第20話 果たして旧家にお宝は有るのか?
この日は写経の予約者で中断が有った。それでも朝から寺の上がり口の板の間に続く畳の部屋で長い座視机に三人が横一列に並んで複写したプリントアウトと格闘していた。
今まで角張った字しか見ていない仁科には柔らかくはねるように連なって流れ落ちて行く字が抽象画の取り留めも付かないデッサンに見えて来る。これが草書体いわゆる崩し字だ逆に写経は楷書で角張った字を連ねて釈迦の教えを正確に伝えるからしっかりした文字になる。今、目の前の古文書は事実だけを正確に伝えるから字体より意味さえ解れば良い。
あの丹波の旧家と土岐承子さんの繋がりはただ遠い親戚しか聞かされなかった。まりやさんのようにハッキリとした系図がない以上は分かりっこない。
そんな疑問を振り払うように承子さんは目を通した文書を左右に座る二人に番号を付けて振り分けてゆく。受け取った二人は数字を書き込んでは同じ数字の上に置いて行く。指をなぞりながらポイントを発見したのかそこを何度か確かめただけで振り分けて次のプリントに移っていた。傍で見る真美にはその早さに度肝を抜いた。
同じ筆跡だけで振り分けられた歴史資料が七つに成った。この七人分の史料を日付の古い順に明治までの七代に渡る当主の記録がこの蔵に眠っていた。明治以後の物はなかったから途切れ途切れだがほぼ二百五十年分だった。その中でも半分近くを占めていたのが初代の改名に関わった当主の記録だった。その子孫も同じ様に記録を残そうと心がけたが断片的な歳時記になっていた。これはこれで江戸時代二百年の丹波の暮らしを垣間見る史料に成り得た。土岐氏に改名する前は此の人は明智光秀の縁者として傍に仕えていた者らしく詳細に主君について書かれていた。
「凄いお宝かも知れませんね」
と横で見ていた真美が言った。だが丹波にある多くの旧家を知る承子にはまだそんな史料が埋もれているのには半信半疑だった。
「鵜呑みにするにはまだ時期尚早かもしれませんよう。今まで発見された史料となんら変わりがないかも知れませんからね」
本当にあの旧家には今まで叔父さん以外の者が立ち入って無いのだろうかと疑問を持った。歴史資料のほとんどが出尽くした昨今で今更新たな事実が有るだろうか、有るとすれば多分に今までの史料の二番煎じか重複分かも知れない。そうでないとすれば歴史的発見だけれど信じがたい。今まで持ち出し厳禁だったからこそ人の目に触れず遺ったとも考えれば期待も膨らむが問題はその中身だった。
「これは本人が
「どうして」
承子さんが今まで求め続けていた物なのにいざ出会うと懐疑的なるのはその積み重ねの苦労から来るかも知れないと真美は考えた。
「そこそこの武将なら再就職に影響するから私記は出さないし書いたとしても時の権力者に媚びを売る物しか書けない。だから時勢に合わない名も無い低い身分の者を探しだして取材したかも知れない」
そうだとすると歴史資料としての価値は勿論のこと
「でも此の人は本当に明智家の縁者なのだろうか」
仁科はポツリと喋った独り言を承子は聞き逃さなかった。
「丹波のあの旧家は間違いなく私の遠縁に当たります!」
珍しく承子さんが腕組みして立ち上がり行きつ戻りつすると小袖の袂が振り返る都度フワッと揺れていた。
「もう仁科くんはこの後に及んでなんて事を言うの」
承子さんは突然立ち止まるとそのまま座り込んだ。
「まあすべてはこの古文書を調べれば判るでしょう」
気が治まったのか承子さんは穏やかな口調に戻っていた。
「区分けするときは承子さんはある程度までは流し読みでもされながら文章も見られたのですか」
真美が顔色を窺うように質問した。
「いいえ古文書にはある文言が有ります何々候とかこの場合は草書体ではひらがなにされるその方がさらさらと書き進められますそこで『そうろう』の字体の癖だけ見て振り分けましたので全体の文章の流れは掴んでいませんからそれをこれから時間を掛けて読み解いて行くのです」
だがある程度は目に留めたのか珍しく承子さんが少し気落ちするように「又聞きかも知れませんしどれほどの裏付けが取れるでしょうか。先ずは此の人は実際に見聞されたかどうかですが。まあ読み進めば判るでしょうね」とそれでも期待を持とう続けた。
その古文書は承子さんがもっとも知りたい山崎の戦いの三年前から起稿されていた。
とにかく区分けは終わったところで承子さんは奥で写経を続ける二人の様子伺に行った。
二人は写経を終えたらしくお互いの成果を見せ合って会話を愉しんでいた。
「おやおやスッカリとリラックスなさって」
と写経の終わった二人を承子は
中学生でもそこまで歴史について書かれたのは良かったと、承子は二人を仁科と真美のいる部屋へ戻りそこで二人の写経を見比べた。
「いつもながらまりやの楷書は安定感があるけど般若心経の写経は初めでしょう」
写経をしないで戻って来た承子さんだが二人の成果を見ただけでスッカリ安定感を取り戻していた。
「釈迦の教えを文字で説いた判りやすい物なんですね」
まりやは初めての感想を述べた。
「あれは三百字ほどですから集中しやすいでしょう。じゃあ次は法華経の原文を書き写されるといいでしょう、もっとも寝食を詰めても数日かかりますけれど集中力が散漫な方はひと月掛かっても書けないでしょうね」
「三日坊主ですか」
と真美が仁科に一瞥して言った。興味を惹くものによると仁科は気を悪くしてにらみ返した。
まあ坊主は余計ですがと笑いながら承子は二人を見て次に佐久間さんの写経を見た。字は下書きどおりじゃないけれど伸び伸びしておおらかな字体だった。
「この調子で書けば直ぐに上達しますよ」
と言葉を添えて佐久間に返した。
佐久間は暫く返された写経の字を目で追った。国家公務員の試験を受けてから
「憶えてますかご住職が役所へご相談に来られた日を……」
ーーあの時はあなたは私の目を見てずっと話された。そんな人はあなたが初めてだった。あの日は妻に暴力を振るってから日も浅かった。が反感を持たずに受け止められたのは仕事柄もありますがあなたに教えを悟らせる力もあったのでしょうね。それが今日の写経で知りました。筆先の柔らかさがクッションになって心を受け止めて支えてくれていると、これからは心が暴走しそうになれば写経をして心を休めたいです。
それは良いことですと承子は心にしこりが残ればまた写経をするように勧めた。帰り掛けのまりやにはあの旧家の蔵に眠っていた古文書の中に真新しい物を見付けたから伯母には今一度蔵の管理の徹底をお願いした。
「何か見つかったのですか」
「あの家の初代当主とおぼしき人の記録ですよ。今のところは未知数ですがひょっとすれば大変な記録があるかも知れませんから、まあ興味があればまたいらっしゃい」
それに応えてまりやは遠藤さんが興味を持てば寄るかも知れないと言った。更に彼女は「佐久間さんの娘さんがあたしに関心を寄せてくれてますのでこれから家に寄ります」と佐久間さんに誘われるままに二人は寺を辞した
旧家の史料から筆跡鑑定で七人分に分けられた四百年の土岐氏の古文書は七代目までが蔵にあった。あの蔵には明治までの古道具や書物が納められていた。本能寺の変の三年前から旧家へ落ち延びるまで記録しているこの当主の記録を紐解いて歴史上最大の謎に挑み謀反の真意にどこまで迫れるかだった。その為にこの記録を限定した人と共用する手はずを整えた。
まず承子はこれを筆写しながら読み進めるようにした。プリントには通し番号が下についていた。真美はこの通し番号を一から七までに振り分けて書き留めた。一は初代当主の記録だからこれを熟読して次の機会に意見交換する。このお宝は何処までが真実なのか解明出来るまでは岩佐先生には見せないことでは一致した。
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