卒論と晴れ舞台と祝福と

東屋猫人(元:附木)

卒論と晴れ舞台と祝福と

「おわっ……た………。」


飯島勇也は呆然として呟いた。ここは燦燦と日光指す真昼間の四畳半。そこには史料の写し、食べ終わったカップ麺などの残骸があろうことか整理もされずもみくちゃになって散乱している。しかし勇也はそんな周囲の惨状など気にも留めず、打ち込み終わったパソコンの画面を凝視した。


夢じゃ ないよな?


スクロール、スクロール。


夢じゃあ ない。一ページから目次から表紙からすべて書き上がっている。この数か月間苦しんだ、卒業論文が、今日ついに終わったのだった。


「………………やった。」


ぽつりとこぼれた声があまりに頼りなさげで自分でも笑いそうになる。この卒論の提出期限は午後四時。そして只今の時刻は午前十一時。完ぺきに余裕の提出ができる。


勇也は未だ夢の中のような心地で、出来上がったPDFのファイルをUSBに移す。これをコンビニで印刷して、大学へ持って行って、教授に提出すれば完成だ。

じわりじわり、水分が地中にしみこむように実感がわいてくる。こうしてはいられない、早く風呂に入って大学へ急ごう。アドレナリンが切れる前にできるかが勝負だ!


                  〇


——前日の夜。——


「なぁ~~これ、絶対終わんないって、無理だって! あと五ページだよ⁉ 史料探して補填して纏め書いてって明日までにって無理ゲーっしょ⁉ 」

「それはあんたが先延ばし先延ばしにしてたのが悪いんだから。私は知りません。」

「冷たい……俺の彼女がアイスのごとく冷たい……。」


しくしくと半ば泣きながらパソコンへ向かう勇也は、スカイプで彼女の瑠璃と話す。彼女はこつこつ真面目に頑張るタイプで、もう一週間前に提出を終わらせていた。今回は途中で眠ってしまわないよう、日付が変わるころまで監視していてもらう約束なのだ。


「ほんと……きっつい。でも、卒論終わんなくても観に行くから、絶対に、絶対に観に行くから! そっちも頑張ってな。」

「頑張るのはあなたの方。卒論出さずにこっち来たら縁切れるからね。」

「そんなぁ……。」

「あ、もう十二時。寝るわ。お休み。」

「えっちょっ! 」


ぷつりと通話が切れる。なかなかにクールで手厳しい彼女なのだ、そこがまた良いのだけども。しかし絶対に彼女の晴れ舞台は見たい。いや、見なければならない。

そのためには——こいつを潰す‼


そう決意し、コーヒーと栄養ドリンクをちゃんぽんして腹を下しながら書き上げたのだった——。


                〇


勇也はいつもの路線のいつもの電車に乗る。急行は止まらないから、いつだって乗るのは各駅停車だ。

のどかな風景と揺れに眠気を誘われながら、夢のふちに滑り落ちぬようあえて立って乗車する。勇也の通う大学は、最寄りの駅から二十分ほど歩いたところにあった。

電車を降りた勇也は書き上げた卒論を仕舞ったバッグを大事に抱きかかえて大学へ向かう。


——すると、耳に大勢の人々の声が聞こえる。十や二十ではない。もっと多くの人間の声だ。勇也は天を仰いだ。


……これ、卒論駆け込みダッシュだ————。


「卒論駆け込みダッシュ」とは、勇也の通う大学の伝統、卒論提出日に締め切りすれすれで文字通り駆け込んでくる四回生を見物する後輩たち……その間を駆け抜けることを言う。まさかこんな時間でもやっているとは。大学生の暇の持て余しよう、恐るべし。


勇也は一息ついて、覚悟を決める。バッグを抱きしめ、いざ、いざ!

全力で走り出す。右から左から前からも後ろからも「もっとがんばれ! 」だの「計画性を身に着けろ! 」だのヤジなのか応援なのかアドバイスなのかわかりかねるコメントが飛び交っている。その大声援のトンネルを潜り抜け、一階フロアに設営されている卒論提出場所へと駆け込んだ。すると教授が


「飯島、よく頑張ったなー。正直間に合うか間に合わないかひやひやしたぞ! 」

「へぇ……。」

こちとら息が上がってそれどころではない。


「なんだなんだ舞妓さんみたいな返事して! ま、おつかれさん。確かに受け取った。」


ほれ好きなのもってけ! と教授が指さした先には良く夏祭りで見るようなドリンクのボックスが置いてあった。その中から迷わず瓶のコーラを手に取り、一気に飲み下す。


「………ッッッア——‼ 生き返るっ! 」

「まるでビールでも飲んだみたいだな。」


喉からっからだったんです。そう言って教授と喋っていると、壁掛け時計が目に入った。長針は二十七を、短針は一と二の間を指している。


「あああ! 」

「えっどうした? なんかキマったか? 何飲んだ? おーい? 」

「違いますよっこれから予定があるんす! 」

「おっメシか? 」


楽しんで来いよー、と言う教授の言葉を背に受けながら勇也は走る。まずい、このままではかなりぎりぎりになってしまう。

急いで来た道を駆け戻った。


                  〇


それから二時間半後。勇也は着物姿で神社の境内にいた。今日はお祭りなのだ。地元の春祭り。今年は特別に舞の奉納も見られるということも相まって、凄い人出だった。きょろきょろと辺りを見回すと、普段通りの装束の巫女さんたちが忙しなく動いているのが見える。それを横目に見つつ、舞台に目を向けた。


すると、笛の音が聞こえてくる。人々の声が止む。

舞台裏手からとびっきり美しい装束を身にまとった巫女——瑠璃——がしずしずと進み出てきた。


ごくりと飲む生唾の音さえもうるさい。風の音すらも聞こえる。そんな静寂の中、瑠璃が手に取った鈴がしゃらりと鳴る。いよいよだ。いよいよ始まる——瑠璃の舞が!


結果として言うと、勇也にとって、まさしく天女の舞に感じられた。美しい装束に身を包んだ彼女は、重いであろうにそれを感じさせない動きをこなしていた。腰をしっかり落とし、足を延ばし、とバランスの乱れそうな体勢も多い。しかし苦しそうなそぶりは全くなく、指先の一本一本にまで気を使っているのが見ているだけでもわかる。

伏しがちの目、薄く開く唇、美しく揃えられた指先。そのどれもが神々しく尊く感じた。

舞が終わり、来た時同様にすすすと舞殿から去り巫女たちに守られながら彼女は神社奥へと消えていく。

半ば自室呆然としながら勇也も神社奥の社殿へと向かった。


すると入り口で控えていた巫女が、「飯島様ですか」と確認し、扉を開けてくれる。

そこには先ほど舞い終えた瑠璃がおり、ここの宮司である桐畑氏がいた。


「飯島くん。ほら、早く入って? 宮司様も待っていらっしゃるんだから。」

「まあまあ、急かすでない。お主の姿に見惚れていたのだろうよ。」

「もう、何を仰います。」

そんな掛け合いをしているのを不思議に思いながら、瑠璃の隣へ並ぶ。


「では始めるぞ。」


そうして執り行われたのは、厄除けの儀式だ。二人にこれから足元を掬われるようなことが起きぬよう。平穏無事に、結ばれた縁を育んでいけるよう。そうした祈願をしてくれると申し出てくれたのはこの宮司様だった。


やがて儀式も終わり、解散かとなったその時。この社のどこも開いていないはずなのに、青々とした木の葉や花びらが舞って入り、外には美しい霧雨が降った。

ぽかんと呆気に取られていると、瑠璃が「あ、」と小さく声を上げる。


「どうしたの、瑠璃。」

「………えと……その……。」

「お前さんにも、今日ばかりは見えたか。あれがうちにいる精霊たちだ。皆、普段のお主の頑張りを見ていたからな。喜んで祝福しているぞ。」

「精霊……? 」


ではお邪魔虫は退散するから、使い終わったら教えとくれと言い残し宮司さんは戻っていった。……なにが起きているんだ?


「瑠璃、今のってどういうこと……? 」

「あれは、ね、えと、宮司様が言うにはこの神社には神様のほかに精霊がいるんだって。私も今まで見たことがなかったんだけど。さっき、目の前にきて『おめでとう。心配しなくても大丈夫だよ。』って言ってってくれた……。」


緑の髪と瞳の女の子。と瑠璃は言う。

大丈夫……? 何がだろう。何か心配事でもあったんだろうか。

ふとその時、簪に花びらが乗っているのに気が付き、取ってやろうとした。その瞬間、「あのね」といって瑠璃が振り向く。


鼻先が触れ合いそうな距離


お互いの息遣いがわかる近さ


思わず赤面して離れる。

瑠璃は構わず、意を決したように言う。


「私ね、色々考えて、大丈夫かな、上手くやってけるかなって思ってたの。」


「でもさっき、大丈夫だよって言って貰えた。」


「だから、きっと大丈夫なんだと思う。」


「私、舞ってるときに何を考えてたかわかる? 」


ブンブンと首を左右に振った。


「あの舞の主題である天下泰平、すべて安らかでありますように。それと一緒に、すべての人が睦まじく幸せになりますように。……そう願って奉納したの。」


つまり、私、もう決めていたんだわ。そういう彼女が言わんとしていることは何となく察知できたが、まさか。





「勇也。勇也さん。私をお嫁さんにしてくれますか? 」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

卒論と晴れ舞台と祝福と 東屋猫人(元:附木) @huki442

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ