第38話 波の名残は、いずれ消えて
御陵と結婚してから、三年が経った。
都内と比べて家賃の安い神奈川に引っ越して四年、僕は一児の父になった。
仕事も仲間に恵まれて、そこそこ順調に行っている。特に人生に不満はなかった。
愛する人と暮らすのは、いいものだ。
帰れば風呂が沸いていて、洗濯物はたたんで箪笥に仕舞われている。食事は三食きちんと用意されていて、深夜二時にふらりと起きてカップラーメンを啜ることもなくなった。
読んでいる本から視線を外して、少しだけ新鮮な気持ちで周囲を見渡す。
1LDKの部屋は、三人で暮らすには十分だ。もっとも、子供が幼稚園に入るくらいには引っ越したいとも考えているけど。
御陵――凪は子供とじゃれ合っている。幸せそうで何より。
ふと、凪と視線がぶつかった。
「なんだー、見惚れてんのかー?」
「そりゃ見惚れるだろ」
「きゃー、パパったらスケコマシですねー」
「意味違うし、楓に変なこと教えないで、泣くぞ?」
結婚して、最初に気づいたことがある。
テレビで流れてくる不幸なニュースに、耐えられなくなったのだ。
児童虐待とか、交通事故とか、殺人事件とか、芸能人の訃報とか、そういう類の悲しいニュース。
テレビからそんなニュースが流れ始めると、自然とバラエティ番組にチャンネルを変えるようになった。今までは何とも思わなかったんだけどな。
あと、次に気づいたのは凪は美人ってこと。
三番目は娘かわいい。マジ天使。
母親がここまで美人なんだ、美人になるのはもはや運命。神さえ惚れさせる可愛さ。
どこまでも幸せで、どこまでも愛おしい。
そんな時間が、穏やかに過ぎていく。
その結末を、俺は知っている。
右手に残った沈み込むような感触。確かな弾力と共に、耳に突き刺さるような音が響く。
少し大きくなった楓が泣いていて、彼女の右頬は赤くなっていた。
楓を、娘を殴ったのだと悟ると同時。地面に倒れたミササギの姿があった。
理想からこぼれた、未来の断片が流れ込んでくる。
僕には――俺には。
誰かと恋愛する資格など、なかったのだ。
この世の中はどうしようもなくて、それ以上にどうしようもないのは俺自身だ。
波音に意識が溶け出してく。それは、どこか純美な感覚だった。
朽ちていく憧憬の片隅。
「――――」
ふと、この世界の美しさを垣間見た気がした。
「――――」
俺は、こんな自分をいつか肯定できるようになるのだろうか。
「――」
分からない。分からないんだ。
「」
編み上げられていく現実に、空白を見た。
この世界に存在する、全ての感情を内包するような空白。瞼の裏に光を感じる。首筋が少しだけ暖かくて、冷え切った感覚がほどけていく。
幾度となく――彼女と出会ってから、感じ続けていた空白。
きっと、これは。
――――唇に、ささやかな温度。
脳の奥で何かが弾けた。体中を電流が駆けて、四肢の末端に至るまでの感覚が唇に集約される。薄い、形のいい唇が俺の唇に触れていた。
「――――――――――――ミササギ」
彼女の唇が、顔から離れていく。衝動のままに彼女の頭を抱き寄せて、もう一度唇を重ねた。一瞬体が強張って、けれど細い指が俺の顔に添えられる。
そのまま体を起こして、彼女の華奢な体を抱きしめる。
彼女の体温だけが、俺の輪郭をとどめているモノのように思えた。体を動かすたびに鈍痛が響くが、それさえ振り払って彼女を一層強く抱きしめる。
どれほどの時間、そうしていたのだろうか。一瞬のような気がする。
「……東、山」
お互いに、その瞳の中にいる自分の姿を見る。
「俺は、」
きっと、これは恋じゃない。
君を見ていたい、君と話したい、君と手を繋ぎたい、君を抱きしめたい、君とキスがしたい、けれど、それ以上に。
君に、幸せになってほしい。
笑う君を見ていたい、嬉しそうな君と話したい、照れる君と手を繋ぎたい、楽しそうな君を抱きしめたい、微笑む君とキスがしたい。
言おうとして、口に馴染まなくて小さく笑ってしまった。
「――愛してるよ、ミササギ。君を愛してる」
言って、なんだか恥ずかしくて二人で笑った。
「うん、私も、愛してる」
「面と向かって言って恥ずかしくないか?」
「先に言ったの君だろ⁉」
「はーいはいはいはい愛してますよぅ、ミササギさん」
「私も愛してるぞー」
「あーはっは、軽いなー」
「胸がないからかー? うんー?」
「いや、ごめん。何でもない……なんかごめん」
「フォローしてよ……」
いや、胸、ちょうどいいんじゃないか。
しゅんとうなだれる彼女の頭を撫でてみる。海水に濡れた髪の毛は少しごわごわした。
「あー、……ありがとうな」
「ん?」
なんでもない、とそう言って立ち上がる。
彼女の瞳は優しさで満ちていて、頬に描かれた一条の筋がその意味を教えてくれた。
「――――ミササギ、幸せになってな」
朝焼けの中で、そんなことを言ってみた。
「……凪でいい。あんまり苗字は好きじゃないんだ」
「じゃあ、凪。幸せになってな」
その真意を掴んだのか、掴んでいないのか。彼女は俺の手を握った。絡む指に、互いの体温が溶け出していく。そうして、しばらく歩いた。学校は休みの日だから、時間はある。
歩いていると、声がした。柔らかな、耳に馴染んだ声。
「……あら、無事だったのね」
「な、なんで久瀬先輩?」
コンビニの前で、久瀬先輩が立っていた。クリームパンをかじりながら意外そうな顔をしている。ずずーっと紅茶のパックが鳴る。もうそれ、中身なくなってません?
「電車なんて、あの時間になかったのよ」
ポケットから取り出したカギをひらひらさせる。見れば、コンビニの駐車場には一台の軽自動車が止まっていた。まさか。
「……マジっすか」
「ええ、大マジよ」
「久瀬先輩次第だが、君も……亮も、乗せてもらったらどうだ? 亮なら爆笑できるぞ?」
「勘弁してくれ」
安全の保障がない分、ジェットコースターより怖い。
「まぁ、それはいいとして。話をするべきなのはもう一人いるでしょう?」
言って、久瀬先輩は軽自動車のドアを開ける。中にはうずくまった人物がいたが、久瀬先輩が声をかけると車から出てきた。その視線が俺と重なることはない。
「…………先輩、その」
居心地の悪そうな声音。それでも、彼女――佐山あかねは決意したように顔を上げる。
「……昼間は、ごめんなさい」
突然の謝罪で理解が追い付かず、呆けた顔になったのを自覚した。
それを催促ととらえたか、彼女は事の経緯を説明し始めた。
「高校に入って、初めてできた友達が不良に囲まれてたんです。それを助けたところを、長谷部君が見てたらしくて」
ふむ、それで長谷部は彼女に気持ちが傾き始めたわけか。
「でも、不良たちってWLAのひとだったんです」
「……うん?」
「どういうことだ?」
そこでふと、ある可能性が思い出された。まるで、俺が昨日実行した作戦のようだったから、そこに至る思考まで理解ができる。
「宮島ちゃんが長谷部君を好きで、宮島ちゃんがWLAの人にお願いして、それを長谷部君に助けてもらって……みたいな」
やっぱりそういうわけか。
本来なら長谷部君が白馬の王子様的な役割で登場し、接点を作るはずだった。しかし佐山が長谷部君の代わりに宮島を助けてしまい、作戦は失敗。
「で、長谷部君に好かれたのは佐山だった」
「そういうことです」
彼女の正義感と、友達思いな性格ゆえの事件だ。
体育祭後の長谷部との関係はどうなったのだろうか。それに友人関係は、恐らく回復していない。もとい、そんなにすぐに変化は出ないか。
聞こうと思ったが、今の俺にそんな資格があるとは思えなかった。勘違いとはいえ、彼女を傷つけてしまったことは事実。
「だから、その」
言い淀んで、それでも彼女は俯かない。
「……あり、がとうございました」
そんな言葉、俺が受け取っていいのだろうか。
つまるところ、俺はなにも出来ていない。長谷部の好意の方向は宮島に逸らせたかもしれないが、彼女の人間関係までは修復出来ていないのだ。感謝されるようなことを何もしていない。
「宮島ちゃんたちとの関係は、自分で何とかします」
ふと、彼女の毅然とした表情に驚いた。こんな表情をする子だったっけ。
「今は、先輩が――先輩たちが、いますから」
彼女らの表情が弛緩するのを感じた。あるいは、俺自身も弛緩した表情になっているのかもしれない。
感情というのは、脆弱だ。
それ故に、簡単に崩れ去って、同時にやり直すこともできる。
崩壊と再構成。ニュアンス的には「アップデート」が近い。
ここから先は彼女自身の領域。俺たちはあくまでもバックアップだ。
その高潔なまでの決意に踏み込むのは傲慢だろう。
「そっか」
「はい……その、ほんとに、ありがとうございました」
俺が頷いたのを確認すると、久瀬先輩が口を開く。
「じゃあ、私と佐山さんは帰るわね。もう電車も動いているから……じゃあ、気を付けて」
言われて、自分たちがびしょ濡れなのを思い出した。これで他人様の車に乗るわけにはいかないし、その考えを見越しての提案だろう。ありがたい。
「はい、先輩も…………マジで気を付けてくださいね?」
「大丈夫よ、レースゲームで鍛えたもの」
「一番まずいヤツじゃんですよ」
「ふふ……ミササギさんのこと、ちゃんと家まで送るのよ」
「それはもちろん」
「……ミササギさん」
「どうした?」
久瀬先輩は視線だけで、俺に退くよう促した。ガールズトークの邪魔になるのは申し訳ないので大人しく下がる。
「――本当に、良かったのね?」
「…………あぁ、大丈夫だ。気を付けて帰ってな」
「ええ、じゃあ。さようなら」
「さようなら、お兄さん」
「ああ」
「さようなら」
久瀬先輩は運転席に乗り込むと、エンジンをふかして走り去っていった。軽自動車なのになんでそんな音出るんだろう。
ふと、佐山の最後の言葉。その真意を掴み損ねたことに気が付く。――お兄さん?
その思考は、謎のタイヤと地面が擦れる音で掻き消されてしまった。ドリフトしてた。危険すぎるだろ。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、駅に向かう。
さすがに早朝だけあって、サーファーと釣り人、ランニングする人くらいしか人影がない。駅まで行くと人も増えたが、それでも電車の中は空いていた。
駅までの道のりで服は乾いていて、太陽の偉大さを知った。それでも座席に座ることに抵抗があったので、ドア付近に寄り掛かってしばらく電車に揺られる。
彼女らは、俺の自殺未遂について触れなかった。あくまでいつも通り、リア充撲滅同盟があった頃みたいな感じだ。
ふと、今までの自分の行動――春から、現在に至るまでの行動を振り返ってみた。
春以前なら考えられないほど、積極的に行動を起こしていた。
東寺庸介のこと。久瀬由香のこと。佐山あかねのこと。
それは、別に善意なんかじゃなくて、高尚な奉仕精神でもなくて。
――きっと、贖罪なのだろう。
心のどこかで、あの日、妹を殴った罪を、誰かを傷つけた罪を贖いたいのだと思っている。
死では贖えなかった。この期に及んで否定形の生存願望なんてのを抱いている。
それに、死んだら悲しむ人がいる。生きてても誰かを傷つけるし、死んだらもっと人を傷つける。そっちの方が嫌だ。死ぬのはまたの機会にしよう。
そう思って、ちらとミササギに視線を送る。
彼女は窓の向こう、あるいは、窓に映った自分の姿を眺めて少しだけ目を細めた。
「なぁ、ミササギ」
「凪だぞ」
「……なぁ、凪」
「どうした?」
「…………………………ごめんな」
「君とは付き合えない、だろ?」
「――――へ⁉」
一言一句間違えず、継ぐはずだった言葉を言い当てられた。なんで分かるんですか。
「な、ななんで分かるんだ」
「私もそうなんだ」
言って、彼女は車窓から視線を逸らさない。
俺たちは、恋愛が出来ない。それは感情に対する不信感であり、人生に対する諦観でもある。それがあったから、俺たちはこうして出会うことが出来た。
もしも、恋愛が出来るのであれば、結果はもっと違っていただろう。
「ずっと、君を愛していたい」
だから、付き合えないのだと、そう彼女は言う。
その言葉に、途方もない感動を覚えた。俺の理解者は彼女しかいない。その確信に至らせるほどの感動。
お互いの思考が溶け合っていく感覚。それはひどく官能的で、ずっとこの感覚に浸かっていたいとさえ思える。
「俺もだよ、ミ――凪」
「慣れないか」
「慣れないな」
「まぁ、ゆっくり慣れてくれ」
「そうする」
朝焼けの残滓が、東の空から消えていくのが見える。ただひたすらに電車は揺れて、時間も忘れてその光景を眺めていた。
来るはずのなかった朝。
――俺は、これからどうなるのだろうか。
曖昧模糊とした未来の輪郭に、少しだけ触れた気がした。凪の横顔を見ると、どこか満足そうな顔で微睡の入り口を彷徨っている。なんだか申し訳ない。
再び視線を窓の外に向けると、先ほどまでなかったはずの入道雲が空に向かって背を伸ばしていくのが見えた。少しずつ流されながら、それでも懸命に青を割って進む白い雲。
――きっと、少しずつ変わっていくのだろう。
まだ残る波の揺れを感じて、俺も目を閉じた。
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