第39話 御陵凪は (その2)
高速道路から一般道に移ってしばらく行くと、途端に山が近くなる。
いつもなら、学校から眺めていただけの山。中学時代に一度来て以来しばらく来ていなかったから、どこか感慨めいたものが浮かぶ。
鮮やかな緑の間を縫うように舗装された道路を進んで、廃墟にたどり着いた。久瀬先輩は廃墟の横に車を止めると、運転席から俺に問う。
「ここで、合ってるのね?」
「そうですね、もはや懐かしささえ感じます」
中学のころ、一人でここまで来たことがある。
周囲の明かりが何もないから夜になるとひどく暗くて、怖くなって帰ったけど。
「東山くん」
「はい?」
「生きる意味って考えたことある?」
「ありますよ」
「どうだった?」
「死にたくない、ってだけでしたね」
所詮、そんなもんだ。踏み出そうとしても踏み出せなくて、そのままずるずると生きてしまう。今だってそうだ。ふと、「なに楽しそうに生きてるんだよ」と冷たい声がたまに聞こえる。
「久瀬先輩はどうなんですか」
「うーん。結局、ないんじゃないかな」
「先輩も答え出てないじゃないですか」
「じゃあ、死なない意味って、東山くんの中にある?」
俺の視線が左に向いた。穏やかな寝息を零している――
「そうね」
それきり、久瀬先輩は何も言わなかった。きっと彼女の中で問題は完結して、俺の中でもそれはある種の結論に達していた。
結論、とはつまり、逃げ場のない行き止まりと同義だ。
それを突き付けられると同時、俺はどうしようもない無力感に包まれる。
どうして、だろうか。何を間違えた? いや、何も間違えなかったからこうなってしまった? これは、一言でいうなら「戸惑い」というべきものなのだろう。
ともすれば、過去の自分を否定してしまいそうだ。
あの時の生きづらさなんて嘘でーす。
本当は普通に子供作って家庭ももてまーす。
普通に幸せに生きてまーす。
「…………亮?」
「――あ、悪い。起こしちゃったか」
言って、身体が強張っていたのだとようやく理解した。一歩進んでも、一歩も進まなくても俺を引き千切りそうな思考はまとわりついてくる。こんな思いさせたくないから、子供は作らない。それに繋がりかねない行為もしない。
だから、俺は恋愛をしない。
「東山くん、二人で話していらっしゃい」
「……そうします」
「あ、待って」
「へ?」
くい、とネクタイを掴まれて、久瀬先輩の顔が目の前に来る。背後でミササギが固まる気配。何やら久瀬先輩は俺のネクタイをいじって、ごく薄い板を取り出した。
「これでいいわよ」
「あの、それ」
「いってらっしゃい」
その言葉の内に妙な迫力を感じて、ドアを開けて軽自動車を降りる。ミササギも久瀬先輩に礼を言ってから俺に続いた。
山の空気は澄んでいた。四方を緑に囲まれ、木々を縫って風がミササギの長い黒髪を揺らす。葉鳴りも、蝉の声もどこか遠く、誰かの夏を祝福している。
歩き出した足を止めて、後ろを振り返る。
そこにはちゃんとミササギがいて、それで世界が完結していた。――空虚。そんなはずはないのだけれど、そう思った自分がいる。
「なぁ、どこまで行くんだ?」
ミササギの声に足を止めて、彼女に向き直る。
迷いはある。迷いだらけだ。もしもこれが、彼女を傷つけるだけの行為だったらと思うと心臓を引き抜いて握りつぶしたくなるくらいだ。
それでも、と。
「凪」
「……あぁ」
「お前の話、聞かせてくれ」
逡巡。重なった視線に、その色が見て取れる。
「――私、は」
言われて、ふと冷静になった。
――あぁ、俺、クソ人間じゃないか。
ここは、学校から高速道路を使って三十分程度の場所だ。電車もあるが、数が少ないのと駅までが遠いことが相まって実用的な手段ではない。よって車という選択肢が最適解になる。
こんな場所で、彼女が本心を打ち明けて、それがもしも「留学に行きたい」だったら? あんなにカッコつけて攫って、そんなことを言われたら俺とミササギが気まずくなるのは自明の理。彼女は、きっとそれを良しとしない。
そして、この場所に彼女を連れてこようと立案したのは俺だ。
こんなの、誘導尋問じゃないか。
逸らしかけた視線の端で、薄い唇が開かれる。
「私は、父親と離れたい」
だから、その言葉に少しだけ救われた気がした。そう思うのは傲慢だろうか。
しばしの沈黙を、次の言葉を待っているのだと捉えたのかミササギはぽつぽつと話し始める。透き通った声は心に引っかかっていたモノを洗い流していく。
「私の父は、厳しかったんだ。それはあくまで教育の世界で生きている者として、私が社会に出た時に生きていけるようにするためだったから、理解はできる」
ただ、納得はできない。と彼女は続けた。
「それが、父にひどく申し訳ないんだ」
「……ああ、分かる気がする」
きっと、親が俺たちを理解しないように、俺たちも親を理解しきれていないのだ。だからどうしようもならない歪みが生まれてしまう。どこまで行っても平行線、近づこうとすれば衝突して、やはり平行線に戻る。
「きっと、これ以上父の近くにいても、お互いに理解できなくて傷つけあうだけなんだ。それじゃあ誰も幸せにならないじゃないか」
――共存をする最大のコツは、共存を望まないことである。
ふと、いつか考えた言葉を思い出した。要するに互いに相手を無視すればいいのだ。しかし同じ家で暮らしていたらそれが不可能だから、離れたい。
「一人暮らしとか、言い出さなかったのか」
「許してもらえたと思うか?」
「やっぱ、そうか」
高校生、というだけでも一人暮らしは難しい。ましてや女の子だ、許可が出るはずもない。
でも、そう考えると留学もあながち間違った手段ではないのだ。父親と離れるだけなら、それで十分に目標を達成できる。
「……いいんだ、気にしないでくれ。してくれた事には感謝している。大丈夫」
大丈夫、そんなわけないだろう。それでも彼女は寂しそうに笑う。
きっと、彼女の根底にあるのは諦観だ。それは他人に対してでもあり、自分の人生対してでもある。ミササギは賢いのだ。賢いから、見えなくていいものが見えてしまう。
それでも、と。
目を逸らさない彼女は美しかった。
この社会は理不尽で溢れていて、ともすれば思考放棄をして、周りの流れに身を任せたくなってしまう。それなのに彼女はそれをしない。決して屈しないその在り方が、果てしなく美しかった。
だから、屈するのは俺だけでいい。
俺も、彼女に出会ってから変わったのだ。
立ち上がることで救えるものがあるのだと、そう知った。
「安心してくれ、私、こう見えても英語出来るんだ」
「――――」
「……へ?」
「――お前の、親父……理事長に挨拶がしたい」
「ちょっ、は⁉ 何を言い出すんだ君は⁉」
「女子一人ではだめなら、男がいれば大丈夫。一人暮らしも安心」
「もっとダメだろ⁉」
「……凪」
「な、なんだ?」
冗談は抜きにして、と前置きをしてから続ける。
「お前の、本心が聞きたいんだ」
「…………私、は」
瞳に迷いが浮かぶ。そして、彼女は頬を紅く染めながら言った。
「同棲、でもかまわない……ぞ?」
ん?
「……ん?」
「え?」
沈黙。そうしてようやく、理解した。
「いや、ごめん。留学に対する本心ッ⁉」
慌てて釈明するも、聞き入れてもらえずに右ストレートが俺の腹部に直撃。ノーガードからの衝撃が臓腑を揺さぶる。
「ごふっ……あ、待ってこれすんごい痛い」
「私の心はもっと痛いからイーブンだ!」
「くぅ……痛めつけられて喜べるよう訓練しようかな……」
悶える俺はさておいて、ミササギは赤くなった顔をぷいっと廃墟の方に向けている。やっぱり言葉でちゃんと補わないと伝わらなかったか。
「……で、留学は、どうなんだ」
ふと、彼女の体が硬直するのが見て取れた。少しだけ深く呼吸して、俺に向き直る。
「私は、まだ皆と一緒に過ごしていたいよ」
先ほどの応酬で気が楽になったのか、ミササギは微笑み交じりで答えた。腹部の痛みと引き換えにこの微笑みを見れたなら、まぁいいか。
「わかった」
あとは簡単だ。やることなんて決まっている。
言葉だけでは意味がない、行動が必要だ。
行動だけでは意味がない、言葉が必要だ。
家族だって、所詮は別個の思考を有する他人だ。相手の考えを知るにはコミュニケーションをとるしかない。
まぁ、世の中にはコミュニケーションを取れない親もいるのだけれど。
ふと、母親の顔がよぎる。あの人と暮らしていなかったら、この状況を前に立ち尽くすだけだったかもしれない。その点では感謝するべきだな。
「お、おい? それだけのためにここに来たのか?」
「あぁ、そうだぞ?」
「ま、まじか」
本来なら昔ばなしでもしようと思ったが、無事に問題は好転したので良しとする。
俺たちは、行動を起こした。
では、今度は言葉で示さなければならない。ミササギ――凪の意思を。
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