第22話 幕間その3


 頬を熱いものが伝って、目が覚めた。


 それを涙だと認識するまでに数秒、現在自分の部屋のベッドに寝ているのだと把握するまでに数秒、遅刻寸前であるということを確認するまでにさらに数秒の時間を要し、体を起こす。


 虚脱感とも言うべきものが四肢の隅々まで支配していて、涙を拭うことすらままならなかった。しばらくはこのまま壁にもたれかかっているしかないらしい。


「……久しぶりに見たな、あの夢」


 夢、というよりもフラッシュバックに近い。

 親に対する不信感、その親が生まれる原因、そして親が親でなくなった。

 子供は未熟なまま大人になるのだと。俺の本質は、教室でセックスをしていた彼らと、身不相応に子供を作った俺の親と同じなのだと。そう知ったあの日。


 俺が、恋愛を出来なくなってしまったあの日。


 きっと、どれか一つでも別の日に起こったなら、こうならなかったのかもしれない。けれど、それでいい。俺は気づけたのだから。大人の未熟さに、恋愛の脆弱さに。

 あの日からしばらくして、女子生徒は妊娠して退学。不良の男子は「ヤり捨てた度胸のある人間」と称賛され、新しい彼女を作りましたとさ。めでたしめでたし。


 彼らの現在は知らないが、まぁ、ろくでもない人生を送っていることを切に願う。


 なんか、柄にもないこと考えちまったな。


 意を決してベッドから降り、寝間着のまま洗面所で顔を洗う。

 顔を上げると、そこには顔が二つあった。


「……親父、いるなら言ってくれよ」

「ん? ああ、すまん」


 タオルを取って顔をふく。心なしかいつもより強く拭いていた。


「珍しいな、遅刻とは」

「人生経験だよ」

「それもそうか」


 はは、と親父は笑って玄関に向かう。スーツ姿の後ろ姿が、心なしか弱弱しく見えた。


「じゃ、行ってくる。鍵は任せた」

「……いってらっしゃい」


 ばたん、とドアが閉まって、それきり家は静かになった。

 もう一度鏡を見る。目の腫れはそこそこだが、いくらか大人びた俺の顔。その顔が、少しだけ親父に似てきたと思うのは気のせいだろうか。


「…………はぁ」


 昨晩、妹に会ってからというもの、どこか感傷的になっている自分がいる。

 大人しく朝飯にトースト焼いて食べよう。おいしいものを食べれば忘れられることだってある。食パンも味わえば十二分においしいのだ。


……なんで、俺じゃないんだろうな。


 離婚に際して、子供はそれぞれ一人ずつ連れていくという話になった。母親は、長男の俺ではなく妹を選んだ。きっと、再婚するときにそちらの方が都合がいいからだ。


 親父は再婚する気はないようで、俺に心配をかけないようにと毎日寄り道せずに帰ってくるのだから、いい父親なのだろう。

 父親でなければ、俺は親父を世界一信頼していたに違いない。


「ま、子供作ってる時点でダメだけどな」


 ちょうどトーストが焼けて、皿に乗せて冷蔵庫からジャムとマーガリンを取り出す。気分的にブルーベリーとストロベリー、そしてマーガリンの三色パンにしようとダイニングテーブルを見たところで、そこに既にトーストとサラダが用意されているのを見つけた。

 普段なら俺が朝食当番だから、テーブルを見る習慣がなかった。失敗したな。

 大人しくテーブルにつき、トーストにジャムを塗っていく。

 どうせ遅刻するのだ。一限目だけさぼろうが、二限目もさぼろうが大差あるまい。

 トーストを口に運びながら、久瀬由香の依頼について考えてみる。


 メンツを潰してほしい。

 つまり男子の性的な視線をどうにかしてほしい。


 本当のことを言うと、そんなの不可能じゃないかと思い始めている。


 久瀬先輩が変わるという方法は、過去の事件の存在が大きすぎて無理。

 かといって男子の性的な視線を全て消すのも無理。

 唸りながらトーストを咀嚼する。食べているうちにサクサク感が失われていき、二枚目に到達するころには湿気を含んで柔らかくなっていた。

 全男子が永続的な賢者タイムに突入すれば解決するのだが、絶対に無理だろう。それこそ「性処理担当」とか生々しい存在が必要になってくる。どこのエロ漫画だよ。


……ミササギも性的な視線を向けられたことあるのだろうか。 


 そんな益体のない思考が浮かび上がってきて、慌てて頭を振る。考えても仕方ないし、まぁ、きっとあるのだろう。ミササギ、美人だしな。

 胸の端に、何やらわだかまりのようなものを感じながらトーストの最後の一片を飲み込む。壁掛け時計は八時四十分を示していた。ゆっくり支度しても、二時限目には間に合うだろう。

 久瀬先輩の案件は、ミササギと話し合って答えを出そう。俺一人の脳味噌ではとてもじゃないが解決できない。

 朝の支度を終えて、まだ家を出るには早い時刻だ。手持無沙汰にスマホでリア充撲滅同盟公式サイトを覗いてみる。


「……お?」


トップに表示された見慣れないアイコンの横に、赤い点が明滅している。

 このサイトを作った時にはこんなものはなかったので、また久瀬先輩の仕業だろう。利便性が向上するなら仕様変更もありがたいのだが、これは何だろう。


 とりあえず開いてみると、【なんでもボックス】と書いてある。


 なるほど、これで生徒からリア充の情報なり、お悩み相談なりを受けるらしい。こちらからの返信も可能で、すでに三件の書き込みがあった。久瀬先輩、実はデキる人なのか。

 まず一件目。


『高校一年です。同じクラスの彼女が、大学生と浮気しています。大学生を殺してください』


 うわぁ過激~。

 だが残念だな、その場合お前も殺すことになる。あとでミササギに相談しよう。


 二件目。


『幼馴染の女子に告白されました。ですが、幼馴染のことを好きな男子に嫌がらせを受けています。告白を断ろうとしていますが、嫌がらせがエスカレートしそうで怖いです。助けてください』


 昼ドラかよ。

 まぁ、恋心ってのはドロドロしたものですからね。とか思ってたら追加で通知が来た。


『嫌がらせをしてきた男子が、僕に告白してきました。どうすればいいですか?』


 まさかの展開である。小学生とか、気になる子にイジワルしちゃうのはよくあることだが……まぁ、うん。いいんじゃないですかね。


『返信:心に従ってください』

 

 これでよし。ぶっちゃけ子供を産まなければ何でもいい。


 三件目。これでひとまずラストだ。


『リア充撲滅同盟に入りたいです。どうすればいいですか?』

「……おお」


 思わずちょっと感動してしまった。

 そうか、俺たちの活動に賛同してくれる人もいるんだな。そう思って返信を打ち込もうとするも、指が止まった。

 久瀬先輩がリア充撲滅同盟に加盟することが決定した時も、ほんの少しだけ心に寂しさともいうべきものが去来した。それと似たような感覚が再び胸を衝く。


 もしかしたら、俺はミササギと二人きりだった時の活動を、案外気に入ってるのかもしれない。そんな考えが浮かんで、すぐに消えていった。


 そういえば、この【なんでもボックス】は案外優秀な作りになっていて、俺の通う私立高野高校の生徒しか書き込みできないらしい。さすがに、現時点で校外まで依頼を受けるわけにはいかないので、こうして初めから制限されているとありがたい。


『返信:放課後、地学準備室にてお待ちしています』


 返信をすると、時刻は九時ちょうどになっていた。支度をするにはちょうどいい時間だろう。

 特に突飛なことが起こるわけではなく、とりあえず制服を着て家を出る。

 昨夜の雨のせいで湿気が強く、降り注ぐ陽光がアスファルトの水たまりに反射して思わず目を細めた。


「……あちい」


 まだ五月の半ばだというのに、遠くで雲が天に向かってその丈を伸ばしていく様子が見て取れる。これで五月なら、今年の夏はひどく熱くなりそうだ。

 学校までは徒歩で五分。チャリを使うことも考えたが、運動不足が心配なので徒歩にしている。

 新しく来るであろう同盟の参加者に、久瀬由香の依頼。

 自分の中で、少しだけ揺らぎ始めている。


――リア充、本当に撲滅できるのか?


 答えは出ないまま。ただ時間だけが過ぎ去っていく。

 夏の気配はすぐそこまで忍び寄ってきていて、じきに来る梅雨前線を抜ければすぐに夏だ。



 高校二年の夏。

 大人たちが妄執を抱くその時期は、もう目前だ。


 

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