第21話 まりやと佐久間家
二人はさっきまでの一心不乱で取り組んだ写経からの開放感に浸っていた。そのまま寺から続く細い坂道を佐久間とまりやは表の車道まで下っていた。佐久間は今更ながらまりやの整った筆跡には感服していた。
「いゃあ実に美しい字体に見とれてしまいましたやはりそう云う家柄の人は
まりやは控えに微笑んだ。
「才能は遺伝しませんそれが何よりの証拠には小学校まではおてんば娘で書道なんて大の苦手で半紙にへのへのもへじを書いては母を困らせていましたから」
ホ〜と頷くと「それがまたどうして」と催促した。
「環境って無言の圧力でした。大きくなるにつれて自覚症状が出て来た物ですから」
「そうですかわたしの場合は所詮は釈迦の手の平で踊らせていただけですからそれがしみじみと身に染み付きました」
「それは承子さんの教えですか」
「中央の官僚組織を抜け出された時に掴んだ処世術ですよ」
「なるほど承子さんが言うように共通する物があるんですね」
「四百年前からの伝統と今の行政組織は似て非なる物ですよ」
「それはどうでしょう。宮中においても現代でもどんなに上辺が変わっても人のする事に変わりはないんですよ人は生まれて死ぬまでのあいだ自分と云う自我に苦しめられて生きているんですから」
「自我ですか」
「そうですそれが佐久間さんの仰るこの世はお釈迦さんの手の中に包まれている現実でしょう」
「それはあの般若心経の写経から導き出された答えなんですね」
「経典に答えはありません、お釈迦さんが見出した悟りは数行ですがそれが今ではその解釈は
「心の内は本人さえも判らないからこそ、その自我に苦しめられても生きていけるんでしょう」
「でも状況が判って来れば答えはかなり絞られてきますから娘さんにはそれをも諦める事は無意味じゃ無いって会ったら教えて上げたいのですが上手く伝えられるでしょうかそっちの方が心配ですから」
「娘の奈央は父の私が言うのも何ですが物わかりの良い子ですちょっと先走って仕舞うところが難点ですが」
「何もしなければ何も変わりませんから」とまりや笑った。
「求めよさらば与えられるんですかこれはキリストの教えですね」
「宗教に垣根はありませんそれを信じる人が垣根をしかもうずたかく積み上げるから世が乱れ創始者の思いが踏みにじられているんですよ」
「釈迦にしてもキリストにしても一人の理想者は万人の理想にはなれない、だから考えが違うもの同士がいらみあい敵対して争いが起こるか……」と佐久間は想いを馳せた。
ーー戦後の焼け野原で一番の望みは食べ物ですが、それと同等に国民は娯楽に飢えていたのです。掘っ立て小屋にやって来たお芝居に現場に居た官僚は、満員の観衆を観て、国を思う国民を思う政策とは何なのだと先輩から聞かされました。それが今も耳から離れません。地方に
元高級官僚の佐久間の言葉にまりやは心を動かされた。
「退路を断ってこそ道は拓ける」と佐久間は締めくくった。
「それは危ないですよ」その路が正しいとの思い込みがとまりやは曖昧な基準に警告した。
「いやわたしには果たすべき義務と責任があったのですが」
「それで出世コースを外されてもですか」
「あなたは痛いところを突いてきますね、でもあの時はまさかあの人がというのに心が乱れました」
「信頼していた上司の方だったんですね」
「今もあの人は苦渋の決断をしたと今も思ってますしそう思わねばやりきれませんでした」
「今もですか」
「いやもう今日の写経でスッカリ忘れました。今日はやって来て良かったですよ」
佐久間は何か
佐久間の自宅は土岐承子の寺からはバスで五つ先の停留所の近くだった。歩けば三十分以内で着いた。だから二人はそれぐらい長話をしていた。バス停の傍から見えた山裾までは田植えの終わった田んぼが点在していた。一区画の田んぼが相続税か何かで金の入り用で切り売りされた一角に十軒の建売住宅の一軒が佐久間の家だった。日曜の午後昼下がり三時のティータイムの頃に二人はやって来た。さっそく奈央を呼び寄せて清原まりやを紹介した。
我が家の居間で対面した奈央はこんなに早く実現するとは思ってなかったのか恐縮していた。まあとりあえず妻が紅茶を煎れてくれた。それに佐久間が来る途中で買ったケーキを添えた。これで甘い物に弱い奈央の感情は一遍にほつれてまりやと気さくに応じ始めた。
まずまりやが記述試験のテーマに何故あれを選んだか尋ねた。
奈央は躊躇してからあたしの部屋で話して良いか両親から了解を取った。二人はそれぞれの紅茶とケーキを持って部屋へ行った。部屋へ入ると難しいお年頃なのねとまりやさんは言った。それに奈央は照れ笑いを浮かべてから質問に答えた。
「 あれは前の先生と一緒に考えた」
「それは衣川さんのこと」
奈央はコクリと頷いた。そして歴史が与えるのは刺激であって試練では有りませんと言われた。道は自分で切り開くそう云う意味だと悟った。
「 それで何が解ったの」
「人は絶望すると誰かの為に死を選ばされると」
「 先生がそう言ったの」
「先生はそう言わないあたしが勝手に考えたの」
そこでまりやは今一度奈央ちゃんの部屋を見回した。四畳半ほどの洋間にベッドと勉強机が有り、その空いたフローリングの床に二人は座り込んでいた。壁に有る本棚には中学生らしからぬ本が半分近くを占めていた。それらはすべて歴史小説が多かった。細川ガラシャの本に目が留まったところで振り返ると奈央ちゃんと目が合ってしまった。
これなのねと言うと奈央ちゃんへへへと決まり悪そうに笑った。彼女も釣られて笑っていた。
「これを参考にして解答したのねどこまで勉強したの」
奈央はまたへへへとさっきと同じ笑いを浮かべた。
「ええそれで清原いとさんはキリスト教の洗礼を受けたのですね」
「衣川さんはそれを
「それは聞いてないよ」
「そうか奈央ちゃんには無理だと思ったのだろう」
「でもあたし意味知ってるガラシャさんを死へ追いやった罪から逃れたいんでしょう」
ウ〜ンと一声挙げてまりやは考えた。この子は何処からこの答えを導き出したのかしらと。
「それは正しくないわ」
「でも間違いでもない」と奈央は反論した。
ーーこの矛盾を長々と答案用紙に書いた結果担任の先生から高得点をもらった。
「それってませてる、中学生らしくないわね」
とまりやはしみじみと眺めると奈央はちょっと舌を出しかと思うと。
「だってお父さんの子だも〜ん」
と言って、父は忖度の果てに中央官庁のエリート職を追われてしまったと奈央は付け加えた。
そうかこの子はガラシャとお父さんを重ねているんだ。いやそのガラシャの父の光秀をもこの親子は重ねているんだ。
「奈央ちゃんはガラシャさんのファンならそのガラシャのお父さんも勉強してるんでしょ」
「ウン、うちのお父さんが転勤してからだけど」
将来の事務次官候補が一転して左遷された。その想いが写経を終えた清々しい佐久間氏の顔の奥に潜む無念を今更ながらまりやは思い知らされた。
「だからガラシャさんの気持ちがスーとあたしの胸に
まりやは奈央を相手に苦笑いをした。
「でも結果論でさあその当時は誰も判らなくてみんなよかれと思って一生懸命に生きてさうちのお父さんみたい」と奈央はまりやに少し同情した。
この子は気づいたのかしらお父さんと同じ考えを持った者が四百年も前に居たのを。
「あたしより難しく考えるのね」
「生活が掛かっていたからね、区役所の今の給料って霞ヶ関よりはるかに安いの。まあ失業するよりかましか。でもまりやさんは府庁だからお給料はお父さんより良いんでしょうね」
「そう変わらないと思うけど」
そうか奈央ちゃんのはお父さん絡みだったのかどうりで下では話しにくかったんだ。
「生活は解ったけどそれと佐久間さんの奥さんに対する暴力との一致点が見いだせないのよ」
まりやは視点を変えて追求していた。
「そうお父さんが炎上(暴力を振るったのは)したのは昔のお母さんに頭が上がらなかったそのせいだと確信しています」
要は弱い者に当たるだから愛情の問題だと娘は主張していた。それだけにガラシャさんの夫の
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