第6章 過去の名残と
第37話 御陵凪は
地学準備室の扉を前に、ふと昨日の会話を思い出す。
海岸沿いのコンビニ。そこで、お互いに別れの言葉を交わした。
「…………さようなら、か」
あの場で、誰一人として「また明日」とは言わなかった。
もう、あの日々は過去のものだ。
そう思うと、心の端に郷愁じみた痛みがはしる。
生きづらさを抱えた人間が、互いの傷を舐め合うための場所。
東寺庸介は、告白を断りたかった。
彼はそれでも、橋野と向き合うことを決めた。
久瀬由香は、性的な視線を向けられたくなかった。
彼女はそれでも、自分の中で折り合いをつけた。
佐山あかねは、友人と仲直りしたかった。
彼女はきちんと、自らの足で歩き始めた。
東山亮は、恋愛が出来なかった。
俺はようやく、人を愛せることに気が付いた。
ミササギが作り上げた場所は、少なくとも四人の感情を救った。
では、彼女自身はどうなのだろうか。
「おい、東山」
リノリウムより無機質な声がして、振り返ると橋野が立っていた。冷たい表情に少し怯んで、返事がぎこちなくなる。
「ど、どうしたんだよ。珍しい」
彼女から会話を持ち掛けてくるのは珍しい。とはいえ、体育祭の時に話しかけられてはいるから、シチュエーションが珍しいだけだが。
「リア充撲滅同盟、解散したんだってな」
「なんだ、知ってたのか」
「あんな怒鳴り声を聞いたら、それくらいわかる」
「…………怒鳴り声?」
聞き返したその言葉を、橋野は首肯してから話を再開する。
「あぁ、御陵の父親が理事長なのは知っているだろう?」
「あぁ、前に聞いた」
「理事長に、お前らの活動がバレた」
「バレたって、そんなバレるような…………あ」
脳裏をよぎる、一つの可能性。体育祭後に解散を告げられたから、それ以前に存在する俺たちの活動がバレるような大きな出来事。
「……まさか、花火か」
「あれだけ盛大にやればな」
「そりゃそうだよな……」
本来、作戦では花火を打ち上げるのは別のタイミングだった。花火大会終了間際の、連続発射の中に紛れ込ませる作戦だったのだ。それを前倒しして打ち上げたわけだ。
「あれ、御陵の提案だったんだぞ」
「……なんか、助けられてばっかだな」
これは好意的解釈かもしれないが、俺と佐山がエンカウントしてしまった状況を打開するために彼女が考えてくれたのだろう。実際、それで宮島と長谷部は包囲から脱出して、事態は好転している。
「それで結局、娘のやっている事を知った理事長は怒って、お前たちを解散したわけだ。その時の怒鳴り声だ」
「なるほどな」
ミササギに、申し訳ないことをしてしまった。俺がきちんと彼女に相談してから佐山を助ければ良かったのだが、あれはWLAに頼るという都合上、彼女に知らせたくなかったのだ。
どこか、彼女を裏切っているような気がして。
「で、そういや橋野は何しに来た」
ここは辺境の地。特別棟西端のしかも三階だ。滅多なことでは来ない。
「……東寺君に頼まれて、お前に言わないといけないことがある」
「ん?」
そうして、数拍。
「――――御陵凪の、留学が決まった」
「……………………は、」
一瞬、何を言われたのかを理解し損ねた。けれどきちんと受け止めれば、そこまで大した問題ではなかった。案外、留学する人は多い。特にこの高校は私立ということもあって、留学制度なんかも整えてある。時代はグローバルだ。
「なんだ、例の夏休み短期留学とかいうやつか」
「違うぞ」
「え、オーストラリアで冬を満喫するやつ?」
「違う」
「まさか三か月のカナダ留学コースか⁉ カナダって何あるんだろう。グリズリー?」
「…………東山」
その一言が、どうしようもない現実を突き付けてくる。
「高校卒業まで向こうで過ごす、提携学校との留学契約だ。大学も向こうのに入るらしい。…………もうじき、お前は彼女に会えなくなる」
口の中で血の味がして、自分が唇を噛んでいたのだと気づいた。
それを言われたところで、俺に何ができるだろう。何もできない。俺は、ただの高校生だ。大人から見ればただのガキ。
それに、留学なんてそうそうできるチャンスはない。理事長を父が務めているが故のチャンスで、これを生かせば良い経験になる。悪いことばっかりじゃないのだ。
ミササギにとっても、有益なんじゃないのか。
「ああ、それでも別に、構わない……そもそもなんで俺とミササギのこと知ってるんだよ」
「我々の情報網なめるなよ。新カップル成立から一日もすれば情報は届く」
「俺ら付き合ってないんすけどね」
「……うそ、だろ」
「え、」
何か、呻くように呟いてから両手で口を覆った。なんだその目。
「まぁ、恋愛感情はあるんだな?」
「…………ミササギのことは、愛してると思う。多分」
「すごいな、なんでそんな恥ずかしいこと言えるの」
「うるせぇ黙ってお願いワールド・ラブなんちゃらより恥ずかしくない」
「違う、そんなことをよ――東寺君に言うよう頼まれたんじゃない」
「他に何かあるのか?」
「……鈍感は嫌われるぞ」
「はぁ?」
別に鈍感じゃない。他人の好意ぐらい気が付く。
その抗議を次の言葉が制した。
「彼女、嫌がってたぞ。留学」
「……そうは言っても」
そこまで言って、開かれた扉に言葉を遮られた。
中から顔を覗かせたのは、茶色交じりの髪を揺らした久瀬先輩。汗でワイシャツが張り付いて、下着のラインが浮かび上がっていた。慌てて眼を逸らす。
「とりあえず、入って?」
「じゃあ、お邪魔します」
「俺ら、もう解散したんじゃ……」
「御陵さんを助けたくないの?」
「お邪魔します」
「おかえり」
バタン、と重い扉が閉められて、部屋の蒸し暑さに辟易する。この部屋は準備室であり、それも使わなくなって久しい場所だ。クーラーはない。窓から吹き込むぬるい風が、肌を舐めまわすようで不快指数は高い。扇風機はあるが、それでも暑かった。
「では、これを」
言って、久瀬先輩は小型コンピューターにメモリーカードを差し込んだ。真っ黒な画面ではあるが、音声だけ鮮明に聞こえた。
『だから、私は……!』
『だから、なんだ?』
ふと、体育祭前夜のことを思い出す。ミササギと下駄箱で遭遇する前、理事長室から漏れ聞こえた会話と一致している。あの会話、ミササギだったのか。
「まぁ、これだけじゃ分からないだろうし、補足するわね」
「お願いします」
「まず、彼女はお父さんとそこまで仲がいいわけじゃなかったの。むしろ悪いくらい。それで、今回の事件があったから亀裂が広がってしまった。言ってしまえば、この留学は島流しのようなものよ」
俺たちと離すことで彼女にダメージを与えながら、表向きは留学の形を取ることで学校のイメージアップを図る。
子供に成長してほしい親心のようなものもあるのかもしれない。
けれど、そろそろアップデートが必要だ。
いつまでたっても像を結ぶのは子供の姿だけ。その認識を改めないといけない。
子供を作ると決めた瞬間に、子離れの覚悟は決めておくべきだ。いつまでも相手が自分に依存していると思ったら大間違いだ。いくら高校生とはいえ、自我がある。
真に依存しているのは、親の方なのではないだろうか。
「留学の話は前からあったの。体育祭の事件が決定打になって、実行に踏み切った感じね」
「久瀬先輩」
「どうしたの?」
「なんで先輩がミササギの家庭状況まで知ってるんすか」
「あら、ジェラシー? 安心してもいいのよ、盗らないから」
「妬いてないし盗らせませんから大丈夫です」
「あら男らしい」
「そもそもお前のものじゃないだろう。付き合ってないんだから」
「そう、だけど……そうですね」
反論の余地が一片もなかった。
まぁ、そうだよね。うん。別に心に鋭い痛みとか感じてないし胃に穴が開きそうとか思ってないし留学先の屈強な男が彼女を抱いてるのとか想像してないから大丈夫。
まぁ、いいのだ。彼女が幸せならなんでも。うん。
「まぁ、私がミササギさんの家庭状況をなんで知ってるのかというと、私のお父さんが副校長だから。理事長とかそこら辺の話も入ってくるのよ」
「副校長……なんか、ミササギといい久瀬先輩といい、すごい人ばっかですね」
けれど、その言葉に、
「あくまでお父さんの話よ。親は親、あくまで他人だもの」
優しい声音で、久瀬先輩は言う。
「…………そうっすね」
流石に今の発言は不躾だった。親がすごいと、無意識的に周囲から掛けられる期待が重責になることだってあるのだろう。所詮は別個に思考が独立した存在、簡単に言うと他人なのだ。
「東山くんは、どうしたいの?」
ふと、そんなことを問われる。
「俺、は」
俺は、どうしたいのだろう。
彼女の行動に関して、何か意見をする権利はないだろう。彼氏じゃないんだから。
それでも、と。
考える。
考えて、なお答えは出なかった。
そもそも判断基準を間違えていた。彼女に幸せでいて欲しい。それは嘘偽りのない事実だ。だから、彼女自身に問わなければいけない。
「俺は――知りたいです。ミササギがどうしたいのかを」
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