理論の構築、まずはトーストを焼いて……
「で、弟子ッ!?」
弟子って何の、トーストの?
「はい、昨日もそうでしたが、トーストを食べた後しっかりした意見を言ってくれました。それに助言も的確で、あの後シュガーバタートーストに自分なりに切れ込みを入れて焼いたところ、更に美味しくなりました。なので――」
またしてもギュッと右手が強く握られ、熱い視線が俺の双眸を捉えた。瑞々しい薄い桜色の唇から一つ吐息が漏れると、すうっと息を呑み込んで、カッと簾のような髪の奥で光った。
「わたしを導いて下さい! お師匠!」
「お師匠……」
トーストの焼けた匂いとバターの豊かな香りとで混じって、甘く芳しい香りがする。
それはジャムでも砂糖でもハチミツでも無い、そう、この香りは。
自尊心の高まる甘い蜜の香り。
「お師匠、お師匠ねぇ、お師匠か……」
悪くない、うん悪くない、全く悪くない!
師匠と呼ばれるだけで高揚感がどんどん高まる。師匠って言葉は甘味料なのかと思える程に甘く魅力的な言葉だった。
師匠って言葉はドラマやアニメで聞くけど、言われてみると高鳴るものがあるな。
「う~ん、どうしようかな。弟子なんてとったことないし、それに、人に教えるとか不安だしな~」
実際とったことはないけど、意欲ややる気次第では考えなくもない。
焦らすようにわざと迷ってる風を装おうと、少女は前のめりで両拳を持ち上げる。
「そんなことないです! わたし、お師匠の言葉でシュガーバタートースト論を完成させることが出来たんです。それに、わたしには分かります。お師匠は、他の人と違った才能があります」
「ほう、一応聞いておこうかな」
魅力、聡明、それともカリスマ性。
そんなに褒め言葉を言われたら、糖分中毒で倒れちゃうな、なんて思ってたら、
「お師匠には、『幸福を呼ぶトースト』をかぎ分ける才能があります!」
「……今なんて?」
なんか、氷水をかけられたように目が覚めた。
幸福を呼ぶトースト? 何ゲーの何アイテムなの?
「『幸福を呼ぶトースト』です! だってお師匠はお腹を空かせて、その上でわたしの焼いたトーストを見つけたじゃないですか! 更には、食べたトーストに満足しつつ改良点を示して、より幸福あるトーストへと導いてくれたじゃないですか! ねぇ、お師匠!」
幸福あるトースト? 待って流れがおかしい。
俺は冷めて冷静になった頭で考えた。これは新手の宗教勧誘なのかと。
でも、だとして開祖って誰だ。ジャ○おじさんか?
正常になった頭でもこの未知のやり取りでどう対応すれば良いか正解は導きだされない。
考えるにしても、麦野という人物を俺は知らなすぎる。まずは話し合ってみるべきか。
「そういえば、俺達知らないことが多いですね。俺は一年二組何ですけど、麦野さんは?」
そういってブレザーの襟についた学年バッジを指で摘まんで見せる。
「わたしは二年一組です。お師匠は後輩だったんですね、こんなに素晴らしい後輩がこの学校に来てくれて嬉しいです」
首を傾けて幸せそうに微笑む麦野。
ヤバい、めちゃめちゃ可愛い。
「わたし、こうして一年間料理部の備品を借りてトーストの研究をしてたんです。ですが、わたしの思う幸福なトーストっていくら食べても分からないんです。だって、幸福は与えるものですから、どれだけ焼こうと分かりっこないですよね」
ですが、と麦野が簾みたいに長い前髪を指でなぞり、おでこ辺りで押さえる。
澄みきった二つの瞳が、何の隔たりも無く俺を見据えた。
「でも昨日、お師匠が無邪気に食べ進めるのを見て確信しました。やっぱり幸福あるトーストは、誰かに食べてもらってこそだと」
「……」
全く同意見だ。料理ってのは誰かに食べてもらってこそだと俺も思う、思うけど――。
「残されたら、どうする」
「えっ……」
そんな言葉が不意に漏れた。
それが俺の口からだったことにすぐさま気付いて、慌てて取り繕う。
「あっ、いやすいません。今の生意気でしたね。ハハ、本当何でもないです。凄いですね麦野先輩、トーストで幸福、考えたことなかったな~」
アハハ。部屋中に声は響くも、味のなくなったガムみたいに乾いた声が響くだけで、目の前の先輩は反応を示さなかった。
もしかしたら怒った?
トーストに関して情熱をかなり注いでることは明白だし、それに水を差されて怒ってるのかも。
そういえば、一年もここでトースト焼いてるんだよな。情熱の成せる業だ。
「あの、すんません! 気を悪くしたなら謝ります!」
「……ません」
「えっ……」
一部聞き取れなかったけど、しませんっていった。
ません、るしません、ゆるしません。
許しません!?
頭を水平になるくらい下げ、謝罪した。
「本当にすみませんでした! だから、その――」
「残させません!」
「えっ?」
瞳の奥に、何かの想いが強く反映してる。
トーストを語っていた時の熱とは別の熱っぽさ。それが何なのか、何となく分かる。
「残させません、いえ、残すことが不幸だと思えるぐらいに幸福を感じるトーストを完成させます! どんなに辛くても苦しくても食べたくなるようなそんなトーストを必ず作って見せます。それがわたしの――」
眼光と不敵な笑顔、料理準備室のあらゆる金属が日光に当たって眩しく輝き、スポットライトみたいに目の前の少女を照らした。
「『幸福トースト論』ですッ!!」
キンコーンカンコーン。
そこでチャイムが鳴った。
もうそんな時間か。そんなことを思っていると、はわわ、という声がして、見ると麦野さんが顔を真っ赤に染めていた。
「あ、あの。今のはちょっと興奮し過ぎて、言い過ぎたというか、恥ずかしいので忘れてほしいような、いえ、わたしの気持ちではあるんですけど、その! し、失礼しました!」
そうして先輩が廊下を駆けていった。
「幸福トースト論、か……」
面白いな、それ。
枯れた井戸に水が満たされたような、そんな喜びが脊椎を通して全身に染み渡った。
師匠って言われて浮かれて考えてなかったけど、弟子にとっても良いかも知れない。
どんなに下手でも、どんなに飲み込みが遅くても、そこに情熱があるなら応援してやりたくなる。
右手を見た。
パンの粉まみれだった。
「さてと」
俺も教室に戻らないと。
廊下へと足を伸ばした。
「あっ」
あることが頭をよぎり、嫌々後ろを見る。
汚れた皿、茶色いバターが入った透明な保存容器。
「……あ~」
俺は全速力で後片付けをした。
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