第19話 旧家のお宝と写経

 丹波の旧家から持ち帰った資料をカメラで複写してプリントアウトした。この整理を歴史研究サークルの仲間でやったがはかどらない。まず同じ筆跡の物を選り分けて分類を始めるが、この筆跡鑑定が歴史研究サークルではお手上げに成っていた。そこで仁科と真美は素早く解読出来る土岐承子さん頼って持ち込んだ。墨がにじんだ和紙のような感触が感じられない無機質な紙に印刷された物には抵抗感あった。だから承子は仁科さんたちのこの方法には関与を避けたが、時の流れが速い現代では痛し痒しで手に取って調べ始めた。

 慣れぬ紙質の古文書に身が入らず気乗りしない承子に、椹木さわらぎが清原まりやの来訪を告げた。彼女は直ぐに手を止めて招き入れた。

 土岐承子さんはコピー等は余り好まない。経文はもちろんその他も書き写す事で身に備わる。特に経典を手描きで書き写すいわゆる写経は集中力を養い一心不乱と云う無我の境地におのずと導く出せるもっとも手短な修行になる。心の乱れが直接文字に現れるから心の安定を求めるのに良い。無心で脳を活性化させれば新たな道も拓かれる。

 土岐承子さんはこの様なうたい文句で、寺では月に二回週末に写経を受け付けていた。

 この日は二人の予約が入っていた。その一人がなんとあの面倒くさいと言っていた清原まりやだった。土岐承子さんの説明では遠藤さんとデートを再開してから心境に変化が生じて神妙になり写経がやりたいと申し込んだらしい。

「承子さんはどの様に鼓舞されたのですか」

「まりやは口では遠藤さんを揶揄やゆしていても昔の貴族を想わせる貴公子的なところには一目置いているのよそこを刺激してあげただけ」

 土岐承子さんの説明では遠藤さんとデートを再開してから心境に変化が生じて写経をやりたいと申し込んだらしい。

 写経には本堂の奥の離れに長めの座敷机を用意してあった。そこは山の中腹にあるこの寺からは一番眺めの良い部屋だった。

 まりやは神妙な顔付きで現れた。寺に収納する写経料にはてた茶と和菓子が付く。それを承子は写経の前にするかあとにするか聞いてきた。一般論では写経を終えて心身ともにリフレッシュしたあとに点てた茶を頂くらしい。普通は聞かないが承子自身がそのリフレッシュしたい心境だった。迷うまりやにしめたとばかりに先に茶を点てることにした。直ぐに椹木が薬缶やかんに水を入れて用意して電熱器に置いた。ポットでは茶のうつわに湯を煎れる微調整が出来ないらしい。お湯が沸くのに時間が掛かりそうねと承子は袖の袂を持って薬缶を扇ぐふりをしたが直ぐ止めた。

「アッ! そうそう今日はもう一人写経にお見えになるのよ」

「一般のお客さんですか」

 フフと笑って知ってる方だから当ててご覧なさいと袖を手品師が持つハンカチに見立てて見せた。

 この寺で写経をやっているのは近在の人か隣の大学関係者以外は余り知られてなかった。

「一般客でないとすれば大学関係者なら岩佐先生しかいないなあ」

「残念でした。岩佐先生の様に腹に一物持つ人は写経なんてしません。無心になれる境地を作れる人だけです」と仁科の答えに承子は袖を掴んで振り子のように振りながら言った。

「腹黒いと言えば細川ガラシャさんが父光秀をその様に手紙に書いてあるのを見ました」

 真美が振れる袖を見ながら言った。そこで承子はパタッと手をとめて持った袖を離した。

「それは唯識ゆいしきこと」

 ーーあれは本性ではありません明智玉子さんは知性と教養にけて和歌にも通じた人です。その人が同じ知識人の父を罵倒するはずがありません。あれは世間を欺く所存です。比叡山の焼き討ちを尻込みする武将を前にして率先して成し遂げたからこそ織田家で最初の国持ち大名に抜擢されたように自分を欺くことで手に入れられた。でも辛かったと思いますから逃げ延びた僧侶には手厚くしている。ふもとの坂本の復興にも力を入れている要するにアフターケアを尽くしていた。

「あらそろそろお湯が沸きそう」と電熱器のスイッチを切って茶器を揃えて茶筅ちゃせんで茶を点てると何処からか椹木が点てた茶を運ぶのかお盆を抱えてやって来た。

「最近では写経をするような人いたっけ」

 と仁科は独り言のように言う。茶筅を持つ承子の手首は激しく動くが彼女の着物の袖は反比例するようにゆっくりとしか揺れなかった。真美はその動作に茶道には長けた人に見えた。やがて片袖を抑えて仁科の前に点てた茶を差し出した。

「お茶だけ」と仁科はまりやの前に用意された和菓子を見た。

「和菓子は写経を予約された方しかご用意してませんのであしからず」

 これはサービスだと言いたげに承子は仁科に目で示した。そう云えば和菓子は二つしかなかった。あと一人がサッパリ掴めないでいると表が騒がしくなった。そこで椹木が席を立ち佐久間さんを案内して戻って来た。何で此の人なのと三人は佐久間を見た。

 特にまりやには余りにも突然過ぎて何故此の人が同じ心境になれたのかそれが不思議だった。

 清原まりやさんはこの前の史子あやこと一緒に学食隣の喫茶ルームでは佐久間さんの話をやけに真剣に聞いていた。その理由を聞くと 衣川さん達から聞いた佐久間さんは同じ公務員として同情の余地はある。すべてが事なかれ主義で片付けていればそこそこのポストへ上り詰められる。中央官庁で一転奮起すれば国を動かす事も夢では無い。その気構えが醜いポスト争いの渦中でズタズタにされてゆく佐久間氏に同情を寄せた。

 その彼があたしと同じ様に写経をやりに来た。あたしが失いかけていた遠い四百年前の過去を遠藤さんに呼び戻されてその心の整理の為に来た。佐久間さんもそれに近い物に目覚め掛けて来られたのだろうか。

「丁度よかったわ」と一つだけ残った茶器と和菓子を承子は膝元に取り寄せた。佐久間は椹木が用意した座布団に座った。

「まさか此の人が写経をするんですか」

 仁科は思わず口走った。だが佐久間は意に介せず承子さんが点てるお茶を静かに見ていた。

「そう最近心境に大きな変化があって写経にお見えになりました」

 そう言い終わると椹木が差し出したお盆にそっと点てた茶を置いた。彼はそれを佐久間の前に置くと部屋を出た。

 大きな変化とはあの家庭内暴力だ。あれはこの男の一つの区切りだった。出世コースから蹴落とされた男の何処にも向けられない怒りに対する区切りだった。

「写経の予約をされたときに区役所いらっしゃる佐久間さんだと解りました」

 佐久間が茶を頂く前に承子さんは言葉を添えた。

「あの時は区役所で相談を受けたときには功徳を積まれた方だとピーンときました」

 佐久間は出されたお茶をたしなみながら言った。

「まさかあのあとでうちの者がこのお寺に駆け込んでいたとは知りませんでした」

「そんな大層なものじゃありません夫人が衣川さんを頼って見えられただけですから」

 写経をお願いしたこの寺は奇しくもその暴力を振るわれた家内が世話になったと聞き驚いた。その話は娘からも招待したレストランでも話題にならなかった佐久間は今一度、真美に礼を言った。

「じゃあもう改心されてたのですね」

 土岐承子にそう言われて彼が次に語った。

 ーーあの時は何も見えてなかった官僚時代は妻に敷かれていた。上役のお嬢さんですから機嫌を損ねると大変ですから心安まるひとときがなかった。いや休まったのは娘の奈央と居る時だけかもしれなかったから、その娘にこちらに来てからひとこと言われた時は堪えられなかった。恐妻への鬱憤がその時に再婚の妻に出てしまった。あの時は止まらなかった止めどもなく怒りが妻に向いた。 心の弱い者ほど自分より弱い人間に向いてしまう。そんな者ほど妻を殴ったあとにその痛みが胸に跳ね返ってきて己の情けなさを知った。

「その事を奥さんに言いましたか」

「言えないけど態度で妻は解ってくれたと思う……」

 承子は此処でダメ押しの言葉を用意したが、そこで写経を望まれた佐久間さんの意志を尊重して踏みとどまった。佐久間さんが言い切らなかったところが奥ゆかしさだと思い直した。

 一服すると承子さんは写経に訪れた二人を奥の離れへ案内した。後片付けを始めた真美は椹木が置いて行ったお盆に集めた茶碗を重ね置いた。

「これで佐久間さんはまりやさんとの対面の希望は叶えられたけど奇妙な偶然ね」

「同時期に写経に来るなんて第一なんで写経なんだろう真美ちゃんは書いたことはないだろうなあそう云う無心の境地には……」

 そこで仁科は慌てて止めた。

「それってけなしてるの」

「いやとんでもないいつも飛んでる真美ちゃんがそんなかしこまった姿で居るなんて想像できっこないからさ」

「どうせあたしは承子さん見たいにお茶もてられない人間だから」

「そう言う訳で言ってないよ」

「あら後片づけしてもらって」と礼を言ってから「どうしたのですかこんなところで口喧嘩ですか、そんな暇があったら早くこの古文書の区分けを始めましょう」

 と承子さんは隅に片付けた座敷机と一緒に書類を持ち出して来た。

        

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