第15話 先代住職は承子を訪ねる
北方寺の土岐承子さんから岩佐先生に丹波の旧家である土岐家から借りた古文書のデジタル化のために応援を頼んだ。先生の召集令状で仁科と真美、非木川と赤木がやって来た。北山と西谷はバイトに明け暮れていた。山本は学業ほったらかして史跡巡りで旅に出ていた。
多ければ蔵の中を掻き回すだけでこれぐらいが丁度良いと変な理屈を付けてみんなは寺へ向かった。いつもならごった返すが日曜日の早い朝はみんなまだ寝ているのか
真美は非木川に佐久間家で頭がませた奈央ちゃんの様子を伺った。真美が仕込んだドラマ仕立ての歴史観がどれほど役立ったか気になった。
「真美は教科書に忠実に学習指導してないからその矯正にあたしは手こずってるのよ」
「でも担任の先生が初めて挑んだ問題では奈央ちゃんはかなり点数を上げたそうだからあたしの学習指導は成功したとは思わないの」
「将来教育に携わるあたしとしては到底受け容れられないわよだって国の教育方針に逸脱している」
「同じ考えの人ばかりが作る法案だから未知の出来事には想定外だと言って何もできっこないそんな役立たずな官僚を生むだけでしょう、特にエリート官僚ほどその傾向が強い、それで本当の国民の幸せを求められると思ってんの」
「真美ちょっとそれは大袈裟で飛躍し過ぎじゃないの」
日本的な良妻賢母を求めて来た歴史からこの二人は逸脱していると赤木そっと仁科の耳元で語った。これは赤木でなくとも将来の結婚生活を夢見る亭主のあるべき姿だ。しかし護衛艦の艦長ですら女性が
先見のない人達はどう云う境遇で育ったのか封建制度の残る職種の少ない公務員ばかりの過疎地に育ったのかも知れない。だがこの四人に共通しているのは歴史の教訓を現在に生かす試みに熱い夢を抱いている連中達のはずだ。
四人は寺に着いて出迎えはいつものむさ苦しい椹木だった。何の愛想もないこの男に取り次いでもらうと艶やかな和服に身を包んだ美人の住職が現れるこのギャップが堪らなく心を
土岐承子さんは初対面の赤城さんの紹介を受けると
「新茶の
と承子さんは湯飲みを一口付けると茶わんを持った手から両袖がスーと滑るように降りて白いか細い腕が見えた。洋服のように最初から見えていると何とも思わないものが急に見えると胸がドキッとときめいてしまった。その時に視角の果てに居る真美の視線が自分を捉えて居るのに気付いた。真美が乱暴に湯飲み茶わんを置いたのでそれが解った。
湯飲み茶碗受けに茶わんが鋭く当たる音で承子の視線が茶わんに停まりそのままなめるように上り真美に視線を合わせると直ぐに仁科を見て彼女は薄らと笑った。
「今日は丁度二組の組み合わせなのね」
承子の思わせぶりな物言いに赤木と非木川が思わず視線を合わせた。
赤木先輩も古文書の解読には長けてますからと非木川は弁明した。
直ぐに否定するところがおかしいのか承子はそっと口元を袂で隠した。
「あの書庫のような蔵で整理してもらうのには丁度良い組み合わせだと思っただけよ」
丁度手空きなのがこのメンバーだけだがちょっとそこは見栄を張った。
突然玄関の方で大きな物音がした。赤木さんが不審者じゃないかと
「承子は一度も見舞いにこんからちゃんとやっとるか気になってしょうが無い」
襖から先ずは椹木が顔を見せた。
「私の相談もなくいったい誰を案内して来たのです」
「わしの昔の使用人に相談する必要があるか!」
椹木の説明を掻き消すように奥から更に声が大きくなって響いてきた。その声に押された椹木は立ち止まり老人の下がれと云う合図に応じて引き返していった。
一同は椹木が開け放ったままの襖に注目したがまず遠藤さんが顔を見せた。その後ろから彼の肩に
「ちゃんと廊下に手摺りぐらい付けろ!」
そう怒鳴りながら和尚はやって来た。
「ここは介護施設じゃありません」と立ち上がった土岐承子さんに此の人に世話になったと看護師の遠藤を紹介した。
「あなたがまりやが言ってた遠藤さんなの」
「お寺を任されと言っていた土岐承子さんはあなたですか」
おい不自由な老人を立たしたままでいつまで名乗り合ってるんだと和尚はまた声を張り上げた。ハイハイと子供をあしらうように承子は隣の席に招きお茶を煎れた。座るときの着物の
和尚はお茶を一服すると「縁者の承子さえ一度もこんのに」と承子を皮肉ってから仁科と真美を確認してわざわざ見舞いのお礼を言った。
遠藤さんもこちらを見て更に和尚さんよりも嬉しいそうに礼を言った。その顔から二人はわざわざその為に和尚さんに同行を願い出たように思えてきた。
「見てのとおり岩佐さんのサークルの人手を借らなければいけないほど整理に追われて居るんですよ」
だから見舞いに行けないそれも叔父さまがもっと整理してくれなかったからと矛先を和尚さんに向けていた。サークルのメンバーはお茶を飲みに来たのじゃないと早々に作業を始めようと奥の書庫に向かった。
「遠藤さんも一緒に調べられますか?」
「理科系のぼくには歴史は取っ組みにくいのですが」
「まりやに思い入れがあるのならその考えを改めないとまた失速してしまいますよ歴史通になれば話が噛み合ってあの
「遠藤くんそうしろわしがお暇するときはさっきの椹木を呼んでもらうから」
それじゃあと遠藤は奥に行った。あの人がリハビリの担当者なら治りが早かったのも頷けると承子は彼を見送った。
「承子、手伝ってもらうのは良いが余り深入りさせんようにな」
「深入りも何もこのサークルは元々そう云う趣旨で活動しているのですから気にすることはありませんそれに同じ古文書でもあの人達とあたし達では価値観が違いますから」
「まあそうだがしかし岩佐の奴は
「可怪しなと言いますと」
「なんか学術調査のようでなあ持論に沿わない物が出ればあの男なら細工されそうだ。あの志賀島から出た『漢倭奴国印』の金印のようにな。あれも謎が多すぎる。わしは本物かどうか疑っておる。福岡藩の学者がコッソリ埋めて農民を正直爺さんのようにけしかけてここ掘れワンワンで出て来たような気がする。あれは江戸時代に作られた贋作だ!」
「叔父様はあれは国宝に指定されているのですよ。その物まで偽物と思うのですか」
「発見の仕方も福岡藩が作為したようで怪しい。第一に作った漢王朝の痕跡があの金印から見つからないし江戸時代の彫金のようにも見える。同じように丹波を平定した明智光秀の偉業が細工されてはたまったもんじゃない」
叔父は遠い昔にも岩佐のような男が居たんだとまくし立てていた。
ーーそんな男がいようがいまいが事実を遺したい執念に駆られた人が書き留め長いときの果てに忘れ去られた物をこの世に導き出すそれ以外に何も望むものでもない。
和尚は承子の考えに同意したのかそれとも思いを伝えられたのか遠藤を待たずして
リハビリのお陰で右手足の麻痺は快復したが完治には至らず歩くには杖を必要とした。承子は玄関まで付きあうと後は椹木に任せた。
奥の書庫では四人が二組に分かれて丹波の旧家から借りた資料をカメラで複写していた。
遠藤はまりやが模写した物を探しに来た。仁科が一度は紙くずにしたがそれは残っていた。
薩摩守忠度の辞世の句ねと言って真美は遠藤に見せた。見事な草書体で書かれた崩し字であった。承子さんの話だとまりやさんは楷書も行書も見事な筆さばきだそうだ。
「薩摩守忠度って誰その人」
これは仁科くんより重症だと真美は悟った。
「知らないのそれじゃまりやさんを口説けないわよと薩摩守忠度は平家の武将で平清盛の異母弟。一ノ谷の合戦で討ち死にするその時、箙(えびら)に結われた
「えびらってなんなのですか?」
「矢を入れる物なの簡単に言えば矢筒で肩や腰に付けているのそこに
ーーさざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かなーー
なのこれらの和歌をそらんじればまりやさんのあなたに対する心象がガラッと変わるわよ」
ーー私心としては滅びた平家への鎮魂歌として俊成が詠んだ句に思えた。
「余りそう云う話を彼女はしなかったけど」
そうか二ヶ月で魅力を無くしたのはその辺りかも知れないけど此の人のおっとりしたところが中世の貴族に似て惹かれたのなら復活は十分期待出来る。
「そう云う人なんですよまりやさんは」
歴史マニアの真美には一族の興亡を守る意義に生きる人だと清原まりやを見た。それは四百年続く魂の叫びの様に聞こえた。
仁科はこうして見る風景が遠藤さんから真美がスマホをひったくったのは躊躇する彼への愛の鞭に見えても不思議じゃなかった。
向こうの方では赤木と非木川が手際よくカメラで古文書を複写していた。はいこれと次々と真美もさっと目を通して手際よく渡してくれるがその慣れた手付きがいつもと違ってどうも事務的で物足りなかった。やはり気持ちに慣れがあるとこうも違うかと向こうの二人と見比べた。
承子さんが和尚さんは帰ったと伝えに来た。遠藤はじゃあ表通りまで送らないと慌ててみんなに断りを入れたが椹木が送ったと知って気まずそうにした。
「そんなに気を落とさなくてもあなたによろしくと云って帰ったわよ」
叔父様からあなたの事は聞きましたよ。それで良かったらまりやの好みそうな物を特訓してあげると承子さんは遠藤を気遣った。
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