第九話「喫茶店にて」
武藤佳と北橋大祐は神下茉理の喫茶店に向かっていた。時間は午後七時。
「なんで先輩も付いてくるんですか。俺一人で大丈夫ですよ」
「私が紹介したんだから、私もついていかないと」
「どんな論理ですか。ただコーヒーを飲みに行くだけですよ」
「本当にそれだけ?」
「そ、それだけですよ」
言い合いをしながらも、お互い本心は隠したまま喫茶店に入った。
「いらっしゃい。あれ?珍しい組み合わせだね」
佳と大祐が店内に入ってくると茉理がカウンター越しに出迎えてくれた。
「あれ?茉理さん、まだ仕事中だったんですか?」
いないと思っていた茉理がいて佳はびっくりしていた。たしかに茉理は昼間の勤務の方が多い。
「ああ、残業だよ」
「そうだんですか。あ、カウンターいいですか?」
「いいよ」
佳が大祐に付いて喫茶店に来たのは茉理が目的だった。
今までのぞみの知り合いとして茉理と会っていたが、個人的にもっと茉理と仲良くなりたいと思っていたのだ。
今回は茉理との話のきっかけ作りのためだけにこの喫茶店に来るつもりだったが、図らずも茉理に会えて佳は嬉しくなっていた。
それで、茉理とよく話せるカウンターに座ることにする。
入口正面のカウンター席にはすでに先客がいたため、端の方に向かった。
「こんばんは」
佳に続き、大輔も茉理に一礼してカウンターに座る。
「君が北橋大祐くんかい?」
「あ、はい。はじめまして……」
大祐は初めて会う人に名前が知られていてびっくりした。
「君の話はいろいろ聞いてるよ。この佳とかからね」
「ほらね?私がついて来ておいて良かったでしょ?」
佳が得意げに言う。しかし大祐にとっては面白くない。
「別に良くないですよ。っていうかなんで俺の話なんかしてるんですか」
「別にいいでしょ。話のタネよ」
「話のネタにされるのは嫌ですよ」
「私だけじゃないって。のぞみさんとかだよ」
責任転嫁をするように佳はのぞみの名前を出したが、その名前を出されたことによって大祐は追求をやめる。
「はいはい、注文は?」
その二人を仲裁するように茉理はメニューを二人の真ん中に置いた。
「今の時間ならお酒も出せるよ。北橋くんはもうお酒を飲める年かな?」
「あ、はい。飲めます。……ここって喫茶店じゃないんですか?」
前情報と違う状況に大祐は少し驚く。
「昼間は喫茶店だよ。午後の六時からはバーとしてお酒も出してるの。バーって言えるほど立派なものじゃないけど」
たしかにカウンターの壁際にはお酒が多く並んでいる。
「カクテルとかも作れるんですか?」
「いや、無理。元々は喫茶店で、夜にもお客さんに来てもらうためにお酒を置くようになっただけだから。だからカクテルなんかは作れないよ。できるとしたらストレートとロックぐらい」
大祐は、そんなのだれでもできるんじゃ、と言いかけてやめた。初対面の店員に失礼だと思ったからだ。
しかし茉理の顔を見ると確信犯的な表情をしていた。もしかしたらここではあえて言うのが正解だったのかもしれない。
「まぁロックも突き詰めれば難しいらしいんだけどね」
そのやりとりの間、佳はメニューを見て「とりあえず生の中ジョッキください」と言った。
了解、と言って茉理が大祐の方を向く。
「俺はコーヒーで」
「おや、いいのかい?コーヒーで」
「はい。元々その予定だったので」
「なるほど」
そう言って茉理はカウンターに背を向けてコーヒーの準備を始めた。
コーヒーの方が時間がかかるからだ。それに佳なら待たせていてもいいと思っている。
「でも残業なんて珍しいですね。だれか休んだんですか?」
「いや、本来は時間通り六時に上がる予定だったんだ。休んだといえばあいつらかな」
コーヒーの準備を終えてビールを佳の元に運んだ茉理は、カウンターの逆端に座っている二人を親指で指した。
そこには酔って頭を垂れている女性と、その隣でゆっくりお酒を飲んでいる男性がいた。
「あの人たち?」
「ああ、あいつら私の後輩なんだ。酒を飲み始めたら悪い酔い方してさ。めんどくさい後輩を置いて帰るわけにいかないから、残業して面倒見てるわけ。こっちの都合だから残業代でないし、勘弁して欲しいよ」
「へー、そうなんですか。茉理さんの後輩ってことは私の先輩になるのかな」
「ああ、そうなるか」
「え?じゃあ俺の先輩でもあるか。っていうか茉理さんも俺の先輩に当たるんですか?」
赤の他人だったと思っていた相手にいきなり共通点ができて大祐はビックリした。そして自然に茉理を下の名前で呼んでいた。佳の呼び方に影響を受けたというのもあるが。
「あ、すみません。初対面でいきなり下の名前で……」
「はは、別に構わないさ。大学の後輩なら尚更ね」
「あ、じゃあのぞみさんも茉理さんの後輩になるんですか?豊崎のぞみさん」
「あー、うん」
大祐の質問に茉理は少し歯切れの悪い返事を返す。
その反応を大祐は不思議に感じた。
「豊崎のぞみさん、ご存じですよね?あの南図書館の。のぞみさんはよくここの喫茶店に来てるって聞いたんですけど」
大祐が今日この喫茶店にきた理由はここ。のぞみが仕事の昼休みによく来ている喫茶店に興味があったからだ。しかもその喫茶店の店員が自分の先輩となればテンションも上がる。
しかし茉理はそうでもないようだ。逆に大祐よりも別のところに注意が向いている。
「豊崎のぞみさん?あなたたち、豊崎さんの後輩なの?」
低い声でそういったのは、話題の中心人物である酔った女性。ひどく酔っているのか頭が上げられないでいるが、視線だけ大祐と佳の方に向ける。
「はい、そうです!」
彼女らも同じ大学だったらのぞみのことも知っていて当然。こちらの会話に入りたいのかと思い、大祐は元気よく返事をした。しかし顔を上げた女性は目つきの悪い顔をしていた。茉理を見ると、やれやれと言うように額に手を当てている。
「あなたたちからも豊崎さんに言っておいてくれない?小笠原先輩に近づくなって」
話が唐突すぎるし、それにまた知らない人の名前が出てきて大祐は困惑したが、何かを怒っていることは分かった。その理由までは分からないが、考える間もなく真由美が続けた。
「豊崎さんは小笠原先輩をフッたのよ。先輩が夢に向かって頑張ろうとしてるのにそれを応援もしないで」
「小山……」
茉理は制止しようとするが、真由美は止まらない。
「あの人は自分勝手なのよ。自分から先輩に近づいたくせに、都合が悪くなって勝手に捨てたんだわ」
「小山。あんただって二人のことを全部知ってるわけじゃないだろ」
そう言って茉理は小山真由美の前に置かれたグラスを片付けだした。
「あんたたち、もう帰りな。川里、送ってやって」
「あ、はい」
そう言って川里健太は会計を済ませて、真由美を支えて店を出た。真由美はまだ何か言いたそうだったが、茉理に止められたからなのか何も言わずに出て行った。
「いやー、悪かったね」
二人がいたカウンター席を片付け終わったところで茉理が大祐と佳の前に帰ってきた。そして待たせていたコーヒーを大祐の前に置いた。
「いやー、なんか怒ってましたね。でも茉理さんが謝ることじゃないですよ。あの二人ものぞみさんの後輩なんですか?」
こういう時に佳のさっぱりとした性格は助かると感じながら茉理は事情を説明した。
さっき話に出た小笠原瞬が茉理と同学年で、その下にのぞみ、のぞみの下に真由美と健太がいた。瞬と真由美と健太が大学の劇団に所属し、そこにのぞみが加わった。そして真由美は瞬のことが好きだった。しかし瞬はのぞみと一緒にいる時間の方が多かった。
「二人は付き合ってたんですか?」
大祐が茉理に質問した。
「……のぞみがいないところでのぞみのことを私が話すのは気が引けるけど、正式に付き合ったという話は聞いてないよ」
のぞみに相談されたことは黙っていた。
「じゃあなんで小山先輩はのぞみさんのことをあんな風に言ったんですか?」
今度は佳が質問する。
「……まぁ簡単な言葉で言っちゃえば嫉妬かな?」
真由美は瞬が好きで、でも瞬はのぞみといい関係にあって、でも二人は恋人同士にはならなくて。そんな相関関係を考えると、真由美がのぞみのことをよく思わないのも分かる。もちろんのぞみに非があるとは大祐も佳も思わない。どちらかといえば逆恨みを受けている感じだ。
「小笠原が今まではアメリカにいたんだけど最近帰国してきたみたいでさ、うちの喫茶店に来たんだよ。のぞみはどうしてる?とか聞いてきたんだけど、思わずそのことを小山たちに話しちゃったんだ」
「なんでまた」
先輩につっこむ佳に大祐はビックリしたが、場の空気や茉理の表情をみるとここはつっこむのが正解だったと分かった。
「いやー、失敗だったよ。小山は今は川里と付き合ってるんだ。さっき一緒に帰ったでしょ?だからてっきり小山はもう小笠原のことは諦めたんだと思ってさ。でもまだまだだったね。これは川里も大変だ」
茉理は一つため息をつく。
「今日も小山の愚痴をずーっと聞いててさ。それであいつも悪い酔い方しちゃったわけだけど。……ま、そういうことで。今日のことはのぞみには言わない方がいいね」
そう言ってこの話は終わりとばかりに茉理は食器洗いを始めようとした。
しかしそこに大祐が質問を続ける。
「……のぞみさんは小笠原先輩のことを今はどう思ってるんですかね?」
「んー……」
大祐の質問に、茉理は視線を洗っている食器に向けたまま答える。
「のぞみからは何も聞いてないからね。それが小笠原を忘れようとしてるのか、逆に忘れられないのかは分からないけど」
その茉理の言葉を聞いて、大祐は残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
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