第6話 寺に駆け込んで来た女2

 此処へ来た経緯を淡々と語る佐久間夫人ではあったが、その表情は疲れ切った顔をしていた。それが今までの言葉に高い信憑性しんぴょうせいを加えていた。 

 佐久間夫人から家庭教師の暇乞いを告げられてどれぐらい経つだろう。中間試験を前にして訳ありとは思ったが落ちた頬で少しやつれて見えた。あれからご主人の暴行がエスカレートしたならば彼女は随分と長く耐えたらしい。それはやはり一人娘への思いやりに込められていたのか。とにかくこの日に頂点に達したようだ。

 ーー実は三日前に実家へ逃げ帰ったのですか昨日引き戻され、それで今日は家庭教師に来て頂いた真美ちゃんに話を聞いてもらうだけでもと大学へ寄ったそうだ。 

 行き先がお寺と分かり思い切って飛び込んだ。本堂に居た承子に椹木さわらぎが婦人の来訪を告げてこの部屋で待ってもらった。

「なんか意味有りと思ってましたけどそうでしたか。じゃあ奈央ちゃんは具合が悪くなかって安心しました」

 説明を聞き終えてまず安堵して真美は言った。

「本当のことが言えずゴメンナサイねでも連絡できなくてもこうして会えて気分が楽になりましたからもう帰ります」

 顔にはまだ恐怖が浮かんでいる。引き留めないと真美は思った。

「おばさんあの家にまた帰るんですか」

 真美はチラッと承子さんを一瞥して語る。

「実家にまで押しかけてこられたて離婚もよぎりましたが両親に押しとどめられてそれに娘も気になりまして……」

「分かりましたじゃあここへ居て頂いてよろしいです」

 承子は即刻即断で言った。これには佐久間夫人が驚いた。

「でも相手に押しかけてこられればご迷惑では……。それに上がり込まれたらお困りでしょう」

「その心配はありません佐久間さんをここへ案内した体力には自信のあるあの男が控えておりますから」

「凄いですよ一度ご覧なら分かりますがなんせ鬼瓦見たいなもんですから」と言い掛けて一言多いと真美に膝をつねられてしまった。

「ですからご主人が連れ戻しに来られても実家のようには引き渡しませんからご安心をここであなた自身の身の置き所をお考えなされればよろしいと思います」

 承子の淀みなく言い切る姿にこの場に居合わせた人々の安堵感は計り知れない。

「承子さんを見れば出家と云う道もあるようです、でも何処で修行されて得度を積まれたのか知りませんが……」

 知らんなら言うな、それは承子さんが直接云えば良い。出しゃばるなどうも世間並みの苦労が身についてないらしいと真美は仁科を見た。

「修行僧の勤行は俗世界から逃れるのではなく仏心を求めるものですから佐久間さんはお聞きにならないように」

 余計な事を言う子ねぇと承子も仁科に鋭い視線を浴びせた。

「出家なんてとんでもないあの厳しい修行僧の映像を見ましたがまだ夫の暴力に耐えた方が楽な気がします」

 と少し頬を崩して佐久間は言った。

「でもここに居る承子さんは華奢きゃしゃな体をしてますがそんな修行をして徳を積まれたのですから」

 本当にそうなんですかと佐久間は華奢な承子を見ると何処にそんなパワーが潜んでいるのか勘ぐりたくなる。それは言った仁科も同じだった。実際に承子さんからそんな話は一度も無かった。それでもそんな雰囲気を漂わせている。そこが彼女にはある種の神秘的な要素を醸し出している。

「それは厳しいですよ断食もありますからねそれに睡眠も、夜も寝ないで昼寝して山谷を駆け巡る」

「ハア? それは何ですか」

 珍しく承子さんが素っ頓狂な声を上げた後に口元に片袖を添えて笑った。

「仁科さん見て来たような嘘をつくんですのね」 

「いえ、見て来ました」

 仁科はおどけた眼差しを真美に向けた。彼女はそれに応えた。

「嘘、ばっかり。仁科くん、嘘八百もそれぐらいにしたら」

 仁科くんの今までの承子さんへの突っ込みは彼女の正体に迫ろうとするものだと察した真美が言い過ぎるとこの辺で止めに入った。仁科くんには良く分からぬ人だが実に思慮深いところがあるらしいと真美は今日知った。

「この寺に籠もり仏さまを拝むだけでも功徳くどくはあります」

「仏さま? 真美ちゃん見た? 」

「ううん、見てない」

「モウ、うちの仏さまは秘仏じゃありませんから。この部屋続きの向こうが本堂ですからそこに薬師如来の御仏様みほとけさまが坐像されてます。毎日拝めば自ずと道が見えて来るのではないですか」

「私にも見えますか? 」

「そう思っているうちは何も見えませんからそれは何も悩みもない証しになりますから、先ずは自分を消すことです。あらゆる煩悩を断つことです。無心と言えばいいかしらそれからご自分の心を厳しい高台にまで引き揚げてご本尊と対面して下さいそうすれば修行僧でなくても仏のご加護が賜りますからそれからどうするかは本人次第です。此処に落ち着かれるのなら奥に六畳ほどの離れがありますからどうされます」

「本堂があったんですか」

 佐久間さんが思案にくれる束の間で仁科が言った。

「まあ! 失礼ね、ここは御仏みほとけをまつるお寺ですよ。でも仁科さんは仏門でなく歴史研究の資料を求めて来られた方には本堂へはご案内しておりませんから」

 承子は仏門に帰依する欠片もなさそうな二人に素っ気なく言い放った。それもそのはず真美と仁科には薬師如来と言われても仏像はどれも似たように見えた。

「旦那さんが暴力を振るのはこれが初めて何ですか」

 まだ結論の出ない佐久間さんに真美が訊いた。

「傲慢な性格の亭主ですが娘の手前では手出しは控えていましたがそれに近い暴言はしょっちゅう言われてました」

「どうしてそんな人と一緒になったんですか」

 恋をする思春期にそんなものは何の意味も成さない、それを知ってか知らずか真美は言ってから引っ込みが付かなくなった。

「最初はそうでもなかったんですが、見る目がなかったのですね、まさに恋は盲目でした」

 佐久間夫人が答えてくれて真美は失言を免れた。

「じゃあネコ被ってたんだ」 

 仁科の無神経なこの回答に真美は戸惑った。

 どうも佐久間夫人は恋愛結婚だった。それが娘が成長するにつれて気持ちが遠のいてゆき今ではスッカリ家政婦に変わり果てた感じだった。

 何か寂しいねと真美が仁科にこっそり告げた。それがどう云う意味するのか彼は計りかねた。

 承子は迷える佐久間夫人を落ち着かそうと本堂へ案内した。

 真美は娘の考えを飛躍させていた。それが中学生らしからずとは思っていない。人は遅かれ早かれ自分の考えを持つ物なのだ。それが中学生だってかまわないしそれをよく思わない大人が間違っている。人は生まれた時から一個の人格を持ってこの世に出て来る。それを正しく補助してやるのが傍に居る者の努めだ。真美はそれを忠実に実行しただけだ。負い目はないそれがこう言う形で返って来たそれが寂しいのだ。

 ほんの十分ぐらいだろうか本堂から戻ってきた夫人が。

「あたしが奈央ちゃんにやりたいことやれば良いと言ったのがこういう結果を生むなんて寂しい話ですね」

 とポツリと呟くように言った。

 なるほどそう云う事かとやっと仁科くんは納得した様子を見て真美はホットした。

「真美ちゃんは奈央の思春期の曲がり角を迷うことなく季節に咲く花のように導いてくれました感謝してます」 

 佐久間さんは真美ちゃんを擁護した。  

 季節に逆らって生きては禍を残しますから娘さんは正しい道を歩き始めたと承子も賛同した。 

「皆さんにそう言ってもらえればこの仏門を叩いた甲斐がありました」

 佐久間夫人は言いたいことを言って胸のつかえが下りたのかやはり家に帰ると言った。

 煩悩が消え果てた言葉と承子は受け取って認めた。

 ならば奈央ちゃんの成長の過程を見たいと真美の同行を快く佐久間は認めた。

 驚いたのは仁科だった。まだやり始めたばかりの複写をどうすると心細げに真美を見た。

 かまわず真美はご一緒しますと佐久間に誘われて部屋を出た。

 哀れに取り残された子犬を抱き抱えるような承子の目が仁科に注がれた。

「仁科さん書庫にあるのは遠い昔に凍結保存されたものでいつでも解凍できますが娘さんは今見届けてあげなければならない人ですから」と凜として言い放った。


 真美と佐久間夫人は車が頻繁に往来する通りでタクシーを拾って佐久間の自宅にもどった。学校からすでに帰宅していた奈央は玄関で母と一緒に居た真美に驚いた。

「先生どうしてここへ」

 先生と呼ばれて真美はヘソが痒くなった。

奈央ちゃんのお勉強を見に来ましたもうすぐ中間試験でしょうと言って真美は奈央の部屋に消えた。婦人は台所に行きおやつを作り出した。

 奈央の机の上には教科書はなかった。二人はただ実にたわいもないお喋りに呆けていた。時折甲高い笑い声が部屋から零れて響き渡った。

 直ぐにそんなメールを安心させる為か真美は送ってきた。

 それは縁を切るか繋ぐかは今度は娘さんと一緒に考えますという夫人のメッセージだと承子は言った。

 仁科も真美が去った後を承子は複写を催促せずに庭一面にはびこる草に目を掛けた。

「この草からは来月の終わりから秋まで順次花が咲きます」

「夏に向かって何の花が咲くのです」

「桔梗です」

「あれ全部そうなんですか」

「そうです。だからここは近在から桔梗の寺として親しまれてます」

「いつからそうなんですか」

「ずっと昔からでもう四百年になるかしら」

「その意味は何なのですか」 

「いずれ解りますそれより歴史研究サークルの山本さんと云う人が丹波の周山城跡へ行かれたそうですねその城跡を見たいのですがそれで案内を乞うて欲しいのですが頼んでもいいかしら仁科さん」

「それは一向に構いませんがそれより今日の佐久間さんはどうしたもんでしょう」

「佐久間さんですか、本堂では夫人は薬師如来の御仏様と無言で対面していました。留まるのならそれも良し、去るのならそれも良し、今はあの人に任せて暫くは捨て置かれるのがよろしいでしょう」         

 

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