第38話 御陵凪は (その1)
夏休みまであと一週間を切った。
ミササギは、留学準備期間でクラスに顔を出していない。おそらくは理事長がクラスに顔を出すのを防いでいるのだろうが、残念。俺たちにはミササギの場所が分かる。
遠くに広がる都市情景に、吸い込まれそうなほどの青い空。入道雲はその背を伸ばして、それを飛行機が横切って一条の線を描く。滲む汗を微風が撫でた。
「……そういえば、初めての仕事もこうだったな」
人生で初めて屋上から飛び降りたのは、あの時だった。三か月前のことのはずなのに、遠い昔のことのように感じられる。
視線を下に向けると、シルバーの高そうな車が止まっていた。ここ最近、毎日あの車がミササギを迎えに来る。
前にミササギを家に送っていった時に彼女の家を見たが、豪邸、というに相応しい様相だった。西洋式というわけではなく、どこか近代的で無機質な邸宅。財力はあるのだろう、だから送迎の車なんてのもあるのだろう。
だから、この方法しかない。
一歩。そう踏み出した足に、波の音がした。
ふと、笑ってみる。
風景が後ろに流れていく。風を切る感覚が心地よかった。
きっと他に、最適解なんていくらでもあった。
自分の欲を、自分のしたいことを、自分の幸福を、他人に押し付ける。それはきっと、俺が一番嫌っていたモノだ。だけど、それでも。
衝動のままに地面を蹴る。屋上はフェンスがない、だから、こうして飛び降りることだって出来る。視界が反転、遠くでビルの窓に光が反射して輝くのが見えた。それがたまらなく心地よくて、衝動のままに叫んだ。
「――――凪ーッ!」
瞬間。
引きちぎられるような衝撃と、軋むロープの音。このまま地面に叩きつけられる可能性が脳裏をちらついたが、そうはならなかった。
臓腑が握りつぶされるような感覚とともに、慣性のまま理事長室の窓から侵入する。
この数日、ひたすら彼女のことを考え、同じくらい彼女を救う方法を考えた。
登下校時には送迎。学校にいるときは理事長室。極端に俺たちとの接触を避けられている。メッセージアプリでミササギからの既読が付かないのがその証左だ。
では、どうするか。
強行突破だ。
「……亮?」
「な、なにをしてるんだ君は⁉」
ミササギの手を取って飛び出そうとするも、理事長室にいた見知らぬオッサンが叫ぶ。そりゃそうか、傍から見れば男子生徒が窓から飛び込んできて女子生徒攫ってるだけなんだから。
「青春、ですッ!」
窓のそばに垂れ下がるロープを握り、ミササギを抱きかかえる。華奢な体はともすれば折れてしまいそうだった。窓枠に足をかけて、そのまま窓の外に飛び出す。
「きゃぁぁぁあぁ⁉」
降下。途中で千切れてしまうという嫌な予感もしていたが、無事に俺の両足は地面を捉える。ふわりと鼻腔をくすぐったミササギの匂いに慌てて腕を解いた。
「案外、綱のぼり用のロープってのも使えるもんだな」
廃棄予定だったこともあって不安だったが、杞憂だった。
「亮、いったい何を⁉」
『東山くん、こっち!』
「了解っ」
再びミササギの手を取って裏門へと走る。目指すは久瀬先輩の声の方向、裏門付近に横付けされた軽自動車だ。
「おいお前ら、止まれ!」
振り返れば、体育教師が叫んでいた。正面には警備員。さすがは私立高校、警備が手厚い。
だが、それさえ突破するのが強行突破ってもんだ。
低く唸るモーター音と共に、カラフルな球体が地面に落ちると同時、周囲に煙幕が展開して体育教師と警備員の視界を阻む。
「な、なんだこれ! おい! 待て!」
煙幕の切れ間、見上げる屋上に人影を見つける。心の中で彼女らに礼を言って、ミササギの手をより一層強く握って走り出す。
制止する大人たちも、滲む汗も、照り付ける太陽も、叩きつけるような蝉時雨も、全部振り切って俺たちは走った。自然と口の端に笑みが浮かぶ。なんだこれ、すげぇ楽しい。
煙幕を抜けて、視界が晴れた。
勢いはそのままに軽自動車に転がり込む。同時、久瀬先輩がアクセルを踏み込んで急加速。シートベルトも何もしていないミササギの体が俺に押し付けられる。
「りりり亮、どこ触ってるんだ⁉」
「ごごごごっご」
ごめんが言えないくらいには加速がすごかった。
「ごごごごごごふふぇへ」
「このっ……そういうのは、早い!」
「ごふっ」
ミササギの拳が俺の顎を確実に捉える。笑いすぎて呼吸ができないのに加えて、顎に対する確実なダメージ。そういえば毎回思うのだが、SMプレイって成立しなくないか。「相手が苦しむのを見て喜ぶS」と「苦しめられて喜ぶM」の関係は矛盾している気がする。Mが喜んでるの見てSは楽しいのかな。
ちがう、そんなのどうでもいい。
「東山くん、黙ってないとその舌ブレーキパッドにするわよ?」
「ごごごめんなさい!」
久瀬先輩、あんな言葉遣いする人だっただろうか。下ネタではない普通の暴言吐いたところ初めて見た。あれか、ハンドル握ると人格変わるタイプか。
「いいからその手を離せ⁉」
「ごごごごごごごごめんなさい!」
ミササギに言われてようやくその手を離す。右の手のひらにはささやかな幸せの温度が残っていて、そんなJ-POPの歌詞にありそうな思考を首を振って払う。
ふーっ、と自らの腕を胸の前で交差させて、こちらを睨みつけていたミササギ。
そんな彼女が、ふと破顔した。
「はは、あっははは、ありがとう、亮! 久瀬先輩!」
そう言って、目尻を拭いながら笑う彼女を見ていると少しだけ気が緩む。
窓を全開にして爆走しているため、風が思い切り吹き込んでくる。クーラーをつければいいのだが、久瀬先輩曰くミササギはクーラーが苦手らしいので窓で我慢。
でも、彼女がクーラーを苦手でなかったのなら、理事長室に突入することも不可能だったので救われたのもまた事実だ。運が良かった。
「今までのお礼よ、御陵さん」
言って、久瀬先輩はアクセルを踏む足を緩める。大通りに出たのだ。
「……でも、どうして……って、まぁ、あれか」
「それは後で、ゆっくり話そう」
しばらく道路を行くと、インターチェンジで高速道路に入る。
帰ったら、きっとすげぇ怒られるんだろうな。
「これ、どこまで行くんだ?」
どこか不安そうな声音で、ミササギは問う。こういう時に気の利いた返しが出来ないのが少しだけもどかしい。
「ついた後のお楽しみよ」
そう言って、久瀬先輩は少しだけアクセルを踏み込む。
そうして、単調なリズムに身を任せているうちにミササギは眠ってしまった。俺の肩に頭を預けるようにして透き通るような寝息を漏らす彼女の表情に、ごくりと喉が鳴る。艶やかな黒髪を指で撫でてみると、バックミラー越しに久瀬先輩が謎の笑みを浮かべているのが見えた。
「な、なんすかその顔……」
「んー? なんでも?」
「盗撮してないっすよね」
「五百円でどう?」
「三枚買います、ミササギが映ってるのだけでいいので」
「クズね、ファスナーでソレの皮を噛むわよ」
「マジですいませんです許して」
タイヤが地面と擦れる音が、静かに流れる。ささやかな揺れに身を任せているうちに微睡の足音がしたが、ミササギの感触を確かめていたいので止めておく。久瀬先輩に運転任せてるんだから、俺が寝るのは気が引けるってもんだ。
高校を抜け出して、どこかへ向かう。
なんか、青春してるな。
そんなことを思って、ふと青春の在り処を考えてみる。
それでも、結局答えは出なかった。
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