第9話 奈央の家庭教師2
今朝はゼミでなく講義室で行われる授業だから多少遅れても入室は目立たない。しかしこれ以上に遅れると講義の内容が掴めなくなる。それで真美は多少目立っても急いで部屋に入った。壇上ではグレーの髪をオールバックに掻き上げてこの歳では出世の遅い講師が日本文学概論を述べていた。この先生は紫式部の大ファンだその偏りが出世を妨げていた。それ以外の講義に熱が入らないのだ。まだ新学期だが早々と平安時代の文学論を題材にして淡々と説明していた。この講義は仁科や
いよいよこの先生が得意とする平安時代中期に入った。源氏物語こそ世界最古の物語である。紀元前から古今東西色んな書物があったがそれらは日記とか歴史書とか当事者である主君や王の記録などで本格的な物語ではない。言い換えれば今日の小説の類いと云う観念から見れば源氏物語こそ世界最古の小説であると云う講義の内容だ。これが日本文学概論の根本をなすものだと講師が益々に熱弁した頃にチャイムが鳴り授業は空しくおひらきになった。この先生はチャイムが鳴ると先ほどの熱意が冷めて机上の本をたたむと出席簿に申告された遅刻者を記入する。筆記のために俯くとざっと落ちた髪をまたオールバックに掻き上げるとサッサと惜しげも無く退室した。それほど気になるのならヘアーリキッドでも付けれゃあいいのにと誰かが言った。それを合図のように途端に私語が充満してゆき講義が終わった真美は二人に声を掛けた。
「丁度良かった
二人が講義室を出ようとすると仁科もやって来た。暇なら一緒に来たらと真美に誘われて付いて来た。日当たりの良い花壇のある場所のベンチに三人は座り込んだ。
真美の頼みは彼女のバイト先の佐久間奈央の家庭教師であった。学校の成績に問題が無いのにクビになった。今その子の中間試験だから終わる頃に家ではさっそく次の家庭教師を探していた。でも気に掛けてる子だから他人任せには出来ない。そこで史子に白羽の矢を立てた。
「生きる目的を持たせた。そう云う原因で辞めさせられたのにその後釜に同じ友人だなんてそれじゃあ辞めさした意味が無いじゃん」
と非木川史子は慎重な物言いだ。
「だから問題はお父さんだから大学で募集して別の人に来てもらうことになってるから夫人とは口裏を合わせて欲しいの」
と真美は拝み込んで頼みだした。
「それはややこしい問題ねそれであたしに務まるかしら」
と非木川史子は真美の顔を覗き込むように言った。
「そんなに難しい子じゃあないの難しいのはあの家庭なの、そこさえキチッと抑えておけば問題は起こらないはずだから」
万事そつなくこなす真美がそれだけでくびにする家庭があるとは思えないそこで。
「家庭崩壊の危機があるの、その家には」とストレートに聞いた。
「ない、と今は言える」
今はと曖昧な答えに非木川は真美らしくないなあと余程に手こずってると見て取った。
「根源は何処にあるの」
「多分その子のお父さんがどうも気難しい。……らしい」
母親は子供の教育の相違で夫から暴力を受けて寺へ駆け込んできたのは事実だがまだ一方の主張しか聞いてなかった。それが真美の言う多分、らしいになった。
「バイト代を出す権限は父親だからその人が反対すればその家には家庭教師としては行けないでも成績に問題がないのなら家庭教師とすれば納得がいかないでしょう。何故話し合いで収まらないのか知りたいけどこれは土岐承子さんも望んでいるのよ寺に来れば拒まないけれどお父さんの言い分も聞く必要があるって言ってるから」
「なるほど判った」
非木川がアッサリ引き受けた。ありがたいと同時にこいつも暇なんだと思った。さっそく真美は佐久間夫人に電話で予定を聞いた。
「今夜には夫と相談して決めるけど来れば多分テストが終わった来週からになると言われたけど……」
非木川は了解した。
「これで真美の相談の件は終了したのね」
非木川は退屈なのは困るが金銭的な余裕からか基本的には自分からバイトを求めない。だから円満な家庭は壊したくないが、この話に乗る気なのはすでに傾いていれば別でやりがいがあるらしいのだ。
「まあね、それで行くと決まれば特に気になるのは奈央ちゃんの組の担任で社会科の先生が記述式の問題を出すらしいのその問題とそれを奈央ちゃんが何て書いたかこれがどうなるか一番の心残りだから案外父親の素性の一遍が垣間見えるかも知れないそこを突破点にして欲しい」
「それじゃあまた壊すの」
非木川はその奈央ちゃんの単なる家庭教師じゃないと判りかなりの興味を示した。
午後の大学には多くの学生が書物の入ったバックを抱えて新緑の立木がある広場を行き交っていた。広場に点在する花壇の近くにはピクニックのようにサンドイッチを頬張る学生もいた。ベンチの三人は丁度目の前を柔道着姿で隊列を組んで裸足で駆けてゆく彼等を見送った。
「ところでさっきから黙って聴いていたけど仁科くんも何か有りそうね」
「頼まれた。丹波の山間の町にある旧家で法事があるンだけど車でしか行けないらしいそこで山本さんに頼んだけど都合が付かなくてそれで代わりに運転手を頼まれた」
あの人は仁科くんをかなり
「仁科くんは承子さんと一人で行くの」
「ウン、運転手だけだから」
「じゃああたしも付いてゆく」
「良いけど法事だよ単なるドライブとちょと違う」
仁科はちよっともったいぶってるが気持ちはルンルンのようだ。非木川には弾む仁科の邪魔にならないように聞き手に廻った。
「でも丹波の旧家でしょう土蔵にはきっとお宝の未発表の古文書がわんさかと眠っていたらどうするの法事の間に調べたいの」
「なるほど判ったそれはいい」
「でしょう、で、場所は丹波の何処なの」
「詳しい事は聞いてないけど細川家の領地に近い所で丹後に近いらしいだけ」
「じゃあ一日仕事ね」
「次の週末なんだそれと非木川さんの耳にも入れておくけど承子さんがコッソリと佐久間さんの職場である区役所に行ったんだって」
ーー佐久間は窓口で苦情の相談を受付けていて承子さんは何食わぬ顔をして相談に行った。その内容がこの前のことだけどもちろん匿名で本人もそうとは知らずに相談を他人事のように聞いていたらしんだ。そこで承子さん曰く。あの人は夫人の言うのが正しければ二重人格者じゃないかしらと結論したから非木川さんはそこをよく観察して欲しい。ただ目に一点の曇りもなかったのはそれだけ仕事に忠実なのか、持って生まれたものなのか。短い面談では察しが付かなかったそうだとも付け加えていた。
「承子さんも中々やるわねでも仕事絡みなら相手も本音を見せないわねそれ以上に突っ込むと佐久間夫人の事だとばれてしまえば元も子もないもんね」
と非木川は承子さんの難しい立場を代弁した。
「だいたい役人は与えられた範囲のものは渾身の力でこなすが彼等には想定外のものにはめっぽう弱い。そこでひと言余計なものを言えば簡単に役人の牙城を崩せるのだけれど承子さんはその目だけを見てひとまず一線を踏みとどまった」
「あの承子さんの視線を
大人の対応をした承子さんに真美は可笑しなところで納得している。
「ところで駆け込み寺は江戸時代は縁切り寺と呼ばれていたそうだ」
「それは男性社会で妻から離縁を言い出せなかったからよ」
「そんなお寺でも妻に問題があれば追い返されたそうだから江戸時代でも何でもかんでもじゃあなかったそうだ」
ーー江戸のしきたりがユニークだった。夫が離縁に応じない場合に行くんだけど連れ戻してもお寺に入れば保護される。その前に阻止しょうと夫は止めに入るが極端な話では身に着けていた物を例えば
「強情だと随分と色んな人を巻き込んでしまうのね、でも江戸時代ってウェットな人情話ね」
「現代では結構クールな問題になっちゃうのに昔はもつれにもつれて大勢の人を巻き込んでいたんだ名主さんなんてそんな痴話に巻き込まれてもう煩わしいだろうね」
非木川は昔の別れ話なんてそんなに湿っぽいのなら我慢すればいいのに。でもやっぱりこの時代はそれでも駆け込む女の心理はもっと調べる意義が有ると言っていた。
もう何周目になるのだろうか柔道着姿のさっきの一団が、あの溌溂とした一周目の隊列は乱れて最初の意気込みは吹っ飛び、何人かは脱落して後から喘ぎながら目の前を通り過ぎた。乾いた風に吹かれて無表情のままそれを三人は目で追った。
「勝手に問題を飛躍させないようにお母さんが我慢すれば今は丸く収まりそうなんだから」
騒がず見守れば三方でなく一方が矛を収める。そんな風に聞こえる仁科の物言いに真美はそれじゃ非木川に奈央ちゃんの家庭教師を引き継ぐ意味が無いと。
「そこが納得いかないから気を揉んでるのよ」
と感情の爆発寸前を抑えられてる夫人にこれ以上の我慢を強いられる身になれと言うの、と真美は苛立った。
この問題の傍観者の非木川と仁科には奈央に対する真美の心情が伝わりにくいのがいささか気掛かりだった。
「
「それで上手く行かなかったからクビになったんじゃないの」
それを言われればもう手の施しようがなかった。
「非木川さん真美ちゃんが言うのは高校さえ合格すればお父さんは何とかなりそうだから今はしっかり勉強するように指導して欲しいんでしょう」
これで三方が丸く収める妙案をやっと導き出したようだった。あとは非木川の努力次第だから真美は自分の失敗を教訓にして奈央の指導方法を伝授した。
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