第18話 佐久間という男

 東の大都会に居る時は高層マンションの樹木より遙か上の階に居た。だから窓からは緑は無くコンクリートのビルが林立する廃墟のような町並みが広がっていた。一階から外へ出ると僅かに土が見える。あとは樹木の根っこを囲むように芝生が僅かに顔を出していた。一階から見上げて初めて木々が緑に芽吹いて季節を知らせた。お父さんが中央官庁からこの緑が多くて高いビルのない街に引っ越してからは随分と空が広く感じられた。家も一戸建て住宅に代わり樹木と同じ高さの二階の窓からは緑が手の届きそうなところにあった。こういう緑と広い空に包まれた生活に馴染むと気持もそうだが、考え方が随分と背伸び出来る様になった。その頃から衣川さんが家庭教師のお姉さんとして来てくれた。だからお姉さんの勉強以外の話も吸収が早かった。お陰で初めての記述式の問題では成績が良かった。でもこっちへ移ってからお父さんはスッカリ気分を害していた。このあたしの新たな考えに憤慨したお父さんはお母さんに手を出した。そして教えてくれた衣川さんを首にしてしまった。でもこの爆発でマグマだまりが一気に吹っ飛んでスッキリしたのか霞ヶ関に居た頃の気の良いお父さんに戻った。

 そして今日は珍しく奈央はお父さんと一緒に家を出た。でもお父さんは地下鉄の駅までであたしは学校までだから。それに道順が違っていたから一緒には歩かないのに今日は付いて来た。

 どうしたのと聞くと一緒に来て欲しいから今日は学校を休めと言う。俺が電話してやると仮病を使わされた。今度はお前だと電話を渡された。何て云うのと聞くとさっき俺が言ったと同じことを言えば良いと。あたしも区役所に仮病を使わされた。

 どうするのと聞くとこの前まで来てくれた家庭教師の居る大学へ行ってお前は都合を聞いて来いと言われた。理由を聞くと解雇を詫びたいからだと言う。わざわざ役所を休まなくても日曜にすれば良いのにと言うとうちの奴に知られたくないらしい。

 だからこうしたとお母さんを貶した手前言いにくいらしい。だからそっとやりたいらしい。昔のお父さんはこんな子供じみたところも有った。そのお父さんの変な意地に付き合わされた。

 中学生が平日に朝早くから大学に来ればやはり目立った。大学で何をしているか一度だけ聴いた事があった。それを頼りに構内を歩き回って母さんと以前家庭教師を頼みに行った事務所の窓口へ行った。同じ様な建物が並んでどれが教室でどれが事務所か見分けが付かなかった。やっと廊下に突き出た名前の標識を探し出して辿り着いた。

 受付の小窓に向かって来訪を告げると引き戸の窓が開いておばさんが顔を出した。そこで奈央は家に来てくれた家庭教師のお姉さんに会いに来たと告げて調べてもらった。

 おばさんは机の前のパソコンを操作してくれた。日本文学概論の講義を受けているから終わった時間を見て事務員は奈央を連れ出して衣川に会わせて帰った。

「奈央ちゃん学校はどうしたの!」

 講義室前の廊下で会った奈美は驚いた。

「お父さんに仮病を使わされて休すんじゃった」

 奈央ちゃんは照れ笑いを浮かべたが真美にはいじめられていると受け取ったのかお父さんをなじった。そんな真美を非木川が話し最後まで聴かなけゃあと言ってくれて奈央は落ち着きを取り戻した。

「そうじゃないの非木川さんだけレストランに招待したけれどお父さんが衣川さんにもお礼をしたいからって無理に学校休めと言われたの」

「あたしがこないだ話したレストランね。真美には申し訳ないと思ったのも無理も無いぐらい凄いフルコースで奥さんと奈央ちゃんも一緒だったよね」

 あの時は美味しかったと非木川は奈央にもう一度お礼を言った。

 今さら何よと奈美はあんただけ良い思いをしてと苛立った。やせ我慢する真美に珍しく仁科が反論した。

「そうだろうなあ今更行きにくいだろうなあ、口も聞いたこともない中年の人から食事の招待を受けてもおいそれとは承諾出来ないから娘さんを寄越したんだよ」

 佐久間さんの気心にも応えたい仁科としては今更という真美の気持ちも分からなくも無かったから心苦しかった。真美の目を見ればそれは理解出来たが、ただ引っ込みが付かないのに仁科は非木川に相談した。

「真美のネコババの説明にまりやさんが高級官僚から干されたのに興味を持っているから佐久間さんがもう拘ってないなら真美から紹介してあげれば」

 ネコババってなんなのと仁科に突っ込まれてしまった。関係ないと反論したその口から奈央ちゃんに彼も誘って良いか聞いた。前回誘いを受けた非木川は家庭教師での珈琲タイムには夫人と雑談するからその夫人が同伴だからご主人の誘いも受けやすかった。それでこの真美の提案を非木川は擁護してやった。奈央はアッサリ引き受けた。

「奈央ちゃんはお父さんに相談しなくてもいいの?」

 多分お父さんは同じレストランで似たようなフルコースだと思うからあたしはフルーツパフェでもケーキでもスイーツな物の方が食べたいからと本音をアッサリと言った。この前に招待された非木川の辞退には当然よと真美は言ってのけた。今日の昼はあたしは学食で二人はレストランのフルコースかと非木川はタラタラと不満をぶちまけてこれであいこだと最後は笑って別れた。

 奈央ちゃんは公衆電話から確認の電話を入れていた。今時二人はそれを珍しく眺めて居た。

「どうだったの」

「やはり大丈夫だったしあたしの食べ物だけ変えてもらった」

「何にしたの」

「向こうへ着いてから好きな物を食べることにしたの」

 レストランへ三人は奈央の案内でバスで行くことにした。やがて陽射しは天空に上り詰めた正午だ。三人はレストランに入った。奥の窓際のテーブル席に居た佐久間が手を挙げて招いた。それに応えるように奈央ちゃんが傍に駆け寄り席に座った。別に一人増えていたが娘の連絡で驚く様子も無く席を勧めた。真美が仁科を佐久間に紹介して二人は着席した。先ずは佐久間が解雇に着いて誤解があったと詫びた。

「娘の話だと同じ歴史研究サークルの仲間だってねえ」と仁科を見た。

 真美が頷く間に店員が奈央ちゃんにメニューを見せて注文を聞きいた。オムライとフルーツパフェにアイスクリームと頼んでいた。それを横目に父は甘い物ばかりで太るぞと笑っていた。この笑いの裏にも何かがあると真美には疑心暗鬼だった。

「育ち盛りだから大丈夫」と元気に答える奈央ちゃんを見て史子あやこの言うとおりだと。今の佐久間さんは問題を起こす人じゃあ無いと思えた。本来の佐久間さんに戻られたと聞くがそもそも此処に家庭教師に来て一年半ほどでしかもほとんど顔さえ会わない人だ。その当時のしかも限定的なそれも噂の域を出ない情報しか知らない人でもあった。それを判断できるのは今の生き生きした奈央ちゃんの顔がよい判断材料になった。今日初めて会った仁科くんも出された料理よりもこっちをしっかり見てくれて頼もしい。

 出されたワインに一口付けると仁科くんが先ずは先陣を切った。関ヶ原なら井伊直政に遅れず進んだ福島正則隊だ。

「佐久間さんは公務員としては華々しいデビューをされたのですね」

 佐久間は少し顔をしかめたがそこに敵意はなかった。

「それだけに地方へ落とされたのは不本意でしたね」

 仁科の言葉に目許が幽かに緩むとその穏やかな眼光に親しみを増した。

「仁科さんですか、まったくその通りです上司や省内の為に率先してやったことが出る釘になり真っ先に抜かれて仕舞いました」

 入省して早々に幹部候補と肩を並べて頭角を現し始めて下からは注目され同僚や上役からはねたまれて有る不祥事でその責任を背負わされた。そこで人格まで変わりましたと人ごとのように佐久間さんが語ると本当に別世界に聞こえて来るから不思議なもんだった。

「どこでそんなに人が変われるんですか」

 仁科が興味半分に訊いた。 

「家族ですよ特に妻でした。誤解の無いように別れた妻じゃないですよあの女にはとても手出しは出来ませんよ。なんせ上役のお嬢さんでしたからね、その上役からはアッサリと見捨てられると同じ様に離婚ですから監視役みたいなものではと今では思ってます。そこへゆくと今の妻は健気けなげでした。だから突然にたがが外れたように手を出してしまいました。殺人犯はあやめてから初めてその罪の深さを知る、聖人はその前に自分を戒めるそうですね。所詮わたしはエリートコースを突っ走っていても釈迦の手の平で操られる凡人だったんですよ」  

 衝動事件の犯人は実行してから愚かさを知る、聖人はその前に知る。これは土岐承子さんが山崎の戦いで敗れて敗走する明智光秀の心境ですと言ったのを思い出した真美はドキッとして聞いた。それでまだ一度も会っていない清原まりやさんが関心を持ったのも頷けた。

 前菜を過ぎてメーン料理にワインをたしなみながら冗舌に佐久間さんは喋っていた。奈央ちゃんは話を何処まで聞いているのか次のフルーツパフェに挑んでいた。

「歴史は繰り返すと言う言葉は人間の本質を突いてますね所詮人は過ちを犯しやすいように出来ているんでしょうかまあそこで言い方は良くないですが神や仏につけ入る隙を与えて仕舞うのですね」

「苦しいときの神頼み、あの記述式の問題が出たときはそれがピッタリ当てはまった」

 アイスクリームと格闘していた奈央ちゃんが突然言い出した。

「いや神頼みで無く先生のお陰だったんだ」と佐久間が娘を補填して「聴きましたよ衣川さんの歴史から学ぶと言う教育方針は並の大学生とはひと味違いました」

 ーー方程式の答えはひとつだが人の道は千差万別で人の数だけ答えになるんですねその中で記述式の問題はなるほどと万人が頷ける物が高得点になるこれは良い設定です。

「あそこで父の汚名を払拭するにはガラシャさんは踏み留まるしか他に無かったのですかそれを娘と討論しても噛み合わなくて……」

「お父さんは家の存亡、会社、組織の存亡で物事を推し量るからダメなのよ」

「そうだが娘は愛だと言うのですが先生はどうですか」

 急に呼称が変わって真美は可笑しくなった。

「そうね踏みとどまるように進言したのは細川家に仕えて明智玉さんが輿入れしてから侍女頭になられた人ですからそこを加味しなければいけないでしょうね」

「四百年前の話ですから心の内までは見通せないなあ」

「心の内はともかくその血を受け継いでる人がいるのならどうします」

「ホウ、それはまた奇遇だ、衣川さんがご存知ならお目にかかりたい」

 娘の解答は良かった。その時の子孫を衣川さんが知ってると訊けばもう四百年の時の流れが直ぐそこにあるような錯覚を抱いてしまった。しかしそれは幻想でもいいただその時代に浸れればこれに勝るものは何もないと佐久間は小躍りして真美に託した。

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