第17話 まりやと遠藤

 新緑が芽吹く街路樹の並木道をバスに揺られて二条駅に着いた。いつも少し早く着く彼はまた近くをぐるぐると回っているのだろうかと高架下の改札口を見ればそこに彼を認めた。いつもと違った行動力だった。以前は些細な事に神経を尖らせていた。今は待つのが目的でなく会うのが目的なのだ。そこの見極めがこれほどハッキリすると潜んでいた風格が出て来た。

 今まで気付かなかった遠藤がそこに立っていた。二ヶ月前に脳梗塞で倒れた叔父さんを見舞っての帰りに白衣の下にはスラッとした細めの黒いズボンをはいていた彼とすれ違った。彼は品の良い笑いを浮かべた。白衣の裾がもう少し長ければ立派にお医者さんで通りそうな風格これが第一印象だった。

 今、目の前の彼がその時の印象を再び醸し出してくれた。承子さんが「あの人変わったわよ」とこの前に会った時に言ってたがこんなに早く変わりっこない。やはりあの初対面の印象があの人だったのだ。だからこの二ヶ月であたしが此の人をダメにしてしまったのだろうか。それなら実に申し訳ないそんな思いを彼の顔から払拭させるために溢れる笑顔で彼を迎えた。

 あたしの笑顔に感化されたのか少しずつ自信を取り戻して行くのがその充実してゆく笑顔から判った。

「あら待たしてしまったかしら」

 まりやは時間より早く来たがいつもの態度を一変させてこの日は照れ臭そうに言った。それはいつも正確な時間に遇わせてくる遠藤の仕草だった。この日は乗り移られたようにまりやがそうして見せた。

「あたしより先に来て待ってるなんて珍しいわね」

「予定より早く着けば先に来た者が待つのは普通だろう」

「今まで普通じゃなかったくせにどうかしたの」

 どうもしない。じゃあ行こうかと歩き出した。それが余りにも不自然じゃなかった。と思う間に彼が初めてリードしてまりやは慌ててあとを追って並んだ。

「何処へ行くの」

「二条城にするか」

「エッ! 歩くのまだ一駅あるわよ」

「この方が君とゆっくり話せるから」

「何が訊きたいの」

「衣川さんと仁科さんあの二人とあれから会ったらしいね」

 遠藤は何を話したか聞いて来た。その話し振りから今日の主題はそれに成りそうな予感がした。

「あのひったくり屋さんから何を頼まれたのかしら」

 まりやは真美と会った日を思い浮かべた。女の子の友達と喋っていたからそのまま近づくと目の前で急にネコババと叫ばれた。顔を上げた彼女と目が合ったが恥じることなく挨拶された。多分あたしと同じ目であの時は電話しながらひったくられて呆気に取られる遠藤の顔を見ていたのだろう。

「会ったその日にそんな事をやる人には見えなかったからあの時は驚いた」

「衣川さんがひったくったのはあなたのスマホでなくあなたのつまらないおかしなプライド自尊心だったのね」

「気力が失せたまりやさんはそれを今まで正そうとしなかった。今でもまりやさんはぼくにそうしたいのかなあ」

「昔のあなたなら、でも今は無理」

「どうして」

「だって隙がないんだもん、それ承子さんに叩き込まれたの?」

「いや、たたき込まれたのは忠度ただのりの辞世の句」

 彼女が真面に見据えて可怪おかしな顔をした。

「承子さんの寺の書庫で見付けましたよ毛質で書かれた達筆を」

「ああ、あれ、あの人くそ真面目に写経しているから傍に有った書道半紙に落書きしたの」

「惜しいなあ年代物の和紙に書けば何処かの古書店が結構な値で買い取ってくれるのに」

「そんな紙あるの?」

「これは承子さんの聞き伝てですけれど古風な家の昔に描かれた襖絵には下張りには当時の古い和紙が使ってあるそれを使えば……」

「誤魔化せる?」

「でもこの前に退院した和尚さんは難しい。なんせ国宝の重要文化財を贋作だと言い張る人だから」

「あの叔父さんは頑固なだけよ」

 と笑って言った。

「過去は疑って掛からないと真実が見えて来ない、同じくように頑固でなければ歴史を真面まともに見抜けないような気がしますが」

 なるほど此の人は垢抜けしてきた。そこが唯一承子さんのくそ真面目なところかいや仏心に帰依するところなのか。

 二条城に着いた。ひょっとしてこのデートコースも承子さんに刷り込まれた物なのかしら。惚けて訊いても遠藤は笑ってはぐらかすばかりだった。以前ならおじおじしてたがいまは物事に詰まるところがなく機敏にかわされて仕舞った。承子さんは一体どう云う修行を会得して来たのだろう。

 ここは諸侯や朝廷に威厳を示す場所だった。次に彼が所望したのが曼殊院だった。

 うっ! 。何なの城と寺院この組み合わせはと、まりやは思い巡らしても彼の考えに行き着けなかった。

「清原家のご先祖には宮中での天皇に仕えた女官頭を務めた方も居たそうですからこの寺がどう云う関係の寺か現在の天皇家も何度か来てましたね」

「ええ知ってます門跡寺院ですから」

「枯山水の庭に有る松が横に這うように延び龍に見立てた庭は良いですね」

「来た事があるのですか?」

「ええ此処ともう少し北にある蓮華寺の庭も好きですがとりあえず此処を散策しましょう」

 遠藤はグイグイと門をくぐり抜けて石畳の続く小径の先に有る通用門を通り庫裡から座敷に上がり大玄関わきの版画による竹の間、そして狩野派襖絵がある虎の間、南画風のふすま絵である孔雀の間すべてに年代が感じられるほど褪せていたが美的感覚は残っていた。そこが流石に当代随一の画家の真骨頂を窺わせると筆遣いや配置をまりやに説いていた。彼女ただ頷いて聞いていた。そこから長い廊下の先に大書院が見えて来た。

 この大書院へ向かう長い廊下は縁側に張り出した物でなく何もない庭の上に作られた渡り廊下だった。そこでまりやは遠藤が言うところの襖絵に惹き付けられた。古風な物には関心があるが何の予備知識も無いままに見せ付けられた襖絵には余韻に浸れなかった。しかし巧みな遠藤の語りには引き込まれた。特に二条城二の丸御殿、遠侍の間に描かれた虎は躍動感があり今にも飛びかかりそうに描かれていたが、此処の絵は竹林で静観する虎が描かれていた。この虎から解るように遠藤が案内した史跡は武家と公家の対比を示していた。 

 それで今日初めて知ったこの男の一面に有る疑問が湧き上がった。 

「承子さんとはどう云うやり取りがあったんですか」

 承子さんの特訓が生かされたこのリードは成功したと遠藤は思った。

「たった八つの文字を教わっただけです」

 仏心を説く承子さんが説教じみてない悟りの言葉とは。

「何ですかそれは?」

空即是色くうそくぜしき・この世のすべては永遠不変ではないすべては空でありそこから始めなさい、これと対をなすのが色即是空しきそくぜくう・存在する物は空しいから実体でないものを見なさいって」

 二人は大書院前の枯山水を前にした毛氈もうせんの敷かれた廊下に佇み庭を黙して語らず一心不乱に眺めた。

「たったそれだけじゃないでしょう」

 まりやの問いに遠藤は最大は愛だと言い切った。

「まりやさんあなたの先祖は四百年前には細川ガラシャに仕えてた、でも四百年前の出来事なんてあなただけでなく多くの人がもう何の関わりも持ってないからこうして気楽に言えるんでしょう」

「そうかも知れないけどあたしは時々夢に出てくるんよ」

「どんな夢」

「夢って言うかあの場面はテレビや映画で映像化しているから多分それが焼き付いて居るんだと思うけれどでも色んな俳優が演じていても夢の中ではそれがあたしに置き換わっているからこれは夢じゃないんだと現実なんだと意識し出すと夢から覚めてしまうのね」

 ーー三成方が人質として迎えに来るその噂が立つと近隣の屋敷から次々と夜陰に紛れて遠ざかっていった。脱出するガラシャを侍女頭は此処でもし捕まれば忠興様に申し訳が立たないと押しとどめた。その時にガラシャが口にしたのが夫忠興でなく彼女のお父上の名前でした。これ以上は父の名誉を傷付けたくない。その一言が思い留まらせた。でもあたしが押し留めるまでは家臣や侍女には脱出の手はずを整えさせていたのですから。いよいよ屋敷が囲まれるとガラシャさんはあたしを逃がしました。あたしも押し留まろうするうちに火の手に遮られて近づけずあの人の名を叫んでいるところで夢から覚めた。その時は夢に見た俳優のガラシャが土岐承子さんにタブって来る。そこで夢が覚め現実に戻り掛ける狭間であれは間違いだったともう一人の自分が真っ先に語り掛ける。

「夢の中でガラシャを押し留めたことに後悔しても、その代わりの違う夢はまだ一度も見えて来ませんか」

「そう不思議ねえ何も見えないの思い詰めても見えないときは見えないでも見たいと思っていてもこんな夢じゃなかってたこと有るでしょう」

「それはまりやさんが受け継いでいる魂から来るんじゃないですか」

「魂って四百年も受け継がれるのですか」

「好むと好まざるに拘わらず延々と侍女頭の血は親から子へ子から孫へと血は繋がって流れ続ける以上は意志に関係なく永遠不変の営みが続く。そこでふと生きる意味を問うた時にそれを次の子に託したいと言う熱き思いがあれば確実に想いは残る。この枯山水の庭は四百年前に造営されたらしいですがそのままの形を今に伝えているのも次に託したいと言う熱き思いの積み重ねなんです。恐らくまりやさんが夢に度々現れると言うのは本当に言い残したかった物が伝わって無いからじゃないですか」

「本当の想いって何なの?」 

「僕は歴史上の人を先祖に持たない、まして数代しか遡れませんからしかも曾祖父は何者かも不明では天の声は聞こえませんよ。でも記録が残るまりやさんは違うだから祖先がなくした大事な物がすべてあなたの血の中にあるんですよこれは離れられないんです」

「遠藤さんってロマンチストなんですね初めて知りました。でもそれを知ってる人の血だけが遺るなんて清原家の一員であってもその人は家族じゃないんですね」

 ーー何故死を選ばせたかその答えが自分の殻から出て来ないだから夢はいつもそこで切れて仕舞うの。

 まりやは寂しいそうに現世を形作る庭の奥にある仙境を示す蓬莱を見詰めた。

              

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