではない。市民の税金が使われているのだ。そのお金は慎重に用いなくては。

「今まで南図書館に貢献してくれた二人には悪いが、一ヶ月後にはここは閉館になる。もちろん失業保険も、条件が合えば出せると思う。これから調べるつもりだ。でも次の仕事先は保証できるかどうかは分からない。新しい図書館も今は人手が十分な状態だから」


のぞみはこの先がいきなり真っ白になった。

白井は年齢的に体力の衰えを感じてそろそろ辞めたいと言っていた。きっと仕事がなくなることへの落胆は少ないだろう。そうなれば菜々子も来なくて良くなる。佳は来年大学卒業だから、ここの仕事がなくなることにそんなに支障はないはず。辞めるのが少し早くなったぐらいだ。他のパートの人たちもそんなに困らないだろう。

しかしのぞみにとっては違う。南図書館はのぞみの生活の全てだった。自分の家にいるよりここにいる時間の方が長かったし、それが幸せだった。南図書館が自分の居場所だった。

自分はこれからどうすればいいのか。


そんな事があった矢先のことだった。

のぞみの運命の歯車が回り始めたのは。


「やぁ、久しぶり」

夕方ごろ、ちょうどのぞみが夕方からのシフトに入ったころ、非常に懐かしい、そしてできれば会いたくなかった人が図書館に現れた。

「……瞬くん」

のぞみが瞬の帰国を知ったのは数週前。それからも瞬がのぞみの元を訪ねてくる気配はなかった。だから会う気がないものだと思っていた。それが今になって来るとは思わなかった。

「久しぶりだね」

のぞみはそう返すのがやっとだった。

瞬は大学生の頃とはだいぶ雰囲気が変わっていた。オシャレになった。昔の瞬は演劇に情熱を傾けるあまり、普段の格好にはあまり気を使っていなかった。それが今ではいい服を着ている。世界に注目されている舞台俳優になったからなのかもしれない。スタイルもいいのでモデルのようだ。

それに顔つきも変わった。のぞみの知ってる瞬は、夢を追いかける少年のような顔だった。それが今では男らしく、凛々しくなった。自分の夢を実現させた自信がそうさせているのかもしれない。

「ごめんな、職場に押しかけて」

でもこんな気遣いは昔と変わらない。

「本当は会うのは迷惑をかけるって分かってたんだけど、表の張り紙を見てついね」

表の張り紙とは、この図書館が閉館になるという知らせだ。

「うん」

「のぞみは本が大好きだったからここの仕事も好きだったと思うけど、残念だな」

「うん。……そうだね」

当たり障りのない会話をするが、きっとこんな会話をするために瞬が立ち寄ったのではないことは分かる。

「今日の仕事は何時まで?そのあと時間あるかな」

「……仕事は8時まで。そのあとは何もないけど」

「じゃあよければ一緒に食事でもしないか?」

のぞみに断る理由はない。でも少しの気まずさはあった。

「少しでいいんだ。明日から地方公演で全国を回るから、きっと今日以外はもう話せないから」

のぞみの迷いを瞬はすぐに察した。人をよく見ているところも昔と変わらない。

「……うんん、大丈夫。茉理さんの店でどう?」

「ありがとう。じゃあ8時にそこで待ってる」

そう言って瞬は出て行った。


「あの人が小笠原先輩ですか」

タイミングを伺っていたように佳が顔を出してきた。

「佳ちゃん。瞬くんのこと知ってるの?」

「あ、えっと。茉理さんに聞いたんです。私の先輩に世界的な役者がいるって」

そしてその店で真奈美と揉めた。しかしそのことは口が裂けても言えない。瞬とのぞみが恋仲かどうかということも。

「そうなんだ」

のぞみは佳の不自然な返答に気づかないほど頭では別のことを考えていた。


茉理のお店というのも、少しのぞみにとって気が休まる部分があったかもしれない。

のぞみは仕事を終えたあとに茉理の店に行った。その日は珍しく茉理は閉店までの勤務だった。のぞみは昼間にこの店に来た時にそのことを知っていたのでこの店を指定したのだ。

茉理がのぞみに席を案内する間にボソっと呟いた。

「大丈夫?」

茉理は大学時代にのぞみが瞬の誘いを断った理由を知っている。そしてそのことでのぞみが自分を責めていたことも。そんなのぞみがまた瞬と会うことを茉理は心配していた。

心配性の茉理に少し苦笑しながら「大丈夫ですよ」と一言だけを言ってのぞみは瞬が待つテーブルの席に座った。

「疲れているところありがとう。なに食べる?」

「じゃあ、トマトリゾットで」

のぞみの答えを聞いて、瞬はトマトリゾットと一緒に自分のオムライスを頼んだ。


「大学卒業後はずっと南図書館で働いてるの?」

「うん、そうだよ」

「そっか。大学時代から本が好きだったもんね」

「うん」

「駅前に新しい図書館ができてたのは知ってたから、南図書館はもう終わったんだと思ってたよ」

「年配の方とか、馴染み深い方とかはずっと利用してくれてたからね」

「そうか。でもなんで終わっちゃうの?」

「耐震設備の強化が必要なんだけどお金がかかるから」

「なるほどね。でも本好きののぞみにとって図書館の仕事なんて天職だったのに、残念だね」

「そうだね」



「瞬くんは順調みたいだね。アメリカまで行って夢を叶えるなんてすごいよ」

「ラッキーな部分が大きいけどね。いい人に出会えたり、いいタイミングでオーディションがあったり」

「向こうの劇は全部英語?」

「もちろんそうだよ。日本人向けの劇も小さい会場でやったりすることもあるけど」

「英語で劇をするなんてすごいね」

「そのために授業も英語だけは頑張ったからね。まぁ向こうに行ってから覚えたものが多いけど」

「そうなんだ」



「ここの店を指定したってことは、神下とは今でも仲いいのか?」

「うん。この店は図書館からも近いし、よく来てるよ。食事も美味しいし」

「そっか」

「向こうにも美味しいレストランある?」

「まぁあるけど日本ほど美味しくはないかな。好みの問題だと思うけど」



「向こうでも映画見てる?」

「ああ、見てるよ」

「本国だと日本より早く見れるの?」

「どうだろうな。日本の公開日までは調べてないから分からないけど、今は日米同時公開も増えてるんじゃないか?」


のぞみはトマトリゾットを食べながら久しぶりの瞬との会話を楽しんだ。ここに来るまでは少し緊張してたけど、話し始めてしまえば昔の感覚が蘇ってくる。瞬もだいぶリラックスしてきてる。


「今回は凱旋公演だってね」

「そんな風に大々的に宣伝されると恥ずかしいけど」

「東京公演はもう終わったの?」

「ああ。3日間だけだったけどね」

「これから地方も行くんだ。どれぐらい?」

「大阪、福岡、あと仙台と北海道」

「すごいね。本当に全国だ」


昔はこうやってお互い好きな本や演劇の話をよくしてた。あの頃は本当に幸せだった。


「そういえば東京公演の時に、小山がいきなり楽屋に来てビックリしたよ。覚えてるか?大学時代に同じ劇団だった小山真奈美」

覚えてるの何も、先日会ったばかりだ。

「うん。覚えてるよ」

「俺の全国公演の手伝いをしたいとかいきなり言い出してさ。お金はいらないとか言うんだけど、こっちだってもう人は雇ってるし、いきなり来られても困るっていって帰したんだよ。相変わらず小山の勢いはすごいな」

「そんなことがあったんだ」

もしかしたら先日図書館で会った時にのぞみに突っかかって来たのは、このことでイライラしていたのかもしれない。

「でもあいつもまだ小さい劇団で演劇やってるって言ってたよ。あいつも頑張ってるんだな」

それはのぞみも知らなかった。もしかしたら瞬を追いかけるためなのかもしれない。真奈美の執念はかなり深いことを感じる。


「のぞみはどうするんだ?図書館が閉館したあとは」

食後のコーヒーを飲みながら、瞬が世間話のように自然に聞いてきた。これも演技なのだろうか。

でものぞみも、これが今日の本題であることは分かっていた。

「……まだ決めてない。閉館の話も最近決まったことだから」

「そうなのか」

「うん。でもまだ一ヶ月あるし、その間に考えるつもり。失業保険も出ると思うし。しばらくはそれで生活して、一日中本を読む暮らし、なんていうのもいいかもしれないね」

のぞみは笑いながらそんな事を言う。

「前にも言ったけど……」

そんなのぞみの目をまっすぐに見て瞬が言った。

「俺と一緒にアメリカに来ないか?俺はのぞみと一緒にいたいんだ」

きっと瞬はこれを言うために、今日のぞみに会いに来たんだ。

これは間違いなく愛の告白。


大学時代。一緒にいても正式に告白されて恋人同士な関係になることはなかった。

前にアメリカに一緒に来て欲しいと言った時にのぞみからいい返事をもらえなかったのは、この中途半端な関係が原因だったと瞬は思っていた。だから今回ははっきりさせたかったのだ。

のぞみは初めて瞬に告白された。人生でも告白を受けるのは初めてのことだ。


「……」

こうなることは薄々気づいていた。そしてそうなった場合の返事もある程度考えていた。しかし実際にこの場面に直面すると何も答えられない。


瞬のことは嫌いではない。きっとのぞみが瞬に対して抱いている感情は好きというものだろう。それに一ヶ月後には図書館の仕事もなくなり、のぞみをこの場所に留めるものはなくなる。きっと瞬もそのことを知って、諦めていた心が再熱したのだろう。いや、ずっと瞬の中で思いがあったものののぞみの思いも考えて抑えていたものが、これをきっかけに放たれたのかもしれない。


それでものぞみはアメリカには行けない。


答えあぐねているのぞみを見て、瞬は一息ついた。

「急にこんな話をしてごめん。明日から全国を回るけど、あと一ヶ月は日本にいるから、もし答えが出たら教えてくれ。また日本を離れる前にこの店にも寄るから」

のぞみは自分のグズグズした性格が恥ずかしかった。でもそれも瞬は理解していた。


のぞみが瞬の気持ちに応えられない理由はのぞみの中ではっきりしている。でもそれを瞬に伝えるには勇気がいる。それを理解してもらえるという自信がないからだ。


のぞみは瞬の言葉にただ頷くしかできなかった。

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