第4話 土岐承子とサークル活動

 学食で昼食を済ませた仁科は自動販売機の前でささやかな食後の口慣らしに缶コーヒーを買った。鈍い金属音が響いた取り出し口から缶コーヒーを取り出そうとすると「しけてるのね」と言われて振り返れば衣川真美が立っていた。仁科は肩にカメラを掛けていた。

「郊外にあるこの大学の近辺には美味うまいセルフのコーヒー店が無いからね」

 確かに唯一ある近くの喫茶店では一杯の珈琲が学食の定食より高かった。

「講義のない昼からカメラ担いで何処へ行くの? あてがなければ岩佐先生が珈琲を奢ってくれるそうよ」

「先生が、そんな有り得ない? 有り得ない事をするという事は何か下心がありそうだな。学生と同じで先生は土岐承子さんを口説きに行くのじゃないでしょうね」

「まさか、新婚の先生が? 」

「真美ちゃんも見ただろう土岐承子さんを、彼女は十分に乗り換える器量ですよ」

「見た目だけでどうかなあ、第一に山本さんの提案を直ぐに受け容れるなんて初対面なら遠慮ってもんがあるはずよ。そんな女に何を考えてんの、先生より仁科くんが感染したんじゃないのうちの学生どもに充満している野次馬病に……」

「そんな伝染病があったけ、もしあるとすればそれはきっと夢遊病者だ」

「話に乗ってくれるのはいいけどあたしの冗談にそんなに難しく考えなくてもいいでしょう」

「それもそうだ現実に戻そうそれで珈琲の代価は何なの」

「例のお寺に行くんだけど二人誘われてるの」

「やっぱりそうか、で、先生が他に二人と云うことは俺もか」

「嫌なの」

「真美ちゃんのデートの誘いを断る理由なんてどこにもないよ」

 もっともだ。この春に入学して校門の前で真っ先に部活の勧誘を受けたのが彼女の居る歴史研究サークルだった。連休には近辺の城跡を巡ってスッカリ一員になりきれたばかりだ。

「うぬぼれないでよあたしが誘ったんじゃないから岩佐先生があの寺男に抗体が出来ているのは仁科くんだけだからって言うの」

 抗体! あいつは何のウィルスなんだ! しかし購入ボタンを押す前に声かけをしてくれなかっとぼやいてもしゃあないかと缶コーヒーを鞄にしまった。

  *

 大学の直ぐ傍にあるこの喫茶店は珈琲通を唸らせる一品を出す店だった。だから本場の珈琲を味わえる教授連には受けていて学生は全く見掛けないからいつも空いてる。その一角を岩佐先生は占拠していた。

「やあ来てくれたかさっそくここのマスターが腕によりを掛けた特上品の珈琲を飲ませてやるよ」

 いやに張り切ってるなあ余程にあの寺男の噂が響いてるのか。そうなると短期間で飼い慣らしたあの土岐承子さんは凄い猛獣使いになるのかなあ。

 マスターは注文を受けてから豆を挽いて熱湯で蒸すように淹れてゆくと香ばしい香りが鼻腔に注がれた。

「どうだインスタントに慣れた者には格別の匂いだろう」

 先生はまず香りを味わってから出された珈琲に一口入れた。

「ところで呼び出された用件をまだ伺ってませんが」

 仁科は飲む前に訊いた。

「まあ先に一口飲みたまえ、別に飲んだからって君には十分に拒否権はあるんだから心配は無用だっ」

 隣の真美はすでに飲み出していた。二人はグルか。そう云えば先生は女子は非木川より真美ちゃんの方を可愛がってるなあ。今日彼女を使ったそれ自体ですでに俺の拒否権を薄弱にしている、いやそれどころかあの入学時の勧誘に似た強引さが目立つ。

「仁科くんは土岐承子さんには気に入られてるらしいね、それも寺男に気付かれないようにお膳立てしたのはわしだよ」

 嘘つけ! 彼女の名前も知らなかったくせに。あの日は道に迷わず寺に行ったら叩き出されてる所だったのに。まあ今更文句を言っても仕方がないか。

「ところで仁科くんはサークルに入った以上は歴史には興味あるんだろうゴールデンウィークには幾つかの城址を廻ったが何処が良かった」

「竹田城はやはり廃墟の方が栄華を偲べていいですね」

「だったら安土城の方が良かったでしょう」と真美は赤松氏が城主だった竹田城より織田信長の城が規模や風格がダントツだと言い張った。

 ーー交易で莫大な利益が上がる良い港を持ったお陰で地の利が良かっただけやと仁科が言った。

 ーー津島の港は父の信秀が手に入れたものでその恩恵は受けたけど。それを飛躍発展させて尾張を豊かにして領地を拡大させたと真美が反論した。

「おいおい二人とも何を言ってるんだ此処は教室じゃないんだぞ議論はそれぐらいにしといて寺へ挨拶するために仁科君をここへ呼んだのだろう」

 ああ、そうだっけここで歴史談義をしている場合じゃないと真美は岩佐先生を土岐承子さんに引き合わせてあげてと仁科にせがんだ。

「何で、ぼくは先生の紹介で土岐承子さんに会ったのにその先生が今度は逆に引き合わせてくれなんて可怪おかしいです」

「そんな屁理屈を並べてないでどうなのよ」

「これは屁理屈じゃない正論だ」

 と二人はまたまた揉めだした。

ついに先生は「お前らいい加減にしろ」とグウの音も言わさず寺に向かった。

 寺男の椹木さわらびとの一悶着のあとに玄関の板の間と土間を分けてある長い黒光する上がりかまち前に靴が一足有った。椹木は三人をそこに待たして奥へ行ったが、彼の愛想が悪い原因がこの靴の持ち主の先客にあった。

 靴のぬしは古書を扱う古本屋である。店主はここの資料を野次馬学生の噂を聞きつけて買い付けにやって来た。

 店主はここの古文書をまとめて百万でどうだと云っている。古本屋のあるじは一つでも値打ちの在るものが見つかれば十分に元が取れてテレビや新聞で報道されれば書店の宣伝にもなる。そうなれば安いものだと値踏みをしていた。

 土岐承子はその古本屋の親父に苦戦していた。

「是非売って欲しい」と古書店のあるじは傾いた店の存亡が掛かっていると粘りだした。

 もう非常手段で椹木に武力行使で追い払うと決断した矢先に手際よく椹木がやって来た。こんなに気が付く男とは思わなかったと頼む矢先に椹木から珍客の来訪を告げた。

「直ぐにここへお通して」

 と椹木に即答すると彼は古書店のあるじに大学から先生がやって来てると追い返した。あるじと岩佐は部屋の入り口でかち合わせした。双方はどちらともなく挨拶を交わして擦れ違った。岩佐たちは先ほどまでとぐろを巻いていた古書店の主の席へ座った。土岐承子は仁科と真美を見てひと息付いた。

「お知り合いなのですか」

 そこで紹介された岩佐にさっそく春風になびく声で尋ねた。

「大学へ時々出物の本はないか立ち寄って来るだけですが、さっそくここを嗅ぎつけてやって来よったか。めざとい奴ですから気を抜かないようにして下さいよ、と云うのもあいつは学術的価値より店で売れるかという価値の評価しかし無い奴ですから」

 真美と仁科が口を挟む間もなく初対面でズケズケ言うところはさっきの店主と変わらない。承子は気にしてないのか微笑みながら聞いている。

「それが商売ですから別に気にしていませんから、それより私にはある戦国大名の動向が分かる書き物の古文書を捜してるんですけれど、日記ならもっと良いんですけれど見つからなくてしかしここへ来られたのですからこれから暇を見付けては奥の書庫へ見て廻るンですがもう借金や貸し付けの証文ばかりでウンザリしてますの」

 今日は一本に束ねてないのか時折前で分けてる髪が下りると片袖を押さえながら腕を伸ばし耳の後ろへ回すその仕草を仁科は見とれていた。

「承子さんは熱心なんですなぁそれで一体何を捜してるんです」

「そこまではお話して出来ません私の個人的なものですから」

「なるほど益々気になりますなあ、気になると言えば土岐承子さんは岐阜の出身とかお聞きしましたが」

「どうしてそれを……」 

 微笑みに合わせて幽かに揺れていた承子の目が止まった。

「いやあ先代の住職の承徳和尚しょうとくおしょうとは懇意にしてましてそれが脳梗塞で倒れて今は介護施設でリハビリ中ですがその和尚の話では岐阜で資料を探していた時の縁で知り合ったそうですね」

「ええそうですが」

 引き締めるように彼女は襟元を直した。

「やはりそうでしたが、岐阜と言えば美濃の国、美濃国と言えば守護は土岐家でしたね」

 今まで気にしていたものを先生はズバリ指摘した。仁科と真美は承子の反応が気になった。

「それがどうか致しましたか」

 ほとんど表情が変わらない、いやこれがこの前見た氷の微笑に近い。

「いえ歴史研究家としては飛びつきたくなるお名前でしたから繋がりはないんですか」

「それは肯定も否定もしませんからご自由に」

 ちょっと承子の目許が緩んだ。

「グレーゾーンと言うわけですか」

「いえ、ミステリーゾーンと言って下さい」

「なるほど言われて見れば我々が調べる歴史そのものの史実自体はあやふやなミステリアスな所がありますから」

「あやふやどころか史実を歪めてます。美濃源氏で守護の土岐家が零落した事実を歪曲してます」

 彼女の緩んだ目許が引き締まっても表情はまだ優しさを保っている。それが仁科には不思議で堪らない。真美の瞳は絶えず仁科と土岐承子を行き来している。       

「そうは言っても実力の世界ですよ。土岐氏が美濃を追われたのは動かぬ事実です」

「しかしそのやり方が尋常じゃあないでしようそれを言いたいのです」

「それが実力主義の下克上の戦国の世の定めですからまさか承子さんほどの毅然とした人がそんなセンチメンタルな思いに取り付かれているんじゃあないでしょう」

 承子の表情は変わらないが岩佐を見る瞳だけが笑った。

「そんなことはありませんただ歴史を直視して欲しいだけです」 

「難しいですね歴史は勝者によって書き換えられるし破れた者は歴史から消されるか悪者扱いされますのが常ですからだから抹殺を逃れた記録はそれ自体すでに埋もれてしまいますから」

「だからこそ名もなき人がしたためた古文書を多く集める必要があるのです」

「なるほどそれがあなたの使命ですか」

「いいえただの歴史の傍観者に過ぎません岩佐先生もただの傍観者でしょう」

 承子はひと息入れるように両肩に落ちた髪を後ろへ回した。

「そう言われれば現在を生きる者はすべてそうですねだから書き換えるなんてお恐れ多いことを考えないで下さいよ」

「当然ですけれど歴史を塗り替える古文書が見つかればその限りじゃないでしょう」

「その点では土岐さんの考えと我々の歴史研究サークルは一致してますから共同でやりませんか先代の承徳和尚はそこが消極的と云うかさっきの古本屋の店主みたいに良からぬ企みがあったようですから」

 なるほどと土岐承子は笑った。その笑顔に吸い込まれそうになる仁科に真美は尋常ではなかった。

 その先代が全く手入れを怠った為に薬草畑にはかなりの雑草がはびこみ手入れを必要とした。それとともにほとんどの学生がにわか歴史研究者だから学生は薬草もそうだが古文書も読めないから解読は容易でなかった。

 この訪問は双方が初対面だった。これで最初は緊張したのは岩佐であって土岐承子はいたって平常心だった。押し気味に話ても途中からも岩佐には笑う余裕はなかった。

 古くからの檀家のあるじが亡くなると住職はその家を訪れて倉や書庫に眠る資料の古文書を譲り受けて寺に持ち帰って保存していた。岩佐は先ずはそれらの資料がどうなっているか尋ねた。

 とにかく今は整理に追われる土岐承子は先ずは仁科のカメラに目を留めた。

「仁科さんはカメラにも興味がお有りと見ました。それでさっさくかなり性能の良いカメラを持ってますのでそのカメラで資料の複写を頼んで良いかしら」

 仁科は画質の高い解像度の高いカメラで土岐承子の持つ古文書の複写を引き受けた。これで土岐承子はいちいち書庫へ調べに行くより複写してパソコンに取り込み閲覧しやすくなる。これで整理が進むと価値ある資料の発見も早くなる。

 顧問の岩佐先生は新たに世に出てない古文書を発見することで一躍脚光を浴びたいと望んでいた。それで北方寺の歴代の住職が檀家の当主から預かった古文書を拝見できる絶好のチャンスが巡ってきた。土岐承子もこの寺が集めた古文書の整理する必要に迫れていた。ここで利害が一致して岩佐の要望を受け容れた。すなわち大学構内で行っていた歴史研究サークルを多くの古文書が保管してあるこの寺でも行えるようにした。

 当然彼女はやって来たサークルの生徒をこき使うが、彼女の気品からほとんどの学生が飼い慣らされるから椹木の仕事は楽になってくる。

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